ネットの中をうろうろ(12)
  中朝国境に何が・・・(12) 三峰から會寧へ 続き
 
 なかなか會寧に着かない・・・台地の上などを丹念に見ていると、ちっとも先に進みません・・・ちょっと気になるのは、果樹園と墓地の判別なんです。土葬の土饅頭と果樹が結構似ている・・・しかし・・・墓地らしきものが集落の近くに見当たらないのです。三峰とは違う文化圏に入ったか?そんなことを考え始めています。豆満江と平野との高度差がかなりあるようで、集落は豆満江に流れ込む沢に沿って長く伸びています。水源は・・・お城の脇の溜池ですが・・・興味深いものですが、これに関する資料をどのように探し出すかが・・・間坪駅、座標は 42°39'21.04" N 129°46'44.21" E のあたりです。

 このあたりの雨量のデータもどこかにありましたから、流域面積を計算して、いくつかある溜池の貯水量などを勘案して、この城がどのくらいの人員を養えたのか計算することもできるでしょう。

 それより、なんとなく養老律令で定められた通りの城じゃないかと思われますね。冬の時期に穀物など農作物を貯蔵し、それを守る場所が城であるような。農繁期には、この城から出て、田畑の近くの仮小屋で農耕に励み・・・ん?そういえば、朝鮮の草葺の屋根の簡易建物・・・そっくりなのが、月山のあたりにありますね。ぬま小屋ってのが・・・これも、夏季の月山詣での中継地点に置かれた小屋です。まさか、山形のあたりは、何か交流があったのか?ふと・・・なんとなく類似点があるような?案外、古い時代に交易があって、互いに影響を与えあっていたのかもしれないような?

 それと、もうひとつ馬賊ですね・・・このあたりは馬賊の本場ですが、馬賊の母体となる集団は何?とかそういった事も気になります。まさか、農繁期は農家で、農閑期になると季節営業の馬賊とか・・・

 なんとなく、養老律令の内容というのは、確かに日本的なものではないような・・・確かに、長安に都を置く唐で651年に成立した永徽律令がモデルとされていますから・・・支那ニ於ケル法典編纂ノ沿革これに永徽律令が紹介されています。律令の研究で永徽律疏について触れられていますね。こういった本を見ると・・・律令の比較研究もしたくなります・・・データベースを構築して、対応する条文を・・・夢は膨らみますが・・・

 面白いのは第22管理所ですね。行営里を中心とした強制収容所と言われてますが・・・女真族を追い払って以来の伝統の社会システムで動いているとすると・・・単に、昔のままの社会システムが動いているということかもしれません。法社会学的なフィールドワークもしたくなりますが、北朝鮮には行けないというのは良いことです・・・行けるなら、行って調査したくなりますからね。

 農閑期は、城=強制収容所にいて、農繁期に入ると任地に赴き耕作、収穫が終われば、城へ収穫物を運び込み、冬を過ごすための城の整備などを行い、馬賊に対抗しながら冬を越す・・・

 もしかしたら、断層なのかもしれませんが、この城の近くから、直線道路が続いています。多分律令に則った道路では・・・日本にも、とにかく直線に作られた官道の跡がありますけど、それと同じようなものがSechonの街までたどることができます。この城の近くの村に起点があるようで、座標は 42°40'30.31" N 129°49'18.60" E ここですね。ここから南南東へ一直線に、この座標 42°35'33.20" N 129°50'06.61" E の位置まで続いています。畑などの境の関係でたどれるわけです。地割りからすると、幅は30m強でしょう。予想では、これが古い奴で、この周辺に、細い直線道路がありますが、多分、細い方が後代のものではないかと・・・でも、この直線道路は・・・実は現代の高速道路予定地だとか?これもありそうですけど、これでは夢がありません。

 日本の古代の官道も、初期の物は幅が広いようですから・・・最初に作るやつは気合が入ってフル規格、後代になると、まあこのぐらいでいいや!になるはずですからね。それとも、森林伐採のための索道か?それにしては、伐採範囲が狭いし・・・疑心暗鬼・・・可能性は沢山ありますね。断層の痕かもしれないし・・・でも、断層だと川になっている場合が多いですから・・・

 まあ、右のように土地利用の様子が違うので、道路の跡と考えたのですが・・・はたして・・・土地の区割りってそんなに大きな変化はないようですから・・・でも、見れば見るほど高速道路の予定地に見えて・・・でも・・・

 古代の道路網の一部で、こういった道を軍団が移動したのでしょう。 信濃道は 今の墾り道 刈りばねに 足踏ましなむ 沓はけ我が背・・・と考えるのが楽しいので・・・根拠もないけど・・・ああ、経国大典の278コマに道路に関しての記述がありますね。しかし、56尺なら溝を含めて20m程度でしょう・・・しかし、尺の定義が・・・日本と違うかな?養老令には、雑令の最初に尺について述べられていますが、原器がわからん・・・経国大典では、この道路に関する条の後に、周尺やら漢尺の話が出て・・・まあ、日本の尺とほぼ同じですね。まあ、周尺が指を広げた長さで、後の小尺ですかね。大尺は30cmほど・・・

 この帯の最もありそうなのは・・・古代の道路ではなく、多分・・・送電線では?これが、当たりのような気がします。

 さて、先へ進みましょう・・・新田駅の座標は 42°38'30.83" N 129°45'04.81" E です。ここには果樹園?が広がっています。多分・・・造林ではないような感じです。まあ、似たものでしょうが・・・果樹の栽培が盛んで、結構な量の果物を生産しているとか・・・国境地帯ですから、交易のための商品作物の生産が盛んでもおかしくはないですね。果樹園らしきものは拡張されている感じです。そして、次の駅、鶴浦駅 42°35'36.90" N 129°45'29.92" E は内陸につながる道があるための街なのでしょう。しかし、鉄道は内陸の街に隣の新鶴浦駅から、細川支線が細川に伸びているようです。細川 Sechon 42°34'39.83" N 129°49'49.22" E ・・・強制収容所の炭鉱らしいですが・・・気になるのは、このあたりの赤っぽい色の瓦の産地はどこなのか?會寧焼きか?

 細川支線の上に、走行中と思われる貨物列車を確認、昼間も走ってるんだ・・・この線も電化されています。ところで、電力供給はどこで?これまた気になります。変電所などを見かけませから・・・1つの路線に電気機関車を走らせるのに、どのくらいの電力が必要か?情報としては直流3000Vで、機関車は12両編成の貨車を引くには・・・路線等級が丙クラスとして、軸重?直流を生み出すには・・・交流を整流気にかけて・・・整流器は何か?原初的なら電動発電機、回転変流機だと3000Vは厳しいか・・・水銀整流器かな?それとも、今風なシリコン整流器か?

 昭和初期の水銀整流器、2000kW過負荷で1分間なら6000kW、鉄道省型なので1500V仕様のようです。電気事業資料. 第11号 特製品紹介(第4輯)なかなか、興味深い本です。水銀整流器・・・ガラス製の小型の水銀整流器など、魅力的なものが掲載されています。

 北朝鮮の鉄道は遅い、ときどき停電するという条件から、ED16電気機関車あたりを考えればよさそうな気がします。軸重量15トン、定格出力900kW、最高速度65km、定格速度32.5km旅行記などを眺めるとこの程度かな?

ああ、資料は先に集めて置かないと・・・朝鮮鉄道状況. 第27回こういったものを読んでいれば・・・鉄道事情に明るくなれていたのに・・・まあ、もう少しすれば、ちょっとは賢くなるでしょう。内陸の鉱業を研究したいのでね。

 またやらかしました・・・昔の本は面白い・・・電車というと、架線があるやつと、地下鉄の銀座線の第三軌道から電気をもらうやつがあります。最新応用工芸学全書によれば、畜電池式を含めて5種類の電力系統の説明があります。電車の始まりは・・・、1879年にドイツのベルリン工業博覧会でジーメンスが電気機関車で客車を引っ張ったのから始まりますが・・・どんな方式なのか?そのうち調べてみましょう。興味深いのは、この本では、架線式の電気鉄道では、レールを電線代わりにするにするので、漏れ電流による電食を懸念しています。そして、電車用のレールは従来型とは異なり、絶縁というか、感電防止の観点でか?ああ、ポイントの話も出てくる・・・結局のところ、ポイントの問題で、現在の架線式になるのか・・・あるシステムを実用化するには、色々なことを考えた上での最善を選択することになるわけです。黎明期の話だと、知らないことがいっぱい出てくる・・・

 まあ、鉄道とは関係ないのですが・・・焼き物で、唐津と會寧のものが似てるとのこと・・・朝鮮古陶史料大展覧会・東洋古陶磁大展覧会、備忘として・・・すぐ忘れるんでね。日露戦争では會寧付近での戦闘の記録もあるようですし明治卅七八年日露戦史. 第10巻 附図色々な資料が・・・いずれまとめるか?

 會寧焼・・・ちょっと調べると・・・白杏子の特産地、果樹園が昔から多かったのか・・・中国宋時代の五名窯の鈞窯・官窯・哥窯・汝窯・定窯、この鈞窯から12世紀ごろ陶工が會寧に移住したとされ、金朝御用の器を作るために会寧、明川のあたりや、鏡城郡朱南面七郷洞などに窯を築いたとのこと。珪酸分の多い乳濁釉や藁灰釉、長石釉の甕や壺、片口、鉢皿類など、生活雑器を焼いたようです。

 電車の電力は?一応昭和5年の資料だと、このあたりは會寧電気が會寧と鐘城に発電所を持っていて、530kW程度の出力らしく、重油を燃料としていたようです。この時代だと、さすがに電車を走らせるだけの電力ではないようです。電子化されている文献は細かな文字が読めないのが難点・・・電気事業要覧. 第23回、どうせ後で探すことになるから・・・日窒コンツエルンの解剖とか日本窒素事業概要なども、後で目を通そ〜と!

 しかし、時代が変わったと思えます。私が、研究者の道を歩もうとして、挫折したころ・・・論文などの参考文献を頼りに図書館をあちこち行ったものですが・・・今では、目次がデータベース化されているので、たちどころに余計な文献まで出てきます。文献の整備された時代の研究って・・・大学なんってあまり必要としないし、指導教官というのも・・・どうなるやら?広範な知識を持って、適切なキーワードを見出せるなら、たとえ専門外のことであっても、短時間に大量の文献を当たり、それなりの結論を出せるような気がしますね。ふと、思うのが・・・参考文献と範囲の広範さから、こういった内容で論文を書かれたら・・・どのように指導するのだろう?でも、明治の官僚はそういった報告書を書いていますがね。やつらはいつ寝てたのか?

 しまった、本来の現在の中朝国境の研究だった・・・會寧は遠い・・・このまま国会図書館を眺めていると先に進めなくなるので、ここで稿を改めましょう。

(2012.11.21)

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