ネットの中をうろうろ(16)
  中朝国境に何が・・・(16) 會寧 さらに続き
 
 庶民のエネルギー事情は?こいつが読み取りたいものなんです。可能性があるのは石炭、錬丹、コークス・・・薪や木炭はあり得ないでしょう。灯油は?これは、輸入量から困難、石炭液化燃料は・・・これは不明、戦前の研究がどれだけ実を結び発展したか?これが不明・・・

 會寧の農業は・・・平地の稲作ですかね。北緯42度、稲の北限は?なんと・・・ウラジオストック近郊のハンカ湖畔やちょっと前にアムール川北岸のユダヤ人自治区でも稲作が行われていたとのこと・・・確かに、朝鮮総督府のデータの中にも會寧近郊の米の相場に言及している資料がありましたっけ・・・まあ、北海道でも、禁止された稲作を隠れてやって、適合品種を見出した徳農家がいますね。石狩赤毛だったかな?記憶が・・・まあいいや・・・

 生物は偉大なものです。変なやつは人間でも稲でもいるものです。しかし、このあたりの稲作の伝統はどうなってるのでしょうか?これも気になります。空中写真のデータは4月と12月なので、その中間の様子が不明・・・しかし4月の状況をみると、これって苗代ですよね。そして、上流には貯水槽のようなものが・・・まさか、温め?かいな?てっきり水道用のものかと思っていましたが・・・案外、治水工事、高水工事によって水温の低下があったために、急遽導入されたとか?・・・なんとなく・・・前世紀の末から、今世紀の初めにかけての、北朝鮮の視察があったような?気のせい?

 まあ、目で盗むのは泥棒とはあまり言いませんから・・・私も、目で盗む技を教えて来たつもり・・・そうだな・・・日本の誇る寒冷地での稲作を教えてくれと、頼むのでなく、寒冷地でも育つジャガイモの日本での栽培技術の視察と指導を願いたい・・・こう来たら?明治時代に、寒冷地作物として導入したジャガイモ・・・OK、目で盗んだのは?実は稲作とか・・・数年間の視察だったら、まわりを眺めていれば、苦労している専門家なら・・・ばっちり理解ジャン!まあ、會寧のあたりは、明治時代に稲作をやっているようですからね。

 ものは、考えようってね。さて、會寧の様子をもう少し眺めてみましょう。しかし、この15年で、この地域にどれだけの金を投入したのやら?驚くばかりです。

 ふと・・・豆満江の河口域の稲作はどうなてるのだろうか?用水路はそれほど発達していなくて・・・基本は排水路のようですから・・・干拓地のような水田・・・塩害対策が必要な地域のような?まあ、塩害対策など・・・河口堰と、漁業補償ですかね?近頃は、こういったデータもネット上にありますから・・・分析が重要・・・豆満江を、海水はどれくらいのところまで上るのだろうか?日本の河川と違って、かなり浅い・・・しかし、深いところもある・・・會寧あたりは深いらしい・・・理由は、戦前戦中に生きた人の手記・・・川でおぼれる者が一夏に数人いた・・・史料は読み方か・・・というものの、現地調査も、聞き取り調査もしてないので精度は不明です。でも、三峰のあたりは渡河可能・・・會寧近くの渡河地点は・・・橋よりやや下流のあたりですかね?これも、自分で渡渉を試せないのでOKです。無責任になれる、素人の天下さ!

 昭和6年の本の中に、會寧郡の反あたりの収量が書かれています。米は0.95石、大麦なら0.61石、小麦なら0.43石、燕麦0.32石、粟0.62石、稗0.62石、もろこし0.65石、トウモロコシ0.65石、ダイズ0.64石、馬鈴薯122貫、これより北にある間島では、およそ1.5〜2倍の収量があるとのこと、馬鈴薯に於いては3倍近い・・・結構、この時代でも米は取れているようです。今では穀倉地帯かな?

 今、この地域で行われていること・・・それは右の写真のような適当に流れていて、渡渉可能な川を、高水工事によって、細くし耕地を拡大しよう炉しているというわけです。河川の直線化工事・・・これによって、耕地を格段に増し、同時に解氷期の増水及び、それによる浸食も食い止められれば、大きく耕地を増やせ、安定した収量を見込めることになるというわけです。

 しかし・・・、食料が増産されると・・・人口が増加しますね。人口爆発・・・まさか、この国・・・人口爆発を抑えるために、農産物を過剰に輸出しているとか?支援を求めつつ・・・會寧のまわりの山は、果樹園で覆われていますから・・・桃や杏、梅とかかな・・・春は素晴らしく美しい風景が見られるような?

 都市からちょっと離れると、耕地と、集落の戸数の相関関係はほぼ一定に保たれている・・・耕作者世帯の消費量の5割増し増し相当の耕作地ぐらいかね?これじゃ、普通に考えると、20年に一度くらいの大凶作が2年続かないと飢えないか?あまり、根拠はないが・・・

 しかし・・・この川、おとなしくさせるのは、結構な手間がかかるのではないかと思われます。堤防防護ラインはどうなってるの?これより下流の橋のところでは、右の写真のように河道はすでに堤防防護ラインとか河岸防護ラインとか言う最後の砦の部分にふれて堤脚までまで浸食が進んでいます・・・何だっけ?水衝部ができている流れになっている。これって冬期の渇水期での状態ですから、低水路河岸防護ラインとか水際防護ラインと呼ばれるようなあたりにしてやらなければならない・・・つまり、河道管理がまだ未熟?ということですかね。

 河道とか澪筋と呼ばれるものを、堤防よりはるか内側に大きく蛇行させずに納める技術が不足しているような?堤防防護ラインの設定がされていない・・・澪筋の侵入を許さない範囲を作っていないような?高水敷きの設定が甘い・・・日本の場合、水運のために、船頭たちが澪筋に注意を払っていて、自ら澪筋を治すために、竹や棒を流れの中に挿して、その周りにできる流水による圧力傾斜を利用して、澪筋を動かしていたようですから・・・とても走れそうもない浅水面に高瀬舟などの大型船を走らせる技術・・・それは、河川改修技術につながります。

 ああ、なんだ2002年以前に堤防が決壊している・・・工場は洪水に飲まれたのか?

 右の写真は2002年のもので、多分その前年の台風か何かで増水した川がやらかしたものでは?情報は・・・2001年10月12日、洪水の影響による負傷者は82人、行方不明者27人、死者は81人となっている。また11207人の人々が家を失ったようです。この洪水かな?

 あれあれ、なんだかシムシティをやってる気分・・・案外、朝鮮総督府の技官連中はその感覚かもしれません。日本の河川改修なんって、事実上、江戸時代に完成を見ているような感じです。利根川なんかも、本流を新利根川に付け替えて、霞ヶ浦につないだり、それを何年もしないうちに、水運の都合で戻したり・・・神田川を付け替え、水道橋の所で台地に切通しを作り流れを持ってきたり・・・

 そういった完成された治水技術と、欧州の技術で理論武装をした、血気に逸った若い技官が、手付かずの自然に挑むんですからね。

 北朝鮮の洪水対策は遅れているというより、適切でないということのようです。日ごろの河川管理が重要・・・日本はお役所仕事でもちゃんと、やってるのに・・・日本の官僚は馬鹿にされますが、間違いなく優秀なのであります。

 ああ、日本の官僚は優秀であるから、馬鹿にしてもそれほどたいしたことがないが、かの国の官僚は優秀でないが故に、馬鹿にすると烈火のごとく怒るのか・・・まあ、官僚に限らず一般法則だな。

 そうそう、會寧の市街を最初に見たとき、このスタジアムが治水のための何かの装置に見えて、しばらく悩みました。まわりの水たまりと、右に続く貯水池・・・入場口が吐出口に見えて、洪水調整か利水事業で何らかの役割をするもの・・・多分、洪水の名残なのかもしれません。なんとなく納得・・・このあたりでは、かなり澪筋に注意がはらわれるようになってきているようです。

 まあ、なんでもやっているうちに上手くなるものです。日本の昔の水田なんかもよく流されていたような・・・川をいじるのは難しいという実例が色々とあるようです。こういった、毎年川の流れが変わるような川の周辺での農耕は・・・まるで、遊牧民の生活みたいになるのでは?ふと、そんな気が・・・まだ、その伝統があるから、そして城で越冬し、農繁期に出作りを行うという生活・・・だから、広範な都市改造がこの地域では行えるのではないかと思いますが・・・

 出作り・・・母村から出作り、やがて永久出作り、そして分村・・・なんだか山奥の村落の生活みたいな?そういえば、風水の蔵風得水・・・山里の出作りの良い場所の条件は、傾斜のゆるやかなくぼ地で、黒くて柔らかい土が堆積して、東または南向きの日当たりのいいところと相場が決まっていて・・・根粒菌を多く持つ樹木が生えていれば完璧・・・ハンノキ属だっけ・・・ということのようです。龍脈は鉱山学に関連し、山の蔵風地への墓の建立は農業に関連があるのか?案外、春の山への墓参は、墓の周りで耕作し、それを秋に収穫し里へ戻る・・・出作りの習俗が、出作り地を守る祖先信仰につながったとか?民俗学的考察も面白い・・・何しろ、現地調査ができないのでね!全て、いい加減な推測で論じられる・・・

 さて、困った・・・治水関連を眺めると、治水技術をチェックしたくなります。この川はかなりの急流なようなのでピストル水制とかあるかな?急流だから・・・床止め、落差工とか帯工って呼ばれるやつ・・・オーソドックスな蛇籠、近頃は鉄線籠・・・どうやら、この手の技は使わず、堤防と河道修正で強引な治水を行っているようです。

 さて、會寧市内で気になる建物は、座標 42°25'52.79" N 129°45'49.94" E あたりに3つあります。Aは多分例によって弾薬庫でしょう。なぜ2か所ある?歩兵第75連隊のと、高射第5連隊か?弾薬庫であるなら・・・こんな形が標準的なもので、まわりにマウンドがあって、樹木で掩蔽されている・・・
会寧歩兵及工兵大隊合同弾薬庫新設の件明治45年に歩兵と砲兵の合同弾薬庫が作られることになって・・・その後に、高射砲兵用の弾薬庫が作られたのか?


 Bが分からん?2002年と2008年の写真では概ね形状は同じだが上のごちょっとしたのが違った雰囲気・・・この形でありそうなのは、ガスタンク・・・何だっけ・・・水封有柱式ホルダーとか言うやつ、逆さにした空き缶が柱に沿って上下して、水でガスを封じ込めるタイプのガスタンク・・・しかしなんでしょうね?しかし、直径18mもあるから・・・しかし・・・これは高さが低くて・・・およそ4m程度?影の様子からすると・・・何か分からん?似たものは・・・大阪城公園のカフェテリアか?

 とにかく、この国で丸いものは目につきやすくて・・・Cは同じく円筒形の構造物・・・何か不明・・・単なる冷房装置のクーリングタワー?消防署で望楼とか?それとも、ずらりと並んだ告知用のトランペットスピーカーか?

 このあたりの、物流倉庫にはなぜか大量の荷物があるんです。ちょっと不思議・・・まわりは軍用の倉庫群ですかね?いや、引っ越しと解体で、新しく生まれ変わるのでは?まあ、何年かしたら、また詳細に眺めてみるのも良いでしょう。

 少し、観光もしてみましょう。既知の施設を当たるとしましょう。この都市は何と言っても金正淑の街ですね。金日成の奥様にして金正日の母ですね。この人が抗日運動に身を投じるために故郷の會寧から豆満江を渡った際に使った船が保存されているとか・・・座標は 42°27'13.98" N 129°43'55.13" E です。

 どんな船なのやら?ちょっと気になります。

 そして、金正淑の生家とされる家が小高い丘の上に展示されています。最初は神社かと思いました・・・あたかも鎮守の森に佇むが如く・・・

 他には・・・金正淑同志革命事跡館右の写真の下の方の建物のようです。この園内には銅像やら記念碑があるとのこと・・・座標は 42°26'49.97" N 129°44'50.38" E このあたり・・・この丘はすっぽんのような形をしているため、鰲山というのだそうです。

 左の写真が1920年ごろの會寧駅とのこと。

 小さな駅ですね。私はこういった駅も好きですね。ふと、北海道の塘路駅を思い出しました・・・さあ、會寧を探索するのはこの辺で良いでしょう。しかし・・・10年後この都市がどんな発展を遂げるか興味がありますね。治水がうまくいけば・・・ちょっと、治水の重要性を感じるわけです。さあ、次はどこだ?

(2012.11.28)

inserted by FC2 system