ネットの中をうろうろ(17)
  中朝国境に何が・・・(17) 會寧から・・・會寧に戻って
 
 會寧から中朝国境沿いに線路が続いています。どうやらこれは会寧炭鉱線のようです。会寧青年駅からおよそ11km離れた遊仙駅(かつての鶏林駅)を結ぶ鉄道路線でしょう。さて、鶏林・・・慶州の方が有名なんで検索が困難・・・炭鉱の情報から・・・鶏林炭鉱は會寧線鶏林駅から2km、鳳儀炭鉱は會寧線鳳儀駅より軽便鉄道で4kmの所にある。豆満江流域経済事情によれば、この會寧炭鉱線は、會寧から鶏林への引き込み線とのこと・・・

鶏林情報を探していると、ちょっと面白そうな本が出てきました。関係ないんですけどゆっくり読んでみます。朝鮮童話集

 なにか、面白い情報が童話の中に隠れているかもしれません・・・歴史法学なんかも学んだことがあるんでね。・・・・資料をいじっていると・・・會寧の1945年頃の地図が出てきました。というわけで、ちょっと會寧に逆戻り・・・會寧を英語で調べなかったのが敗因、外務省とかの資料を見て、そちらが中心になっていましたからね。鏡城から會寧までの調査とか・・・北韓吉林旅行日記 その1こんなのも作り始めちゃいましたし・・・

 さて、右のような古い姿を残す會寧の地図が手に入りました。そしてちょっと気になるのは、會寧も舞台に登場する小説があるようです。本文に当たっていない孫引きなんで、ちょっと気になるのは・・・、辻井登氏の「韃靼の馬」タタールか・・・モンゴル帝国も興味があるんです。遊牧民がいかにして大帝国を構築したか・・・まあ、そのうち研究してみましょう・・・で韃靼の馬で會寧は1里四方の町で、高さ12尺の城壁に囲まれていた・・・四方に2つずつ8の門があった。哥老会って地域限定型の秘密結社もあるとか・・・秘密結社・・・清国情勢及秘密結社 1とか、興味深い文献が・・・と、興味の連鎖は果てしなく・・・こんな文献を調査して、歴史的な裏付けを取るだけで、修士論文が書けそうです。まあ、そのうち・・・

 韃靼の馬で紹介されている會寧、1里四方の町・・・この1里が曲者、朝鮮の1里は400mほどです。中国の1市里が500mで、公里が1km・・・したがって、旧市街は400m四方のようです。

 さて、地図を検討しましょう。さて、400m四方の旧城区画はどこなのか?右の地図に近いところまで、2002年の市街地を削ってみたのもをロールオーバーさせてみました。ちょっと、削りすぎたりしましたが・・・削った所の地形は別の所のものですから、気にしないでください・・・まあ、雰囲気ですかね?軍事基地の部分の区画割りは、昔とほとんど変わっていない感じです・・・。現在は大学とか体育館があるとか・・・

 ふと・・・紙の限界というものがなんとなく・・・たとえば、論文であるとか調査報告書というのが・・・今、私が記述しているような形になるのではないかと・・・論文を読み解く場合、参考文献一覧の文献を参照しながら読み解く必要が出る場合があります。今、私が書いているものでは、外部リンクになってますから、リンクは切れる可能性があります。著作権にかかわるのでできませんが・・・たとえば「韃靼の馬」という本を持っていて、その対象個所をデータとして内部に持ち、引用文献が読める状態、地図や変遷なども・・・ロールオーバーであるとか、動画を利用するとか・・・

 ああ、とりあえずの形としてはWikiPediaの項目のようなもので、論文が発表されるようになるのか?文部科学省のプロジェクトか何かで、基本的な論文のフォーマットを定め、リンクの規約と、添付ファイルの形式などの概要を決めて、研究者に登録させて、論文を発表させる・・・営利目的ではない、研究・教育用だから著作権の範囲外・・・有益な論文を発表し、多くの人の支持が得られれば、それなりの称号が与えられるとか・・・事実上の研究機関としての大学の位置付けが変わる可能性が・・・

 なんだか・・・こういった、新しいタイプの大学を作ってみたくなりそうな・・・また脇道にそれた・・・さて、中心街は・・・

 會寧の中心街は?地図の街道が中心のようです。真ん中の通りをはさむ部分が中心区画、大正12年に、北の城壁を壊して市街は一新とのこと・・・吉会鉄道関係地方調査報告書. 第1輯 (一般経済)によれば・・・しかし、北の城壁って北東?北西?どちらだろう?

 下の軍事基地区画は、歩兵第75連隊、右の写真の工兵第19連隊、衛戍病院、憲兵分隊、陸軍倉庫、師団経理部派出所、偕行社などがあったとのこと・・・上の地図の6が憲兵派出所とされています。10が本町通り、11が銀座通り・・・歩兵兵舎は三城演習地にもあったとのこと、地名が分かっても所在は・・・会寧から行営街道を進んで台地の上の右のあたりか?そして、歩兵連隊には重機関銃隊もあるし、92式の大隊砲が昭和16年ごろに配備され、だから厩舎もあるし・・・

 さあ、どんな並びなのか?寺院の区画などは気になるんです。というより、地図の1の上の方に仏教寺院とあるので、その場所が・・・、會寧を眺めたときに気になったやつがあるんです。屋根の形が特殊・・・しかも2002年に無くて2008年には存在する・・・雰囲気は・・・お寺、なぜ?気になっていました。寺にしか見えなかったので・・・右のやつです。カーソルを持っていくと比較が可能になります。

 しかし共産圏では・・・宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片である。として、人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。なんでね・・・ただ、お墓近くの祠が再建されているように見えたのと同じように・・・お寺が再建されたか?と気になってはいました。

 まさか・・・政策が変化したか?宗教的なものや、古いものに対する郷愁が生まれ始めたのか?これって、ある程度豊かになって贅沢が許されてきていることを意味するのか?なんって・・・

 案外、国際都市としてさまざまな宗教の礼拝所を準備中とか?ちょっと気になるわけです。孔子廟の方は不明・・・ 42°26'29.16" N 129°44'56.97" E このあたりにそれっぽいものがあるのですが・・・なんとなくですが、宗教は正面からは見えないように隠されていたが、それほど弾圧されていなかったのでは?そんな気がします。

 すっぽんの形をした鰲山は霊園ですね。市街と駅の間には、鉄道労働者の住宅がある・・・地図の6の教会はちょっと分かりません。ゴシック建築の壮麗な教会は少なくとも無いですね。宗教的な建物って、都市に荘厳さを与えますから・・・さあ、どうなるのやら?

 さて、會寧の調査の中で・・・中国が中朝国境に鉄条網を張り始めた・・・こんなニュースがありました。多分・・・密貿易の禁止の方針を打ち出してきたのではないかと思われます。脱北者の情報を拾ってみると、重犯の連中が多いようです。すると・・・亡命目的ではなく、単なるお金儲けのようです。簡単に粛清されてしまうのなら、重犯は無理・・・・

 鉄条網は・・・多分、密貿易体制からの脱却・・・関税はもうかるから、投資に見合う商売となったのではないかと思われます。よって・・・農産物よりは、もうちょっと値の張る商品が移動している可能性が高いと思うのですが・・・日帝時代も、冬期の税関は機能しにくくなっていたような感じですから。目次に続くものや、市内埠外ニ於ケル課税問題ニ関シ在局子街分館主任ヨリ報告ノ件 同とか、史料は色々とあるような感じなのでね。

 まだまだ、国境線の観察は続きますから、そのうち資料が出てくるかもしれません。そのときは、そのときですね。さて、會寧を発つとしましょう。
(2012.11.29)

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