ネットの中をうろうろ(14)
  中朝国境に何が・・・(14) 會寧
 
 やっと會寧にたどりつきました。市街から少し離れたところに国境の橋がかかっています。ここでは中国側より朝鮮側の方が立派な感じがします。

 役所は橋のたもとのだけで、下の方の大きな建物は、倉庫のようなもののようです。保税倉庫?まさかね。砂利のようなものが積まれています。石炭か?

 さて1926年に出版された咸北要覧 附間島琿春によれば、郡庁、警察署、郵便局、税関支署、面事務所、営林廠、道立医院などがあります。銀行4、公立学校3、私立学校5、會寧神社、劇場、テニスコートに野球場、ビリヤード場に料理店・旅館多数・・・国境第一の大都市とのこと。

 当時の様子は・・・














 上の写真のようです。會寧神社から撮影したもので、會寧神社は、街中から坂を上ったところとか・・・ 42°26'22.83" N 129°45'06.89" E のようです。右は、會寧大正通りとのこと日本人の店の多い街・・・朝鮮人は店を持たず、市場に出店するパターンだったからでしょう。

 さて、現状は・・・2002年と2008年を比べていますが・・・街は大きく変わろうとしています。どうも、この国では理論が先行するようです。古い街並みへの郷愁とか無いのか?なんって思えるような大規模な改築が行われます。まあ、公地公民なのでしょうから、それができるのか?なんって・・・とにかく、あまり変わっていないようですが、よく見るとこの都市の5分の1ぐらいが改築またはリフォームされているような感じですから。こう、長いこと北朝鮮の様子を眺めていると、ストックホルム症候群だったっけ?長くかかわると、同情や共感を覚えるようになってしまうやつ・・・では無いとは思いますが・・・何しろ、現実の変化を眺めているわけですから。

 とりあえず、見た感じ、虚飾が排除された世界であるような・・・実用本位、郷愁や感傷などはあまりなく、国の指導とともに生きて行く体制、虚飾に満ちた世界に窓を開くために、それなりにこの都市を飾ろうとしている。そして、それができてしまうのだから・・・もしかしたら、虚飾を排したために、何か別の豊かさを持っているのかも知れない国なのか?非常に気になります。トマス・モアの考えたユートピアに似た世界・・・

 さすがに、都市です。人が道を歩いているのが確認できます。この衛星すごく優秀なのでは?

 ちょっと気になる工場が・・・まあ、直径10mぐらいのガスタンクのようなものがある工場です。高い煙突、引き込み線、貯炭の跡のような?コークスとコークス炉ガスの工場か?しかし、この工場も再編のようで、いくつかの建物が更新されようとしています。

 脱硫と脱アンモニアもやってるのかな?違う・・・この工場は解体されているのでは?・・・線路も撤去されているようです。代わりにトラックが入っているような?ということは、国境のやつは・・・輸入コークスかいな?炭鉱は盛況・・・なんだかよくわかりません。近くの似たレイアウトの工場は完全に解体されています。

 まさか、ここでコークスが生産され、国境のトラックターミナルのようなものは、コークスの輸出を行っているとか?

 何れにせよ、この街では屋根の張り替えが進んでいるようです。学校らしき建物も、青いトタン?葺きに変わっていますから・・・以前の屋根材は何だったのでしょう?スレート?

 これだけ、街の様子が変わるには大量の資材が必要ですが・・・この国って、本当に貧乏なの?露天の駐車場は屋根つきのガレージになってるし・・・6年でこんなに変わるものか?

 面白いことに、鉄道沿いの、かなりの道幅の道路を廃道にして、そこに大廈高楼を建てています。現在の交通量からすると、この道をつぶしても良いのでしょうが・・・いや・・・対岸を見ると堤防が更新されているようです。強制収用なんって言葉は無いのでしょうから・・・目的のためには住民は移動を余儀なくされる・・・どうやら、本気の治水工事と、それに伴う道路の付け替えのようです。

 ちょっと見えにくくなりましたが、計画されるであろう道路を書きこんでみました。・・・會寧市の前の川を直線化するのでしょう。対岸に堤防を築き、その間の土地を下げているようですから・・・そして、旧市街を川の方へ広げる・・・偉大な事業が・・・どうやら、鉄道から自動車輸送へと転換するような気配です。新しくできた土地は・・・案外、大きな公園になるのかもしれません。

 大規模な河川の付け替えというやつの経験はどの程度あるのでしょうか?河川の浚渫など行っているのか?ちょっと気になります。とりあえず・・・豆満江ではまだ、浚渫船のようなものは見てませんから・・・

 日本だと、川砂の採取なんかやってますね。利根川でチェックしてみると・・・右の写真のように見えるようですね。朝鮮ではどうなのでしょうか?そういえば、生コンプラントも見かけませんね。乳剤工場とか・・・道路の舗装はどうなってるのだろうか?今更ながら・・・気になります。

 まあ1960年代の日本でも、現場で手練りのコンクリートでしたから・・・10年ぐらいで、この平野は建物で埋め尽くされるような気がします。

 さて、どうも工場を眺めても、何の工場なのか分かりませんから・・・軍事基地もありますね。多分、対空陣地なのでしょうが・・・2002年には何かの装備が置かれていましたが、2008年には撤去されています。

 案外冬は開店休業状態なのか?座標は 42°26'11.15" N 129°45'40.20" E です。これと同じようなものが、対岸の座標 42°25'15.02" N 129°44'16.84" E にあります。

 昭和13年には會寧飛行場があったようです。飛行第九連隊と高射法第五連隊の連合夜間演習で事故だって・・・とにかく、會寧には飛行場が存在していたようです。この空域を管理していたのは會寧第二飛行団司令部とのこと、この付近を飛行する際には、ここに届け出るように・・・昭和11年の通達です。

 当時の飛行場って・・・600m程度の滑走路ですかね。そりゃ大型機が飛ぶところは1200mとか1500mの滑走路ですが・・・運用された機体はチチハルと會寧間で訓練で93式軽爆撃機と95式1型練習機が飛んでいますね。

 この機体だと、600mぐらいの滑走路でよさそうです。この長さの滑走路として考えられる場所が2カ所あって・・・格納庫と兵舎と官舎と滑走路のセットだと工場が立ち並んでいる場所。座標なら 42°25'23.21" N 129°43'51.09" E ここですね。

 もう一か所の座標は 42°25'09.26" N 129°44'50.38" E ですが、これは射撃演習場ではないかと思います。この形は、水戸の射撃演習場とそっくりです。レンジの長さもおよそ600mほどありますね。現在は、水戸少年鑑別所があるあたりです。

 この当時の長方形の区画が見れますね。右のモノクロ写真が戦後すぐの航空写真です。橋などとの位置関係からすると・・・多分、これで正解なのでしょう。會寧には、それなりに軍事基地としての設備があったのでしょう。

 規模からすると、座標 42°25'55.29" N 129°44'47.26" E には兵舎などがあったのでは?

 會寧には4000mの滑走路を2本作るだけの平野がありますが・・・作れば、間違いなく、この地域の中心になれるかも?航空用の燃料はどこから・・・まあ、色々問題はあるでしょうけどね。しかし、4000m級の滑走路を作れそうな場所はあまりないし・・・

 あれ?會寧では新しく建てられる住宅のサイズが変わっています。着目したのは、この座標 42°27'04.72" N 129°44'12.10" E の住宅区画ですが、2002年に古いタイプの二軒長屋が壊され、代わりに一戸建てに変わっています。二軒長屋タイプより、間取りは広くなって、玄関が1つになっていますから。つまり、生活が向上しているということでしょう。床面積は20坪くらいこれに物置スペースがついているような感じです。

 會寧焼きの工房、または工場はあるのでしょうか?焼き物工場ってかなりの規模のような・・・右の写真は、戦前からの工場の建屋・・・鳴海製陶の工場です。昭和45年ぐらいには、まだ迷彩塗装が施されていましたっけ・・・硫化カドミウムセルとか、集積部品の陶板や、陶器の棒とか落ちていましたっけ。・・・これは戦後の製品でしょう。・・・近頃はレジネートペーストですね。技術は進歩します。

 昔の製品は、手で半田付けできるような幅のやつでしたけどね。

 この工場建屋の長さは140mほどですね。どんな窯を使っていたのやら?多分、トンネル窯・・・給水塔のようなものがあって、1本の高い煙突があったような・・・おぼろげな記憶・・・防空壕もあったし・・・

 焼成前の廃棄品の白い山が連なり・・・焼成後の廃棄品を放り込む谷津・・・さまざまな釉薬の廃品が放り込まれていた場所・・・

 ほんのちょっと、軍需工場の面影が・・・昭和40年代には、戦前の、現在は宅地になっているあたりに、名古屋軽合金製造所の本気の軍需の工場はあったようですけどね。

 まあ、雰囲気は・・・飛行機のエンジンの部品工場だったようなので、それなりの雰囲気を漂わせる工場です。

 出発が違ったか・・・偶々知ってた工場ですけどね。小規模なものだと登り窯ですから。斜面に構築され・・・長い屋根がかかり、端に煙突がある・・・すでにトンネル窯が導入?石炭燃料の角窯や円筒窯か?なら、カオリンと石炭が目印になるか?

 色々見ていたら・・・鐘城で見かけたものと同じ丸い不思議な構造物を見出しました。右の写真・・・ほぼ同一のデザイン・・・これは何?座標は 42°25'30.64" N 129°46'29.01" E ですね。

 地下タンク?可能性はあるけど・・・鐘城のは山の上の方・・・ここは町はずれの小高いところ・・・水道のタンクか?

 冬の寒さが厳しいので給水タンクは半地下式なのかもしれないが・・・

 対岸にも同じような構造物が・・・墓に取り巻かれた中にあります。

 墓の中に、水道設備を置くか?対空陣地が川の両側にあったので、要塞の仲間なら同じようにあると思って探したわけです。

 昭和13年に、會寧要地防空のため高射第五連隊に弾薬800発の特別支給を申請して受理されています。 請求理由は、高射機関銃が充当されているが、高射第五連隊留守部隊は、概ね二隊の高射砲隊を編成でき、これで自隊防空を兼ね要地の防空を実施できるが、弾薬の整備が全然ないので、防空部隊は使用可能な状態に無い。會寧は、有事の際には必ず空襲が行われるであろうから、その際に弾薬を整備補給することは困難であるから、平時より弾薬の整備を行わなければならない。

 高射砲陣地か?配備されていたのは八八式7センチ野戦高射砲のようです。過去のことはどうでもよいうのですが・・・まあ、なんとなく維持されているような気配・・・配備する高射砲はどこにあるかが問題ですがね。

 さて、會寧の炭鉱が気になるわけです。一応1つの炭鉱がありました。座標は 42°24'21.86" N 129°43'07.69" E この炭鉱は2002年から2008年の間に建物が増えるなどの変化があります。したがって、現役の炭鉱なのでしょう。

 問題は採炭した石炭の輸送です。ここには鉄道は無いようですから、トラックまたは牛車、人間が担いでの臂力搬送かいな?臂力・・・この言葉も使わないなぁ〜・・・一応、私は北朝鮮を日本の昭和30年代程度の社会インフラとして考えて眺めていますが・・・昭和30年代の日本とも社会体制の違いで、特に、物流に大きな違いがあるような気がします。

 案外豊かかも?というのは、住宅は全て国有で農村・鉱山地帯では一戸建てもしくは二軒長屋、持ち家のようなものです。申請から5年ぐらいで入れ、維持費は給与から天引き、されど死ぬまで入っていられる・・・10年ほど働いて、頭金を作って一戸建ての住宅を購入、働いている期間+退職金でローン完済、ここで自分のものとして老後を迎える・・・保健制度はないが重税で医療費は無償、但、病院などは貧弱、・・・健康保険料をむしられ、元気なので病院などとは無縁、検査しなきゃ病気とはばれない、ある日パッタリ死ぬだけ・・・食料はとりあえず支給、不足分は何とかするしかない・・・年金はまともに払って雀の涙、払ってなければ無し、恥を忍んで生活保護、よくあるのが孤独死・・・

 北朝鮮の田舎には極貧の家に見えるものが、今のところ見当たりません。日本だと、人が居住する廃屋にしか見えないような建物が散見されますが・・・これもまた、自由主義・・・しかし、気になる・・・北朝鮮の手がGoogieやDigitalGlobeやアメリカ政府に伸びて、北朝鮮の衛星写真を改竄しているとか・・・そうだ・・・貧民窟も探索の対象にしましょう!

 さて、この炭鉱からの石炭の流れは?これがよくわからない・・・炭鉱から近くの集落に細い道がつながっていますが、大量輸送に耐えるものではありません。輸送に耐える道は北に向かう1本、そして、T字路の様子から、石炭を積んだトラックは右折、旧飛行場と思われる跡地の工場・・・この工場は何?雰囲気は、市内のタンクのある廃工場?状態のやつに似ていますから、これは移転してきたとか?そう、これに似た工場が新しい大廈高楼の対岸にあります。工業の再編?現状で思いつくのはコークス工場、石炭化学工業があるとします。生産品は何?しかし、この工場には高い煙突がない、すすけてもいない・・・コークスではない・・・

 コークスを作る際に出る・・・亜硫酸ガスとアンモニアから、硫安でもできますかね?所謂、副生硫安・・・情報が足りないな・・・

 昭和2年に朝鮮総督府は適当な石炭乾留装置がなかったので、海軍燃料廠に會寧・吉州・生気嶺の石炭のいずれか1000トンを提供するから、代用液体燃料やタールなどを採取する実験を依頼したようです。これが、順調であればプラントがどこかに作られたはず・・・石炭化学工業についての知識を仕入れないといけないようです。會寧の探索をもう少し続けるとしましょう。

(2012.11.26)

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