東北をうろうろ(11)
 えさし藤原の郷にて・・・・

 藤原の郷ってテーマパークに古代官衙の復元があるとか・・・こうなると、目的地に化けちゃうんです。テーマパークはあまり期待しないのですがね。

 でも、入口は立派な感じがするんです。この施設は大河ドラマなどのロケ地としても利用されているとのこと・・・違った、ロケ地がそのままテーマパークになるように作られたのかな?「炎立つ」とかNHKの大河ドラマ・・・平安初期から鎌倉時代に至るまでの・・・

 歴史公園えさし藤原の郷 平泉の原点はこの地にある…これが公式サイトですね。

 さて、入場料は800円、郷土文化館との共通券だと900円とのこと・・・共通券900円を購入して眺めてきました。

 普通に回ると2時間ぐらいかかるとのこと・・・

 こりゃずいぶんと歩くのかな?なんって・・・ちょっと気になります。入ってみると、牛車があったり、なかなかおもしろそうです。

 しかし、牛車はサスペンションが悪そうですから、乗り心地は良かったのか?気になります。きっと、首が疲れるのでは?まあ、牛の歩みですからそれほど揺れなかったのかもしれませんが・・・

 そして、お目当ての古代の館衙・・・右の写真が正殿からの庭の眺めです。いつの時代の官衙をモデルにしているのやら?

 まあ、平安時代でしょうかね?時代考証はどの程度行われたのやら?陸奥の国の国府なら、多賀城か・・・多賀城の遺構は発掘されていましたね。

 確か、貞観地震でしたっけ869年に起こった地震で、多賀城は大きな被害を受けていたとか・・・東北地方太平洋沖地震に匹敵する地震が起こったようです。

 この頃の多賀城の正庁の左右に東西の楼を持ち、右の写真と同じように東西の脇殿があり、その外を築地で囲まれたみたいですから、正殿の左右に伸びる翼の部分がちょっと違うのかな?正殿の雰囲気はOK東西の脇殿の間隔が狭いので、当時の庭に比べると幅が狭いことになるのかもしれません。

 この建物のモデルになった多賀城も津波の被害を受けたのか・・・

 この建物群、結構面白いかも?大勢で当時の服装をして闊歩したりして・・・といっても、鹿島神宮などでは、いまだに大宮人さながらの服装で神職が歩いていますからね。

 鹿島神宮の儀式などで歩く人たちって、かなりの速度で歩くんです。印象的でしたね。

 まあ、こんな感じの建物が、国衙、郡衙などに立ち並んでいて、庶民は竪穴式住居に住んでいるわけですから・・・なかなかすごい格差社会であったのか?なんて思えますね。

 時々気になるのですが、竪穴式住居に住む人々が、どんな具合に調布を織っていたのか?長さ5丈2尺・幅2尺4寸ですから、幅が70cmほどの反物になりますかね?古墳時代にはすでにフレームを持った織機が現れていますから・・・そういったものが、どんな場所に設置されていたのやら?竪穴式住居って、中が暗いんじゃないかと思いますから・・・

 明るくて、屋根があって、作業場として適当な場所って・・・この手の倉庫だって、基本的には開口部が小さいので明るくない・・・

 案外、こういった倉の下の空間が作業場になっていたのかもしれません。たとえば、倉に納めるための稲穂の束など倉の下で乾燥させて、倉に納めたとか・・・こういった空間って結構重宝したのでは?いくつか学説がありますが、用語としては倉下とかいうのがあって・・・これが倉の下なのか、倉の出入り口の下の作業スペースを言うのかはっきりしませんね。

 この倉下、倉の下でも、倉の入り口の下に掛けられた庇のような屋根のある空間でも、倉に付属する作業空間が存在したようですから・・・案外、こういった場所が明るくて乾いている空間で保管や作業場として使われてもおかしくないような?

 そういえば、鹿島神宮の鉄筋コンクリート製の宝物殿、高床式に作られ、その下には掃除道具などが置かれたりしてますね。人間というのは、基本的に合理的にできていますから、利用できるものは何でも利用するのでは?なんってね。

 東大寺の正倉院は床下の柱は2.5mほどあるようですから、ふつうの作業空間として使えそうですし、東大寺の正倉院の建物は3つの倉から成り立ち、左右の校倉と、その間に板倉があります。案外、この板倉の部分は屋根と床はあるが、壁はない空間であったかもしれませんね。構造としては、吹き抜けになっていたのではないらしいですからね。

 穀物や什器はなどのものを保管するには、冷暗所で乾いている事が必要ですが、乾かす作業や、分類する作業には十分な光が必要で・・・ちょろまかされないように良く見える場所が必要ですから・・・

 そういえば、神社の構造に見世棚造ってのがありますね。小さな神社の建物に見られるやつ・・・あれなんか上の倉庫の階段の下に、板張りの舞台のような作業スペースと、それを覆う簡易な屋根があれば・・・似てないかな?なんてね。古代人だって今の人間と知識量は違いますが、同じと考えてよいのですから、何かの作業を行っているとそれなりの工夫や応用ができるようになります。伝統の中で培われたものを馬鹿にしてはいけませんからね。しかし、高床式の倉庫があまり使われないようになれば、使い方という伝統は途切れてしまいます。技術などの伝承って、まるで同じことを世代の中で何回か繰り返されていないとなくなってしまいますからね。

 ああ、正庁の南門ですが、かなり規模が小さいのかな?門から東西に50mずつぐらい築地が続くはずですからね。

 そう考えると、当時の役所って非常に壮大なプランで建設されていたのだと思うわけです。

 東西100m南北120mの方形に囲まれた中に、主要な建物があり、ほどほどに離れた場所に正倉が立ち並ぶ区画があり、物流の中心でもあり、当然商業や工業・・・中心は軽工業でしょう・・・織物や農水産加工、武器の製造、鍛冶屋とかも軒を連ねていたのでしょう。

 何しろ、中央と直結した文化の中心ですからね。地方官吏の養成もしているでしょうから、学校の役割も役所や寺院が受け持ち・・・

 往生要集などを読むと、当時の庶民は地獄と極楽の間の地獄に近い生活をしているのでしょう・・・煮しめたような麻の着物を着て、安定した食事をとることはあまりなく、日々の暮らしで疲弊し、平均寿命は短く・・・住む家は竪穴式住居、白木を使った建物ではなく、大抵は皮のついた丸太構造の簡易な建物に住み、布団を持たず藁などの間にもぐりこんで眠りにつき、煙のこもる住居の中で起居し、少しすすけた体をして・・・

 往生要集の説明する極楽って・・・卑しいものが王宮に入ったようなもので、音楽が流れ素晴らしいものを着て、黄金の輪やヒスイの簪を挿し・・・とにかく整然としてきれいな場所を示しているようです。

 そのような建物として、右の写真のような丹塗りの柱と白い壁、直線的な建築プランで構成された場所・・・これは極楽の縮図では?

 そして、都はどんなにすばらし場所なのか?と想像するのでしょう。現在でもスラックスにYシャツ、ネクタイをしてるだけで、正装と言われるような場所だってあるんですからね。困ったのものです。

 さて、時代が下って武士の館を眺めると・・・田舎くさいな・・・って感じになります。

 武装集団の館ですから、目的が違いますがね。しかし、荘厳さは感じられません。ちょっと気になるのが、製材された板って、経清の館ってやつですが11世紀の豪族の館とか・・・

 のこぎりで材料を切るようになるのが鎌倉時代、製材用の縦引きのこぎりが使われるようになるのは室町時代でしょうから、この時代では板は高級品・・・良材をくさびで割って板を作る時代ですからね。

 外周防御はこんなに立派なものではなかったのでは?鹿砦とかいわれる木の枝とかを、角を振り立てる鹿の角のように並べるやつとか・・・皮もむかない丸太では?なんって思うわけです。

 この手の外周防衛でどの程度の効果があるのやら?なんとなく、簡単に燃えてしまいそうな気もしますが・・・門の上部が外側に張り出していると、火をかけた荷車などを押し付けると薪を出しているようなものに見えるんですが・・・そういったことを避けるために、虎口とか枡形とかいうものが考えられていったのでしょう。まあ、虎口などは中世以降のものでしょうから・・・この時代はどんな防衛線を構築していたのやら?

えさし藤原の里は続きます。

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