ネットの中をうろうろ(5)
  中朝国境に何が・・・(5) 国境の町

 国境沿いの鉄道をたどると、道路の図們大橋の方は1941年に日本が作ったもののようです。

 鉄道の方は・・・この南陽駅と中国の図們市を結び・・・多分1932年に完成したようで、営業運転は1933年6月とのこと。この鉄道の完成で・・・なんと!中国側の図們は、昭和6年に150戸750人の人口が昭和9年になると2918戸13264人と爆発的な増加が起こったとのことです。

 この鉄道ができた事で・・・京図線は首都新京と、満鮮国境図們とを結び、満州国の心臓部を東西に貫く日満交通最捷路の一環をなし、図們に於いて北鮮南陽駅と国際鉄橋により連接、一は穏城、慶源を経て雄基、羅津に至り、他は南下して会寧を経て清津に達し所謂北鮮三港に連絡している。尚、海を隔てて日本の敦賀、伏木、新潟と連絡して日本海湖水化時代が実現さるるに至った・・・なんって記述がありました。

 中国と北朝鮮のつながりが明確になってきた今、まるで同じことが起ころうとしているような?気になるのは、海運の主導権を韓国が窺っているのがね・・・

 鉄道と道路でつながっています。橋は1945年に爆破されたようですが、復旧されて現在に至るような・・・旅客列車は2011年10月8日までは走らず、貨物のみの越境であったようです。現在は北朝鮮の七宝山観光のための列車が走るようになったとのこと。

 交通路の変化は、情勢を大きく変える力を持っているのですから!

 ずっと、鉄道の線路をたどっているのですが、列車をちっとも見かけません?なぜ?非常に気になります。そして、この南陽の駅で止まっている貨車を発見・・・無蓋貨車は8両+機関車という感じでしょうか。有蓋の貨車か客車は4両編成ぐらい・・・

 ちょっと旅客列車と貨車の区別がわからん・・・平壌駅なら色々な車両があるはずなので、ちょっとチェックしてから細かく見て行くことにしましょう。平壌駅に停まっている客車15両+機関車1両の編成のうち客車は1両の長さが24mぐらいですね。これは寝台車ですかね?

 これから比べると、この駅に停まっているのは短いものばかりだから、貨車なのでしょう。色々な駅を眺めてきましたが転車台がないですね。蒸気機関車時代からの鉄道なのですが・・・まあ、ターミナル駅は分岐点近くに置かれていますから・・・この駅では国境の橋へ向かうデルタ線で三角線回しをしていたのでしょう・・・多分・・・人口の密集地でないためこういった事ができたのかもしれませんね。

 ふと・・・まさか、この国の鉄道って、基本的に夜間電力で動いているとか?何しろ、昼間走っている列車を見ませんからね。かなり気になります。まあ、この先、線路は続きますから運行中の列車に出くわすかもしれませんしね。

 この町の周辺に何か面白いものはないかと眺めると・・・軍事基地風の遺構があることに気付きます。中央上のあたりに稲妻型の溝があって・・・左にはマウンドのような雰囲気・・・

 稲妻型のちょっと上には円形のマウンドのようなものが・・・

 山の斜面に何か構造物が・・・雰囲気はトンネルのようなものと思われます。弾薬庫に使われていたとか?

 屋根がない建物、屋根の残る建物、まわりが何かに囲まれているような?

 まあ、考えすぎのような気がしますが・・・この地には日本軍の駐留軍がいたのか?橋を爆破していますからいたのかもしれません・・・ちょっと、チェック・・・

 終戦時にはこの南陽に東寧重砲兵連隊が来ています。1945年4月には、この連隊の本部は図們地区に派遣されています。ソ連対日参戦時には図們地区の守備を第79師団が担当していました。この連隊は東寧要塞の守備隊ですよね。43°56'51.79" N 131°13'05.98" E この場所の地下要塞・・・1945年8月26日まで戦闘状態だったようです。この日、関東軍河野参謀の投降勧告を受諾しているようです。そして。8月28日に投降しますが、一部の者の投降が遅れて8月30日に投降が完了するようです。

 さて図們地区の守備を担当する第79師団に編入された東寧重砲兵連隊は南陽で終戦を迎えますが・・・集団自決が起こってしまいます。8月17日、連隊本部、第2大隊本部・第4中隊・独立牽引車第15中隊は集団自決を決行します。それぞれ爆薬を積んだトラックに円陣を組み自爆を図り参加325人のうち192人が死亡したとのこと・・・

 戦争は無駄なことをさせるものです。

 川があるので、水運は?これも実は気になっているのですが、情報が・・・なかなか無くて・・・でも、この豆満江の水運は限定的であることがわかりました。

 上流は流れが速く水運は不可、下流は浅いのでこれまた水運は不可とのこと。茂山から会寧の範囲で水運は行われるが、50石ほどの船であるとのこと・・・8トン弱?会寧より下流では、渇水期には徒歩で川を渡れる、また、結氷期も徒歩で渡れる・・・なるほど、脱北者は船など関係ないのか・・・結氷期は密輸のシーズンか?

 大正時代末期に橋がかかり始めて、鉄道輸送も本格化している中で、それでもダイズなどの輸出に支障をきたすので、結氷期に移動させることなどが恒常的に行われていたようです。

 ちょっと気になるのが・・・この場所の満州国の税関がずいぶんと厳しかったようです。鉛筆一本手拭一本にも課税するとのこと、しかも、税率が高いのです、上三峰から入るビールは一箱四円五十銭に過ぎないが図們では五円二十五銭を課税され、大連陸揚で陸路図們に運ばれたビールが雄基陸揚南陽から図們に入るビールより安いといった無茶なことまでが起るとのこと・・・

 この路線は、軽便鉄道として敷設され、後には標準軌になったのでしょう。この軽便鉄道区間は上三峯・江岸・下三峯・鍾城・嘯岩・潼関・水口浦・江陽・南陽などの駅があったとのことです。なんだか、日本が戦前に満州経営の中で構築していったものが、100年を経ようとしている中で実現するような気配です。この沿線を眺めながら、中国の都市も眺めてきましたが、凄い勢いを感じます。今更の感がありますが・・・いざ満州へ!そして朝鮮へ!という感じですかね。日本海湖水時代・・・日本海工業地帯なんってのができそうな気がしてきます。日本海の海運がどうなるか?今後が気になります。

 満州国の税関の話が出てきましたが、なぜ関税が所によって違う?この理由も気になりますね・・・そのうち調べよ〜っと。

 豆満江に関しては豆満江流域経済事情がよさそうな・・・こいつを見てからうろうろを開始すれば良かったという気になっています。

(2012.11.09)

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