ネットの中をうろうろ(7)
  中朝国境に何が・・・(7) 古いタイプに見える場所 続き

 江岸里と思われる集落が気に入って、この街の様子をチェックし始めました。何しろ、条里制の都市みたいな感じですから・・・中央に朝堂区画があって、広場とTの字の大路・・・2011年の映像を見て、他の村落と違った古い形を残していそうだと思ったのですが、2002年の映像を見ると、2011年ですらすでに大きく、この街並みが変わっていることに驚きます。なんと住宅のかなりの部分が建て替えられています。朝堂区画も大きく形を変え、大路も微妙に付け替えられていることがわかります。どれほどの変化か・・・

 私にとって古臭く見えたこの街割・・・違いました。これは、事実上新しい街に変貌しつつある姿ということが・・・ちょっと前に、駅前の区画の変化に気付いた所がありましたが、実は、この街並みも大きく変化した後の姿だと・・・

 一応、古い区画の写真も見ていましたが、あまり変わっていないと思えてしまって・・・オベリスクが無いなんて・・・それで見直すと、実は全然違う街並みなんです・・・

 GoogleEarthというのはコンパレーターとしても役立ってくれます。右の写真も同じことができます。カーソルを画像の上に持っていくと、朝堂区画が狭まり、朝堂は建て替え?か屋根が大きく変わり、その後に庁舎のような建物が?大路が直線化し、微妙に位置を変、大まかな街割は変わらないまま建物が大きく変わっていることが・・・

 大きく拡大すると、2002年当時には草葺の付属家屋があるようですが、2010年ではほとんど無いような感じです。

 屋根の構造も変化しています。切妻の屋根が寄棟か入母屋に変わって来ているようです。

 生活も変化していくのでしょうか?一応、画像の左上の端が、この集落の洗濯場ではないかと思われます。昔と変わっていなければ・・・棒で洗濯物をたたいて洗う姿がみられるのではないかと思います。そして、この街の墓地は、多分作業広場兼農業倉庫郡の右300mほどのところに土葬の墓地群が広がっています。そして、墓地の山の頂上には山城の址があるようです。

 新しいものかもしれませんが、近くに建物は無いし・・・例の作業場広場兼農業倉庫があり、集落は特に持たず畑が広がっているだけですから、粗放的なダイズかトウモロコシか高粱か・・・そういったものの栽培と加工のための倉庫があるだけです。多分、ここは古代において軍事的な要衝であって、郡衙のようなものが置かれ、右上のが正倉を引き継いだ農業倉庫群で、山城があり、その食料集積場を引き継いだ倉庫ではないかと・・・勝手に想像するわけです。

 一応、街の中心部から900mほどの距離の所に位置していますから、逃げ込むにはちょうどよさそうな山城です。

 多分ある程度律令の規定に則っていると思われるので、その規定を眺めると・・・倉庫令1条 倉は、みな高く乾燥した処に於くこと。周囲に池渠を開くこと。倉の周囲半径50丈=約148m以内に館舎を置いてはならない。3つ並んだ真ん中のか右端の小さいのは、距離の条件に当てはまるようです。

 2002年当時で古そうな左上の区画を眺めると、くねくねとした1つの区画の中に5軒ほどの家が軒を連ねています。まさか・・・戸令 9条 五家条 戸は、皆、5家で相互に保ること。1人を長とすること。以て相互に検察させること。非違をなすことのないこと。もし、遠くの来客が宿留することがあり、また、保内の人が行詣する所があるならば、いずれも、同保に話して知らしめること・・・とか・・・まあ、律令制などというのは自然集落を元に考え出されたものですから、貨幣が普及する以前の封建制社会の中では、意外と合理的なのかもしれません。歩いて行き来できる範囲が生活圏の場合ならね。

 城があるなら軍団だって・・・律令制の軍団は・・・確か正丁3人に1人の割合で挑発していたはずですね。多分、動員をかけたときだけの話でしょうが・・・

 指揮系統を眺めると・・・
 最小単位が伍長が率いる5人これが分隊に相当かな?そして隊正が率いる50人10分隊で1小隊かな?この10分隊は2分隊で火という単位を作ります。この火という単位はどうも食事の単位のようです。

 養老令では兵士は10人を1火として、荷馬を6頭に1人宛、ほしい6斗、塩2升に、紺色の天幕1張、釜が2つ鍬が1本、山刀が1丁、斧1本、手斧が1本、鑿1本、鎌2本とやっとこ1つを持って出ます。ちょうど旧軍の内務班に相当するもののようです。この内務班と編成単位は一致しませんから、兵制の基本概念は、律令時代のものをそのまま引き継いで近代化が図られたということなのでしょう。色々なところに、旧時代の残滓が見られるのか・・・

 そして隊正が率いる50人で火打ち石1セット、点火用の火口を1斤、のこぎり1丁を用意することになります。

 各人の武装は弓を1張、矢は50本、矢筒、大刀1振、刀子1口、砥石1つ、頭に載せる笠、食事を入れる袋1つ、水桶1つ、塩桶1つ、、すね当て1組、藁靴を一足を装備します。なんだか、戦国時代の足軽のような装備品です。

 正丁3人につき1人というのは、どうも正丁3人でこれだけの装備品を用意しろ!ということになるのでは?そして、有事の際は1人がこれを持って出る。そして10人集まって・・・つまりその裏には30人いるわけですから、30人で火の装備品を蓄えよ!30人で6頭の馬をそろえておけ!ということになるのでしょう。

 そして、隊正を出すところでは火を管理するものを用意する・・・隊正は行軍の単位ですかね?ここで宿営する、火を各火に分ける飯を作って寝ろ!ですかね?

 それで、衛士や防人に出かける時は、武装のだけ身につけて集合になるようです。鎧などは、どうやら軍が所有し、それを貸し与えることになるようですね。この時代、個人の軍に準ずる武装、たとえば鉾とか弩や馬用の防具などの重兵器は禁止されていたようです。

 伍長・隊正、その上に旅師が100人を率い、校尉が200人を率い、1000人で軍団で、軍団を軍毅が率いることになります。

 この地は・・・辺境、防備のためには防人を置くのでしょうが、律令の防人は、自分で穀物を栽培収穫しなければならないようです。陣地に勤務する以外に、勤務地の近くの特定の耕作者を配置していない土地を給付することになっていて、その地味に合わせた穀類を栽培させていたようです。これ以外に、野菜などは配給があったようです。もし、耕作に牛が必要ならば、政府が用意し、収穫はきちんと記録し報告することになっています。

 防人って・・・一応自活が原則だったのですね。ああ、屯田兵はこういった制度の延長上に存在したのか・・・防人は交代制ですから、兵舎というか耕作・生活道具一切と耕作地のある農場を割り当てられて、そこを耕しながら軍事教練に励み、有事に備えるということになりますね。

 屯田兵は中隊を単位として駐屯していて、その編成は中隊は276名・・・・伍長+兵卒4人で伍を編成し、伍が6つ30人+分隊長の准少尉1名+准軍曹2名で1分隊33名、4個分隊132名+小隊長の巡中尉1名+喇叭卒4名で1小隊137名、2個小隊274名+中隊長の准大尉1名+准曹長1名で1中隊276名が編成されることになります。

 第1回屯田兵は会津・先代・庄内・松前を中心に満17歳以上35歳以下の士族を募集198戸、総数965名を琴似の屯田兵舎に入ります。農具・家具・寝具など生活に必要なもの一切が支給され、入舎1週間は食事は炊き出しの給食、その後は大人1人当たり1日玄米7合5勺、塩や味噌醤油代として月50銭の支給を受けています。明治8年の5月に入村、7月まで共同開墾し、7月に戸当たり500坪が割り当て、大根・蕪・蕎麦などの作付が行われ、この後は1分隊ごとの共同開拓が続きます。最終的に1戸当たり15000坪=5町歩を割り当てられることになるか・・・これを元にすると、965÷198=4.87ぐらいですから1戸当たり5人200戸で1000町歩+中心村落を構成することになるか・・・100町は1平方キロメートル、1000町は10平方キロメートル3km四方程度・・・これで1000人が暮らせることになりますね。

 大規模な機械化を行わず、畜力・人力耕作だと、こんな規模になるのでしょう・・・歩いて出かけてそれなりに効率よく作業が行える単位・・・これが村か妙に納得しました。そして、大きな街が維持されることって・・・それは結構大変なことなのだと。

(2012.11.11)

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