東北をうろうろ(3)
 恐山から・・・
 被災地を抜けて今回の最初の目的地として、恐山と大間を目指していたんです。途中、自然災害というやつをずいぶんと考えさせられてしまいました。

 南三陸町を抜けて45号線を進もうと思っていたのですが・・・なぜか、記憶がかなり曖昧になって、21時ごろに釜石に到着したようです。ここで給油して再び北上です。これからなぜか遠野へ行っちゃって・・・

 遠野から宮古までの間で、夜道に鹿を3頭見かけました。たぶん、間違いなく鹿・・・車もあまり走っていないし、それにしても野生動物が身近になっていると言うことはどういうことなのか?ちょっと、気になります。案外、人間の領域が狭まっているのではないか?そんな気がします。夜道を時々休みながら45号線を十和田方面に進み、4号線で七戸、そこから小川だな・・・

 たぶん6時過ぎかな、むつ小川ウインドファームってやつに出くわしました。巨大な風力発電機がたくさん回っています。この電力はどこへ行くのやら?

 目的地の恐山が少しずつ近づいていきます。そして、給油記録によれば7時20分に下北半島の中央部最も狭いあたりに到着しています。この調子なら、8時ごろに恐山に着きそうです。神社仏閣って早いところは日の出のころから開いていますが・・・恐山は何時ごろ?ちょっと気になるわけです。

 恐山へは過去、3回かな?行っています。1度は昼前ごろで、中に入って一回りしましたね。次に行ったときは、夜の8時ごろ、トイレに寄っただけ、ああ、それから50ccの原チャリででちょっと出かけた・・・昼間に2回行っていて、少しずつお堂などがきれいになっていっています。しかし、イオウの雰囲気の中、金属は持たないところですから、常に改修を重ねないといけないのでは?なんってね。

 予定通り、8時ごろには恐山の参道へ到着します。ここからは簡単です。この道路、どうやら大正6年から13年の秋までかかって自動車が走れるように広げられたものが整備され、今に至るようです。ここにある124丁の標柱から始まります。この標柱は安政年間のものかな?それまでは細い道だったのでしょう。

 この看板にも現れる南部地方なんですが、青森は津軽と南部・・・まあ、江戸時代の南部藩の支配地というわけですが、南部の下北郡・・・南部鉄瓶と言うと奥州市あたりですかね?盛岡藩主の南部氏・・・三戸南部氏で、八戸や七戸のあたりは分家ですか?東北雄藩が押さえた場所なんでしょう。こんな北の地に南部とはちょっと気になるわけです。

 この南部・・・ちょっと地域が広くて・・・南部といわれてもね。あとで南部藩も研究してやりましょう。

 さて、恐山は宇曽利湖を取り巻く外輪山の総称ですね。東北地方の宗教界の大立者、入唐八家の一人の円仁、慈覚大師・・・エドウィン・ライシャワーの 『円仁唐代中国への旅 「入唐求法巡礼行記」の研究』でも読むかな・・・とにかく、このお方は超人でして・・・1日に軽く40kmを踏破し・・・慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は500を超えるとの話・・・仏閣再建・建立のプロフェッショナルなんです。

 円仁は貞観6年(864年)、比叡山で没しておりますが、それに先立つ貞観4年(862年)の開山とのこと。この恐山・・・お寺としては「恐山菩提寺」本坊はむつ市にある曹洞宗円通寺・・・恐山とはどんな歴史的な位置づけがあるやら?こいつもいずれ研究せねば・・・

とにかく、行ってきました。なぜ?行ったか?わかりません・・・ここに出向くときはいつも、なんとなく・・・宗教的な人間で無いので救いとかそういったものには無縁・・・でも、なんとなく・・・山岳信仰のようなものが向いているのかもしれませんが・・・拝観できる時間は朝の6時から夜の6時までとのこと、8時をちょっと回ったぐらいでしたから、拝観できるかどうかちょっと心配しましたが、杞憂でした・・・お坊様は朝早いのであります。

 清浄な雰囲気・・・硫黄の蒸気で滅菌?下らないことばかり考えています。硫黄の蒸気は滅菌作用はあるのか?ちょっと気になります。

 サトウキビの束を一度硫酸につけて、それをぶら下げておくと空気中の酵母菌が付着して発酵が始まる・・・そんな話を、どこかで仕入れた記憶が・・・

 海岸の小屋のバッテリー置き場・・・亜硫酸ガスの雰囲気の中では、木の腐りが早いような?色々と考えるわけです。とにかく500円払って総門を入ると・・・

 美しい景色が待っています。「地蔵と共におわす故に浄土なり」か・・・地蔵菩薩がおわす限りは、地獄もまた浄土かな?下らないことばかり考えています。

 右の写真の正面は山門、左は手前が無漏舘、先が本堂です。右に広がるのは寺務所です。供養の道場の本堂が山門の手前にあるわけです。そして山門を抜けた先には、祈願祈祷の道場の本尊安置地蔵殿があるわけです。

 さて、ここで気になるのは本堂と地蔵殿の関係ですね。本堂の背には地獄が広がり、その先に宇曽利湖そして外輪山の山々が連なります。このお寺・・・基本的には本堂を中心とした部分と、地蔵堂の部分が別の空間になっているのでしょう。なぜそうなるか?それはよくわかりませんが・・・

 一般的に、お堂を回って願をかけるときって、確かお堂を右回りに回るのでは?すると、地獄の参拝経路は案内パンフレットとは逆かな?とか、またまたおかしなことを考えてしまいます。

 ちょっと、不思議なのはインターネットの中を眺めても、恐山に関する情報が少ないような気がするのです?まあ、普通の意味の観光地とはちょっと違ったところなのかもしれません。

 とにかく、右の写真が本堂です。これが供養の道場で本尊は釈迦如来とのこと・・・

 ふと気になるのが恐山の名を高らかしめたものは何か?あとで大間のスーパーで、四国の商品がずいぶんとあったのが気になります。今は地上交通の時代ですが、案外、昔の海上交通の威力がこの辺境の地、恐山の名を高めたのでは?なんてね。

 入ったのですから、地獄をうろうろと順路に沿って回ってきました。山に囲まれた盆地と言うのは不思議な空間です。特に、硫黄を多くふくみ白い色をした砂と空の青さ、そして山の緑は強烈ですね。

 残念なことに、写真はあまり撮れませんでした。心の中に焼き付けたから別にかまいませんが・・・私は大悪人ではなさそうです。恐山の入り口にある橋を渡れましたから・・・まあ、車に乗って正しくは隣の橋を渡ったのですから・・・

 そうだ、先ほどの順路ですが、古い本では・・・この太鼓橋あたりから話が始まります。悪行を積んできた人には、この太鼓橋が針の山のように見えて、渡ることができない・・・ここの近くから煙が上がり畜生地獄があり、鬼石が背後から襲うような恐ろしい場所であるとしています。駐車場の手前にあって今では気にもかけないものですがね。

 そう、この話と同じようなものが高野山にもありますね。太閤秀吉が夜中にこっそりと試しに渡って、ちゃんと渡れたので翌日の昼間に堂々と渡った・・・そんな話もありましたね。今度は高野山方面にも進出してみますかね。

 とにかく、この火山性のものてのは噴気活動の消長で地獄も色々変化するようです。色々調べるとさまざまなものが出てきます。この恐山の別当寺の円通寺は五霞村の東昌寺の末寺とか・・・下総国葛飾郡山王山村東昌寺ふむ・・・昔の話なのでしょうが、遠隔地との交流がしっかりとあったということはすごいことです。

 しかし・・・山岳信仰と考えて、どの山が中心になるのか?それも気になりますね。正面にあるのは大尽山ですが、嶽大明神としては釜臥山とのこと・・・まあ、恐山と呼ばれる山の中の最高峰ですから・・・ここには天狗も住んでいるとか・・・今は自衛隊ですかね?

 昔は、恐山の湯を用いて作られた花染餅なるものがあったとか・・・今は無いのか?昭和の初め頃の菓子なのですが気になります。

 ふと、私は古い本の中に存在するのかな?なんってね。こういった霊場も時代と共に移り変わっていくのです。また、色々調べて恐山に向かわねば・・・ふと、思うわけです。

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