東北をうろうろ(17)
 出羽三山へ・・・・3

 羽黒山の自動車道路を目指すのですが・・・金色堂?こがねどう?ってのがあるとのこと・・・時間に余裕があるのでちょっと寄ってみる気になりました。車をいい加減に走らせると、なぜかちゃんとたどりつくのが良いものです。まあ、道が単純というのもあるのですが・・・

 羽黒山正善院黄金堂は、羽黒山の上にある三神合祭殿が大金堂で、それに対しての小金堂で三十三体の御本尊が金色に映えるので黄金堂=こがねどうというのだと・・・

 右の写真が山門です。写真を撮った場所の道を挟んで正善院の門があって・・・なんとなく興味深い配置になっているなんって・・・つまらぬことを考えてしまいます。

 道というのが境内を横断すると雰囲気がずいぶんと変わるものです。

 そういえば、鹿島神宮の中の道も明治時代の初期にずいぶんと付け替えられていましたっけ。本殿の近くの道が少し離され・・・そういえば、この道の跡の発掘調査結果はどうなったのやら?

 近いうちに図書館に出向いてチェックしないと・・・

 さて、なかなか立派な山門で、仁王様も立派でした。どうも仁王様の写真は上手く撮れません・・・

 写真に写っている鋳鉄製の鍋は、弁慶の粕鍋・・・蒙古襲来のときに、羽黒山上に敵国降伏祈願の大梵鐘を作ったときに調製した3つの鍋の内の1つで、武蔵坊弁慶がこの鍋で粕汁を煮て飲んだとのこと・・・修験の湯立神事に使ったものでは?との説もあり、昔は釜堂に祀られていて、釜の神とか釜堂大明神として崇められていたそうです。

 ふむ、器物も神になるのか・・・

 釜用の独立した御堂があったか・・・どんな大きさの御堂だか?ちょっと気になりますね。ちゃんと人も入れ、中で火も焚けるようにようなら、湯立神事に使われていたのでしょうが・・・現在の状況では・・・それに、この釜は破れていましたから、かつては湯立神事に使われたものの、役割を終えて保存されているという感じなのでしょう。

 さて、右の写真が境内の様子です。右の赤い御堂がお竹大日如来ので、正面が黄金堂です。

 建物が黄金じゃなくて、中が黄金なんだそうです・・・お竹大日堂はなかなか凝った細工の建物です。

 このお竹大日如来というのは・・・元和寛永のころに、江戸の佐久間という家に、竹という下女がいました。この竹は信心深く、言いつけを良く守り、食べ物を大切にし、自分の食事を減らしてまでして、貧しい人に食べ物を与えそうです。

 武蔵国比企郡に乗蓮という行者がありまして、生身の大日如来を拝みたいと思って出羽山に何回も通います。あるとき、いつもの玄良坊に宿をとり、夜、「私の姿を見たいのなら、江戸へのぼって佐久間の家の竹というものを探し、竹を拝むように」という不思議な夢を見ます。

 乗蓮は大日如来の託宣と信じ、宿の主人の玄良坊宣安を伴って、ただちに江戸に向かいました。江戸で竹を見つけ出して、竹を礼拝しました。すると、竹の体は内から光で輝きます。二人は竹を何度も礼拝し、感激して帰っていきます。この日から、竹は部屋に籠もってもっぱら念仏三昧の日々を送り、寛永15年3月21日、亡くなったそうです。

 竹の死後、佐久間の主は等身の像を彫らせて持仏堂に納めて、供養します。後に、羽黒山黄金堂境内に、仏殿を建立してその像を安置し、玄良坊に管理を任せます。まあ、こんな縁起を持っているんです。


 この御堂を眺めていたら・・・また、裏が気になってしまいました。正面から中をのぞくと三体の像があるんですが、背面の庇よりも前、身舎と背面庇の間に幕が引かれていて・・・その後は?物置に使われているのかもしれませんが・・・ちょっと気になるわけです。

 右の像がその大日如来です。素晴らしく光っている像なんです。天蓋も眩いばかりの金色で・・・胎蔵界大日如来?両脇は?阿弥陀如来?観音菩薩?よくわかりません・・・学ばねばならないことが山ほど・・・

 崇敬の現れなのか?荘厳なものであります。ふと、御利益に比例して荘厳さが増すのか?それとも、荘厳さが御利益を・・・

 信仰心に欠ける人間はなぜ?という疑問を持ってしまいます。無心になれないのです。竹は純粋なんですね。

 このお堂の中のもので写真には写っていないのですが、左の壁際に何やら、むしろとかそういったものを織るときに使うような道具が置いてありました。

 なんとなく違和感を・・・でも、鋳鉄の釜も神格を持つようになるのですから、何か非常にありがたいものなのかもしれません。

 凡夫には理解しがたくても・・・

 境内にはもうひとつ気になるものが・・・閻魔大王・・・地獄の十王のうちの三方?それとも閻魔大王と書記かな?書記官なら・・・司命と司録ですかね?それとも・・・閻魔大王と太山府君と五道転輪王・・・

 なかなか良い顔をしています。しかし、この正善院というお寺の構成は、廃仏毀釈で大きく様変わりしているようです。

 羽黒山絵図ってのを出羽三山神社歴史博物館で購入してあったのでそれを眺めると仁王門の位置も違うし、大きく姿を変えているようです。現在の道路になっている部分って、かつては境内の広場状になっていた部分なのでしょう。南の方の仁王門を入ると、右に大日堂・釜堂・鐘楼が並び、左には大黒堂と正善院が、正面に大きな鳥居、右に、お竹大日堂・愛染堂・弥勒堂・黄金堂という感じでしょうね。

 この閻魔像は?今の場所か?地蔵尊は黄金堂の裏手あたりにあった焼場のか?歴史的な変遷を知りたくなりますね。どのように、この地が発展して・・・現在の形になったのか?その間の信仰の変遷、そして、霞場とか・・・興味は尽きません。

 色々と考えながら・・・黄金堂へと向かいます。不動明王に観世音菩薩か・・・このお寺さんは幟が好きですね・・・確かに賑やかな感じで、縁日の雰囲気が・・・露店がないのがちょっと残念・・・まあ、買い物はしませんが、露店って魅力的ですから。

 黄金堂の壁には、張り紙があり・・・

淋しいのは心に仏がいないから
苦しいのは心に仏がいないから
悲しいのは心に仏がいないから
それ諸仏の事業は大慈を以って先とし
菩薩の行願は大悲を以って本とす
慈よく楽を与え、悲よく苦を抜く
抜苦与楽の基 人に正路を示す也
特に慈眼衆生は当山本尊正観世音菩薩の本誓であり
その仏誓は深きこと
海の如しであります

 ふむ・・・仏が心の中にあれば・・・

 観音像の前に鏡がありますね。そして、その前に不動明王が、左右の脇待は・・・とにかく金ぴかの仏像が33体・・・見える範囲で8体ほど・・・この日は、中央の戸しかあいていませんからあまりよく見えません・・・

 戸は中央の左右にもあるのですが・・・開扉されるのはいつなのか?入堂参拝の方は、正善院に申し出ること・・・

 信仰心のない人間には敷居が高くて・・・信心できると良いのですが、知的好奇心はなかなか信仰心につながりません。

 心に仏があるなら・・・淋しくも、苦しくも、悲しくもないのでしょうが・・・凡夫の悲しさ・・・

 ふと、江戸時代の人にとっての愛の概念はどのようなものだったのか?そんなことを考えてしまいました。淋しさ苦しさ悲しさ、対立概念は・・・とかね・・・

 江戸時代の梵鐘ですかね?鐘の上部・・・笠の部分に旗挿でしたっけ?筒状の突起があります。こういったものに興味があるんです。

 南北朝以降、朝鮮の鐘が輸入されるようになると、日本の南の地域から、この旗挿ってのが流行って・・・と言っても、中国の古代の鐘には同じようなものが付いていましたね。甬って言いましたっけ?

 銘がありますね。江戸神田鍋町鋳物師片岡伊左衛門か・・・神田駅の東側には金物の町がありますね。今も、たくさんの金属関連の会社が軒を連ねています。

 老舗と言えば・・・徳力本店ですね。享保12年;1727年、幕府より金銀の改鋳事業をはじめています。そして明治4年;1871年の新貨条例の中、なぜか生き残り・・・現在に至る会社です。金の地金などは、お金がないので手にすることはないのですが・・・神田って、職人町でしたから・・・

 寛政10年ごろには、江戸市中での鋳物の鋳造について大きさ制限が出たようです。これで、江戸市中では巨大な鋳造物が作れなくなります。贅沢品の禁令に関連してでしょうか?ちょっと前には富士講などの禁令が出たり、寺社の建立ブームがあったり・・・

 さて、この旗挿ってのがつくと何が変わるか?旗挿の長さで決まる固有振動があるでしょうから、鐘本体の振動との間で、干渉が起こって、複雑な唸りを生じてもおかしくないと思うのですが?大差ないかも?でも、こういった意匠というのは流行りがありますから、ついていないと新鮮味に欠けるとか言われたりしたのかもしれません。

 文化を特徴づけるものって・・・ある意味、実用品にくっついた非実用的な部分なんって言えないこともないですからね。

 寺社は、文化装置として最先端のものだったのでしょうから・・・金色堂を後に・・・羽黒山へ!

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