香取神宮をうろうろ(6)
 香取神宮の境内末社など・・・

 近代デジタルライブラリー - 房総叢書 紀元二千六百年記念. 第8巻 紀行及日記 この本の続きですね。本殿のまわりの樹木の話から始まります。

 本社の西に大木の杉がある。田村将軍の物見の杉と言って、将軍が異賊征伐のために参籠した遺跡であるといわれている。これは、延暦十年の事のようで、續日本紀に書かれているものであろう。当社の流鏑馬も田村将軍から始まったと神別記に書かれている。

 ふむ・・・この杉は知らない・・・斥候杉の事か?本社の西?斥候杉なら本社の東・・・誤記か?とにかく、斥候杉は明治の初めに倒れ、既に失われていますね。古い記憶の中にあるようなないような?
 
 斥候杉は・・・東だよな?西だと三本杉だが・・・近代デジタルライブラリー - 利根川勝地案内 この本を眺めていると、御神木は槇になってる?杉じゃないんだ?なかなか難しい・・・槇の木が見当たらないのは、2004年12月に大風で倒れた・・・そして、この写真を撮っている旧拝殿のあたりに倒れて、この建物の屋根を損じているようです。どうやら、幹がはっきり見えているあたりに、槇の木が寄り添うように生えていたという事のようです。

 あれ、この本には御手洗井について、二丁ばかりの東方にあるも、近年は荒廃に近しと書かれていますね。既に役割を終えて久しいのか・・・

 この本も面白いね・・・利根川勝地案内なんですが、両国から出発していますね。小名木川を経て東京湾を少し進んで、江戸川に入って流山、運河を抜けて、利根川へという航路ですね。北浦や霞ヶ浦・・・そして、野田から北へ館林とか・・・の船着き場の写真も充実していて非常に興味深い!大正7年に出版された本ですね。水上交通の衰退期ですかね・・・

 神別記・・・どんな本かね? 神別記註 本文があれば・・・この文字は読みやすい・・・田村麻呂の話はなさそうだが・・・興味深い 鈴鹿文庫 も面白いね・・・近いうちに読まなければ・・・道草ばかり・・・境内の様子を知りたいんだった・・・地理に絞らないと何処へ行くか分からなくなる・・・次の文は・・・

 次に、匝瑳殿には磐筒男命と磐筒女命が祀られている。これは経津主命の父母神である。西の方に愛染堂があって、愛染明王を安置している。ここでは僧侶が夏の間籠って修行するところである。本社の後ろの神林の中に経堂がある。建保年間に左兵衛尉平朝臣常重が宋版の一切経を納めた。その経巻は散逸して数百巻ばかりが残っているだけである。別登昇路より登るものは、この脇に出るのである。

 次にとあるが・・・物見の杉?三本杉なら、現在の匝瑳神社の位置、斥候杉なら東だから、ちょっと違うな?神秘なり・・・西の方に愛染堂・・・困った、何の西なのか?本社かそれとも匝瑳神社?まあ、西側には例の仮御本殿しかないからOKでしょう。ここに籠って修行する人がいるとのことですから、それなりの大きさを持った建物のはずで、金剛寶寺から畳替の請求が出ていますから・・・そろそろ人が出入りする時期だから、畳がボロイんじゃカッコ悪いとか・・・再三の請求のようです。

 そして、経蔵ですね。元禄13年の社殿造替に際して、20mほど本殿の位置を下げています。そういえば、鹿島神宮も同じように本殿位置を下げていましたね。とにかく、この際に、かなりの木を切っています。そして、整地して・・・社殿を造営していますね。詳しくは・・・ここで始めたら駄目ですね。後回し後回し・・・ですから、神林の中にある?って言い方か?それとも・・・現在も痕跡があるとすれば・・・同種の建物が林の中にありますね。

 本殿の裏の神林の中にあるトタン張りの倉庫?ここは、大坂の途中から入る別登昇路から分かれた道が本殿裏に出るところと思われますから、位置的にはあっていますかね?

 用途としては似ていますが・・・これまた、神秘なり・・・やはり魚眼レンズと方位磁針を使って方位角も記録しないと駄目かも?今度から、軍用コンパスを持って歩かなきゃ・・・ミル目盛りのそうすれば、簡易な測量ができて、写真に残せる?そういった仕様のカメラが欲しいね・・・方位角が分かれば、つなぎ合わせるのも簡単だし・・・平板測量だってPC上でできるはずですからね。

 しかし、廃仏棄釈前で既に一切経が流出しているとは・・・一切経全部で何巻が納められていたのでしょうかね?確か6000巻ぐらいあったような?気になるのは、森林の中って多湿で、虫だってちょろちょろ・・・経巻を保管する場所としてはあまり良い環境ではないような?となると、そこそこ切り拓かれて陽が当たる場所でないと厳しいのでは?なんって・・・三本杉の奥で、本殿の斜め後ろ・・・写真の倉庫ではちょっと奥に行き過ぎているような?そんな気がしてきましたね。近いうちに、この場所をもう少ししっかりと見てきますかね。

 と言いつつ、ちょいと作っちゃいました・・・多分、境内にあって破却されたのですからトタンの倉庫の場所じゃないですね。意匠は・・・宝庫の校倉を・・・と言っても、この写真は唐招提寺の経蔵で、屋根がちょっと違うから、これも別のそれらしい写真から合成しました。

 なぜ校倉にしたか?それは、なんとなく・・・多分、赤い柱に白い壁ではないかと思いますが・・・黒い本殿ですから・・・そして、これの方がおさまりがよさそうだったんでね。しかし、なぜ、宝庫をこの場所に建てなかったのかね?ああ、一切経の流出か・・・ここでは目が届かなかったのかね?それで、社務所に近いところに置いたか?じゃあ、やっぱり、古い別当寺はこの裏のトタンの小屋のあるあたりですかね?

 さて、経蔵がでてきたので、ここにつながる道も行って確認してきました。桜の馬場のレンタサイクル休憩所の所から、ここへ出る道がありました。右の写真の看板のちょっと先を左に入る道があります。大坂から登ってくると右ですね。

 大坂からは、神井の先にレンタサイクル休憩所の看板の所を入ればよい事になります。

 かなり急な坂で、雨の後に自転車を押して上がるのはかなり厳しいかな・・・坂を登りきると、そこには香取市郡畜産共進会器具庫がありますね。

 この畜産共進会が、この桜の馬場で何か行事を行っていたのか?それとも、鹿園の管理にかかわっているのか?ちょっと、判りませんが、一応は、この道が別登昇路かもしれないというわけです。しかし・・・違うと思いますね。多分、もう一本下の道かな。だって、桜の馬場経由で六所神社に行くとは書いてありませんでしたからね。

 この道の確認作業は・・・冬になったらね。

 前回の香取神宮の訪問では、この本にピシッと合うような写真が少なくて・・・結局、写真を撮りに行くことになる・・・楽しいな! さて、次の文に行きますか・・・

 本社の北東には勢至殿があり、そこには伊弉諾尊が祭れている。本社の東に鹿島新宮があり武甕槌命・天隠山命を祭っている。元は武甕槌命は正殿に鎮座していたが、いつの頃か神託があって、新宮を建ててここに祭ることになった。降下社(あめふりしゃ)禰宜宿館の東にあって、伊岐志邇保命を祭っている。これは天孫降臨供奉の三十二神に入っている神である。次に諏訪社があり健御名方命を祭っている。これより東に竈社(おかましゃ)がある。竈殿(へっついどの)と言って竈(かまど)の神を祭る。御炊所の守護である。これより北に50mぐらいの所に六社明神社がある。一棟に六つの扉を持つ霊社である。火の王子は素戔嗚尊、火御子社は大己貴神が祀られている。杖取社は岐神、息栖社は住吉三神が祀られている。これら四社の他に、左右雷社二社で、これを奥御前六社と言う。龍や雷というものは、植物の成長に寄与する力を持っているため、土壌鎮護の徳があるので。どの社にも祭る事になるという。昔は六社は別々の社に、それぞれの神の特性によって向きも別々に祭られていたが、後に一つの社に祀られるようになった。この場所からすこし西の方へ小道を行くと桜の馬場へ出る事ができる。

 ちょっと長いが一連のものですから、切りにくいな・・・本社の北東に勢至殿か勢至菩薩?伊弉諾尊が祭られている・・・本社の東に鹿島新宮・・・これは現在の位置と同じですかね?降下社は禰宜宿館の東で・・・禰宜宿館は神札授与所あたりだから、その東、宝物館のあたり?には無くて・・・市神社に相殿ですね。次に・・・次に?と言われても諏訪社は現在、楼門の南東にあるな。これより東に竈社と4社が並んでいるわけだな。右の図でAはサンロウ所つまり禰宜宿館で、Bは御供所で、Cは勢至殿、Dが鹿島新宮、Eが降下社、Fは諏訪社、Gは竈社という事ですかね?

 一応、きちんと収まったので満足です。Cの勢至殿は桜大刀自神社になってるのか?伊弉諾尊が祭られている境内末社がなさそうな?Gの竈社が・・・竈神は花園神社の祭神で六所神社に相殿?すると・・・楼門上の龍の御霊は行方不明?伊弉諾尊はどこへ?忍男神社へ出向か?勢至殿という名前がね?これが気になります。勢至菩薩っていうと・・・法然かいな?勢至殿・・・なんとなく仏教臭い気がしますね。勢至菩薩・・・月待ちとか関連があったような?阿弥陀、菩薩、勢至とか・・・二十三夜講でもあったか?観音経をあげるのなら・・・なんとなくわからないでもないが?

 気になると、写真など簡単に合成できるのでね・・・江戸時代の様子に合わせて境内末社を並べてみました。この写真に使ったのは左端の姿勢社のつもりの桜大刀自神社が写っているものです。その上に、楼門の斜向かいにある諏訪社を持ってきました。諏訪社が3つ・・・雰囲気はあっているのでは?竈社は残念ながら木の影になってみる事はできないのです。

 なんとなくなんですが、こういった社殿を動かした跡には常盤木が植えられているような感じなんです。気のせいなのか?

 神楽殿の跡にも、石で四角く囲われた所に・・・ここでも、それらしい場所には、常盤木がありますから・・・ここでもそれらしい場所には常盤木があるような?考えすぎかな?

 素人の良さ・・・それは大胆な仮説ですかね?さて、仮説・・・文化は、同種のものであれば古いものより、新しくより派手なものが現れると、交代する・・・神道は基本的に宗教としての教義や聖典を持ちません・・・聖典を持ち、一定の形式を持った修業によって、より高い位に登ることができる仏教は、神道に取って代わろうとしていた・・・根拠は?と言われると困るんですが・・・香取神道流ですね。飯篠君は、香取神宮の御神徳の大きさに触れて・・・なぜ、梅木山不断所へ行って兵法の修業をしたかね?多分、理由は・・・参籠所に入れなかったのではないかと思います。

 御神井で馬を洗って御神井を駄目にした飯篠の家来が死んだって、馬も死んだって神宮の方は許さないというより、参籠所は神人の領分で閉鎖的だったのではないかと、細かな規定がお上から科せられていますから・・・唯一解放されていたのが、新興でその派手さから神宮に食い込んでいた仏教系のものであったのでは?案外、梅木山不断所が早い時期に、仮御本殿を愛染堂として奉仕し始め、金剛寶院が一切経蔵で入り込み、その後、寺の方は金剛寶院が別当寺として勢力を伸ばして行ったのでは?

 案外、飯篠君が修業したころは・・・楼門には仁王さんがいて、それを入ると仮御本殿=愛染堂があって、幅を利かせていたのでは?ほとんどお寺のような威容を誇っていた・・・

 これまた乏しい根拠としては・・・別当寺が、別登昇路の先にあったらしいですからね。多分桜の馬場あたりか、それより本殿近くにあったのではないかと思うわけです。それつながりで、経蔵を境内の中に押し込んで足がかりにした・・・その後、梅木山不断所は、商業関連へ手を伸ばし、不断供養を金剛寶寺が引き継ぎ・・・別当寺である金剛寶寺の権威が確立したのではないかと・・・その時期は、飯篠君が不断所つまり愛染堂=アサメトノに籠った時期よりも後でしょう。そして、元禄の造替の後に仏教からは足を洗って、商業と興行を中心にやっていたのでは?

 さて、大宮司と大禰宜との関係なんかも気になります・・・大宮司は勅任でしたっけ?大禰宜家は在地領主って感じですかね?神仏習合で入り込んだ別当・・・坊主は?なんって気になるわけです。ただ、あまり権力闘争について考えたくないだけですけどね・・・最後は70歳の老人を30両で、隠居に追い込んで御仕舞らしいですから・・・財布を握っているものの勝ち!とか考えるから、私は学者になれなかったんです。オッカムの剃刀の使い方が悪くてね。都合よく切って、都合よく張り合わせる・・・俗物は高貴な学問に携われない事になっていますから・・・ああ、写真の切り貼りもやっるね・・・

 さて、六社神社は・・・右の写真ですね。ここには現在祭られている神は何かな?ってね。ここの木札には須佐之男命、大国主命、岐神、雷神二座、花園神社の龍神の六社となっていますから・・・竈神はどこ?

 案外、社務所のガスコンロの所にでも御札になって鎮座しているとか?重要なのは心ですから・・・

 さて・・・だいぶ様子が分かってきたぞ・・・地形が・・・って感じですね。そう、今読んでいる鹿島参詣記、この紀行文が入っている本のシリーズ 近代デジタルライブラリー - 検索結果 これって面白い、皇紀2600年記念事業・・・これに似た茨城県版とか他府県版でもあると面白いのに・・・さて、次の文・・・

 本宮の後、勢至殿の側より神林を北に出れば、桜の馬場という桜の多い所へ出る。眺望が開けていて、香取の浦・浪逆の海より、鹿島への渡りの様子まで眼下に見はらす事ができ、良い眺めである。ここから少し東へ行けば六社の前に出る。

 近頃、眺望が悪くなっています。以前は、この下は芝生みたいな感じだったような?木々は無かったか、もっと小さかったのか?近頃は、ここへ来ても遠くが良く見えません。

 全体的に、暗くなって・・・そう、明るい拝殿前から、薄暗い林を抜けて、ぱっと明るくなる、そのコントラストが良かったような気がしますがね。

 このところ、天気の良くないしっとりとした感じの景色ばかり見ているせいかもしれませんが・・・ここはもっと明るくないとね・・・只の森の中になってしまう感じですからね。古い記憶だと・・・芝生の中に細い階段が下へ続いていたような?ん十年前の記憶・・・

 戦前の絵葉書かな?まさか・・・同じ桜かね?それより、こういった見晴らしでないとね。しかし、なんで今のように鬱蒼としていないのだろうか?ちょっと気になりますね。

 それとも、今のご時世、眺望というのは好まれないのか?ん十年前は直ぐ下の田畑が見えたような記憶がありますがね。徐々に自然の森へかえっていくのでしょう・・・ここを左に行けば、六社ですね。

 さて、次の文は・・・

 楼門の前、馬場の東の方に星塚というものがある。天香々背男悪星の霊を祭る。妖星が現れると、この場所で厭鎮の祭りを行う事になっている。毎年一月十六日、的矢の祭りがある。これで、一年の星変を鎮めるという。この側から切り通しの坂を下り200m余り進むと御手洗井につく。この坂は、八坂の一つである。御手洗井から側高社へはおよそ4kmである。

 楼門の前の馬場の東の方に星塚は無いんですね・・・どこへ消えたのか?現在は1月16日の祭りの際に弓道場の矢道の中に砂を盛って星塚を作るとのこと・・・

 右の弓道場の、矢道の中央に星塚を作るのですね。久々に弓を引きたくなってきた・・・どうも、色々なものに弓を引くので問題なんですが・・・気分では・・・庭に弓道場が欲しいな・・・昔は良く引いたんですけど・・・一応は、高校の時に二段を取って・・・それからほとんど引いてませんね。

 老後は、たらたら弓を引くのも良いかもしれません。集中というのはなかなか面白いですからね。一人で静かに引くのが好きですから・・・調子が良ければ、目が悪いにも関わらず28m先の矢の矢筈が見えましたからね・・・こういったときは危ないんです。矢に矢が当たるんです・・・嘘みたいな話ですが、矢筈が壊れて・・・矢羽も裂かれたり・・・お金がかかるんです。遠的もやりたいな・・・矢を取りに行くのが面倒ですが・・・90mを飛ばすのは面白い・・・近頃は競技としては60mが標準ですが・・・

 さて、楼門前の馬場の東のはずれのトイレの脇に御神井道ってのが立っています。右側に神札などを納める場所があって、ちょっと目につかない場所です。

 私が、ん十年前に初めて香取神宮に来たのはこの参道からなんです。この道の先の左に弓道場があります。弓道場の先から下りになっていきます。右の写真のように、一応は石畳になっていて、その先は石段なんですが・・・

 石段は半壊状態ですね。山側の方は水が流れた跡で深くえぐれています。

 湿って、滑りやすい石段を下りて行くとやがて、弧座山の神社の鳥居が見えてきます。この鳥居の先を登っていくと弧座山神社へたどりつきます。

 ここを左に下りて行くとやがてT字路にぶつかり、それを右に曲がって少し行くと御神井があります。

 水は澄んでいるんですが・・・中には金魚鉢に入れるような水草がびっしりなんですね。そのため清涼感は無いんですが、かつてはここが涼しいと・・・一応は名所だったようです。

 水底の砂がすっきりと見え、まわりの草がきれいに刈り揃えられていたら・・・シートを敷いて昼寝とか良いかもしれませんが・・・ちょっとそういった事はしにくい状態になっていますね。

 昔は右のような状態であったようですが、近頃は御神井のサイズも小さくなったか?それとも土手が痩せたのか?とにかく、こんな感じです。

 ふと、古い絵葉書を眺めていると、香取神宮の森林はよく手入れされて下草などほとんどないような感じですね。これは何故?それだけ、香取神宮の森林の木材の価値が高かったのか?確かに、船材としては最高と言われていたようです。そして、高瀬舟を進水させると、香取神宮で命名してもらっていたような・・・みな香取丸とか・・・

 わ!長くなってる・・・ここで切るとしましょう。

2013.06.15 












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