東北をうろうろ(19)
 出羽三山へ・・・・5

 いよいよ合祭殿です。合祭殿で先ず何を見たかって?それは蝦虹梁の上の力士像なんです。だって・・・なんとなく見られている気がして、上を向くと・・・目が合っちゃいましたから。

 なんで、こんなところにいるんだよ・・・邪鬼か力士か・・・神社だから力士だな・・・

 参集殿でちょっと買い物をして、何を考えていたのやら?撮った写真からすると・・・鐘楼を眺めて、参集殿に入って、そこで摺り物を2枚買って・・・・

 大黒様と火除御祓の牛なんですが、そのあと参集殿の軒に掲げられている、松例祭の引き綱とその由来を眺め・・・・・・そのあと、再び鐘楼を眺め・・・合祭殿ですから、扁額を眺めるために上を向いたからだな・・・ということのようです。

 松例祭、ツツガムシに擬えた大松明を引いて焼き払う神事です。しかし、仏と神が複雑に絡み合っているような?

 あとは・・・立派な狛犬だと思ったようです。昭和36年5月に寄進されたもの・・・合祭殿をスケッチする女の子・・・とか・・・記憶では・・・

 白と赤のコントラストの中の緑の扁額と・・・その中の黒い力士・・・目に入るわけだな・・・

 それぞれの白い柱につながる蝦虹梁の上の四体の力士です。一応四体の写真を撮ったんですが・・・そのうちの一体です。

 さて、建物は・・・神社というより仏殿のような感じですね。とにかく立派なもので・・・最近の建物かと思えば・・・文政元年;1818年に完成したものとのこと・・・

 内部のピカピカの様子からはとても200年前の製品とは思えないわけです。まあ、補修を重ねているのかもしれませんが・・・

 明るい色遣い・・・重厚な屋根・・・近くからだと屋根は見えませんからね。蜂子社とかを見た後に撮った写真ですが、鏡池越しに見た三神合祭殿の写真を入れておきましょう。

 屋根の傾きがかなりきついのと、その複雑な曲面で構成された屋根があまり重さを感じさせないのでしょう。

 職人の手で作られる微妙な曲線、茅葺ならではですかね?

 しかし、この形・・・いつの時代からなのでしょうか?銅板で葺いてもこうはいかないでしょうね。

 この社殿に祀られているのは、湯殿山・月山・羽黒山ですね。ちょっと行きにくい所にある神社なので、ここでまとめて参拝できるようにしてあるのかな?

 あれ?この社殿、もとは赤松脂塗で昭和45年に丹塗りにしたって?赤松脂塗ってどんなものだったのやら?色は赤、松脂で塗られていた?どうもピンときませんね。

 まさか?ベンガラをテレビン油で溶いたペンキかいな?それだと、ずいぶんと雰囲気が違うような?これもちょっと気になりますね。そもそも赤松脂塗というのがどんなものやら?どうやら昭和45年の修復でずいぶんとバージョンアップされたのかな?もしかしたら、お竹大日堂のような表面だったのかな?

 そうだ・・・高村光雲の著作にヒントが・・・幕末維新懐古談 彫刻修行のはなし この一節に・・・
 彩色にも、いろいろあります。極彩色、生け彩色、俗にいう桐油彩色など。その彩色に属するもので、細金ほそがねというのがある。これは細金で模様を置くのである。描くとはいえない。それから金泥で細金の如く模様を描くのがあります。
 極彩色はやっぱり絵画と同じ行き方で、胡粉で白地に模様を置き上げ、金にする所は金にして彩色にかかる。生け彩色は一旦塗って金箔を置いて、見られるようになった時、牡丹なら牡丹の色をさす。葉は葉で彩り、金を生かして、彩色をよいほどに配して行く。これはなかなか好い工夫のものです。
 桐油彩色は、雨にぬれても脱落はげないように、密陀油に色を割って、赤、青と胡粉を割ってやるのです。余り冴えないものだが、外廻りの雨の掛かる所、殿堂なら外廓に用いられる。

 桐油も密陀油も、乾性油でしょうから・・・密陀油は・・・荏胡麻油に密陀僧とも言う)一酸化鉛を加えて煮沸することで、乾燥性を高めた油ですね。加熱処理によって乾燥性を高くしたのはボイル油ってのもありますね。

 ふむ・・・高村光雲の著作は色々な知識が詰まっている・・・

 右の写真が合祭殿の内部の様子です。太い丹塗りの柱、輝いています。

 欄間の彫刻は、漆の輝きが感じられませんから、多分桐油彩色なのかな?とか、今更ながら考えるわけです。

 こうなると、色々調べて、疑問を持ってもう一度行かなきゃ!なんって思うわけです。しかし、次出向くのはいつのことになるか?

 色々なものを見て、少し考えるということを繰り返すと、初見の物を眺めるにしても、より深い洞察が得られるようになるような気がします。まあ、気だけかもしれませんが・・・

 私にとって、この建物が非常に近代的なものに感じられたのは、右の写真に写っているものなんです。

 現代の工業製品に通じる、全般的な均質さ、そしてこの黒い格子の障子です。障子の直線の構成・・・シンプルなデザイン・・・この意匠で、コンクリートの打ちっぱなし、障子は白木だったら、すごくモダンな感じでは?

 これを見て、ふと思うのは・・・堆朱のすごい部屋との比較ですかね?シンプルと、目いっぱいの装飾どちらが美的か?一概には言えないけど・・・近頃の流行りはシンプルか・・・

 結局のところ、デザインというのは流行りが重要なのでしょう・・・

 この神社の集客力はなかなかですね。長い年月続くということは大変なことなのであります。

 色々眺め考えます。御利益か・・・どうも、御利益を願うことも苦手なので・・・

 合祭殿を後に、隣の蜂子社と厳島神社かな?へ・・・屋根が大きく張り出しているなぁ〜

 屋根の構造が微妙に違っているかな・・・こんなことを考えながら、近づいていくというわけです。

 神社というよりお寺の建物のような雰囲気ですね。蜂子社はもとは開山堂、厳島神社はもとは弁天堂であるとのこと・・・

 開山はこの蜂子皇子ですね。父の崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺され、馬子から逃れるために、蜂子皇子は丹後国の由良から船出して鶴岡の由良にたどり着きます。そして、八乙女浦の舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて踊っているのを見ます。皇子はその美しさに心をひかれて、近くの海岸に上陸します。

 すると、海岸から三本足の烏に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現の臨在を感じ、出羽三山を開いたそうです。蜂子皇子は出家して弘海という名を持つようになります。そして、多くの人の悩みを聞き、悩みを除いたので、能除大師と呼ばれるようになります。しかし、この代償は悩みを聞き解いたために・・・容貌は怪異なものへと・・・

 そして、この地で亡くなられ、出羽三山神社境内の墓に納められます。現在もその墓は宮内庁の管理のもとにあるとか・・・大師か・・・大師と言うと、偉大なる師ですね。仏や構想に対する尊称とか敬称ですかね。つまり、僧であったということなのでしょう。

 それで、開山堂が蜂子社か・・・本質は変わらない・・・

 建物は立派なものです。ただ・・・火頭窓が・・・禅寺のような雰囲気ですね。神社にも火頭窓があるのか?

 まあ、目立たないから・・・建物の彫刻も立派で神社に転用しても問題はないとなったのでしょうか?それとも、祀られているものの関係でOKになったのか?

 ちょっと、買い込んだ本を眺めると・・・能除太子の菩薩号を朝廷に返納して神祭にするといいうことが廃仏毀釈に関連して書かれていますね。人間の都合で格が変わるのか・・・菩薩号は文政6年7月に照見菩薩の号を朝廷から受けていますね。

 右の弁天堂は・・・弁天は仏教の守護神の天部に属しますが、ヒンドゥー教の川の女神、日本では弁才天、神道なのか?仏教なのか?なかなか厄介な代物です。弁財天とも・・・お金がらみなら・・・

 七福神となると・・・廃仏毀釈の時に七福神はどのような扱いなのか?羽黒山では・・・弁天は宗像三女神・・・市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命・・・のうちの市杵島姫命と仏教の弁才天が習合し・・・本地垂迹で同神と考えられるようになって・・・

 弁天堂は厳島神社になるというわけか・・・七福神も出自が色々で・・・どんな扱いになっていたのでしょうか?そのうちしっかり調べてみましょう。

 しかし、信仰の形を変えてしまったのですから・・・ある意味、神殺しをやってしまったような?まさか、現人神という一神教を作り出そうとしたのでしょうか?

 弁天堂・開山堂・合祭殿のつながりは美しいものです。幕末にはお堂がずらっと並んでいて、素晴らしい場所だったことがしのばれますね。

 しかし、廃仏毀釈の際には、そんなことはあまり考えなかったのでしょう。

 しかし、似たような建物なのですが・・・微妙に違う・・・禅宗様式の建物に見えるのですが・・・

 しかし、廃仏棄釈ってすごいことです。信仰が存在していて、その信仰を改変する・・・そして、その方針に合わないものは容赦なく破壊し、改変できるものは・・・たとえ、信仰の形が変容しようが無理やり改変する・・・

 あれ?ニュースを眺めていると似たようなことを、現在しようとしている?政府は新日本製鉄八幡製鉄所(北九州市)など日本の近代化に貢献した産業遺産の世界遺産登録に向けて有識者会議を設置した・・・だって?

 新日鉄八幡製鉄所って、廃止された製鉄所?もう、現在の日本経済からは引退して、今後施設の改変などが行われない工場なのかな?北九州工業地帯は、別子銅山のようにすでに操業を終えた鉱山のような状態なのかな?

 八幡製鉄所を世界遺産に登録したらどうなるの?現在操業中?新日鉄・・・私企業、現在も活動中?まさか大昔の高炉でまだ操業している?現在の高炉が最終形態で、今後変革の可能性は?2015年夏の登録を目指すということは、2015年には操業を停止させて、保存管理となる?

 私企業の持ち物ですから、その時代の生産体制に応じた変革が必要ですし、倒産したらスクラップに・・・それができないとなると・・・世界遺産に登録する!八幡製鉄所の改変はまかりならぬ!廃業?なんだか、修験道は神仏習合の最たるものであるから廃止に近いような状況かな?

 すぐ、考えが飛躍してしまいますが・・・本当にどうするのか?

 境内には興味深い建物が色々とあります。手水舎の構造は非常に気になります。鐘楼と同じ6本なしなんですが、ちょっと雰囲気が違います。

 中央の柱が太く、左右の柱は細くなっています。主たる柱は中央の、中央の柱が倒れないように支える柱と太い・・・梁じゃないね、こいつは抜けているから貫かな?三内丸山遺跡のような縛った巨木と、こういった木材を加工したものでも、基本的な構造は同じで・・・

 竪穴式住居から発展した形の壁を持った小屋の構造につながる物を持っているような?確かにこの鐘楼はそれほど古いものではないですが・・・、元和四年;1618年の物ですが・・・古い形式を引き継いでいるのでしょう・・・

 松尾芭蕉は、羽黒山を訪れていますね。涼しさやほの三か月の羽黒山・・・ふむ、6月に訪れたのか・・・6月3日・・・私が出向いたのは6月2日、1日違いか・・・しかし、月例は12だから、満月のちょっと前・・・

 残念ながら、この句の月とはずいぶんと違いますね。旧暦の3日は三日月ですからね。

 今の暦なら7月の中旬の終わりころですかね。この頃の月山の山開きは?なんってちょっと気になります。

 ああ、月山に登っていますから、6月1日が山開きだったのかな?まあ、そうなるのでしょう。

 しかし、昔の人は健脚ぞろいというか・・・多くは、それしか手段を持ちませんから歩いたのでしょうね。

 私も、車で出かけていなかったら、ちゃんと下から階段を登ってきたと思うのですがね。

 この像がある天宥社の向かいに、蜂子皇子の墓があるとのこと・・・蜂子社の案内板の文言が・・・皇子の御墓所は、宮内庁の所管で天宥社前を通り正面にある。とのことなんで、天宥社前を真っ直ぐに進んだら・・・駐車場へ行っちゃったんです。残念ながら、墓所は見ずに終わりました。

 案内板というのはなかなか面倒な物です。おぼろげな記憶では、何本かの杉の木が生えているところを玉垣で囲った場所があったような?どいやら、この場所が蜂子皇子の墓なのでしょう。

 何事にも先達はあらまほしきことなり・・・事前の調査が不完全ですから、仕方ないのです。さて、今度は湯殿山へ向かわねば・・・ 

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