ネットの中をうろうろ(4)
  中朝国境に何が・・・(4) 抗日運動の聖地?

 国境沿いの鉄道をたどると、分岐が見えて・・・引き込み線です。先には鉱山と思しきものが・・・

 上の方の長方形のが炭鉱住宅では?中央やや下の黒っぽい影が坑口でしょう。ここは・・・沙水里の近くで、駅の近くには同じようなボタ山があります。

 しかし、採鉱の跡は見られません。この鉱山も、どうやら操業していないような?数年間の画像を眺めても、積み出しヤードに鉱石はありませんからね。

 駅の近くの鉱山跡のボタ山があるのが下面区のようです。名前からすると鉱山ができて集落を形成したのでしょうか?中榮里が道のつながりからすると有力だったかもしれません。国境の川へ向かう道があり、中国側にも琿春からの道がありますから、かつては琿春の経済圏に属していたのかもしれません。

 先へ進むと訓戎里の集落につきます。この集落は川沿いの集落で、鉄道は3つに分かれて行きます。いや違った・・・1本は古い鉄道橋へのすでに線路が撤去された跡です。橋が2本かかっていますが、橋は1945年に日本軍が爆破し、鉄道橋はソ連の赤軍が1945年にシベリア鉄道用に橋上の鉄梁を転用したために交通路は遮断されたままになっているようです。

 右の写真のようなものです。70年近くたってもなおつながらない橋・・・朝鮮側の橋のたもとには用水の機場のような建物があります。稼働しているのか?それとも、排水用に使われるだけなのか?ちょっと気になります。

 日本軍が爆破して落としたということは・・・この近くで戦闘が行われたのか?守備部隊がいたか?ちょっと気になります。橋梁爆破というと・・・気合を入れれば橋脚の破壊、この場合は床版の破壊ですね。ダイナマイトが不足していたのか?再起を考えたか?

 鉄梁を移動させ、どこへ持って行ったのやら?案外、今でも使われているとか?そうなると、鉄道をロシアに向かってたどると、これが、ここの鉄梁って分かるかもしれません。

 この場所にもやがて新しい橋が架けられるかもしれませんね。橋を架ける場所というのは基本的に決まっていますから。琿春の発達次第かな?

 農村地帯はどこも基本的に同じ・・・大きな集落には学校と例の作業場を備えた倉庫?と民家・・・民家と言ってよいのか?官有住宅?とにかく規格化された建物・・・そりゃ、地域によって微妙にデザインが違いますがね。それでも、判で押したように同じような家・・・

 Punginというちょっと大きな町に出ます。ここはどうやら炭鉱の町のようです。

 大きなボタ山、石炭の積み出しのための設備がありますが、なんとなく現役の鉱山ぽくないような?気のせいかな・・・

 ボタ山があることは、選鉱を行っていたことを意味しますから、品位はそれほど高くないことになるのでね。

 大規模な露天掘りの鉱山などを眺めた後だとちょっと気になるというわけです。縦抗の櫓がどこかにあるのかもしれませんが・・・航空写真は昼ごろ撮られるので、影で識別することが困難です。

 この地区にはほかにも採炭を行ったと思われるボタ山を持つ町がここ以外に2つぐらい識別できます。

 そして、この先には中核都市と思われる穏城邑があります。この町は今までの農村風景とはちょっと違った感じの街です。駅前に2階建て以上の長屋?が立ち並んでいます。

 何の建物なのか?まあ、なんとなく今までの街と違って、都会的な様相を示しています。大廈高楼が立ち並び・・・これらの建物は何?駅前ですから、ホテル?観光なんってこの国にあるのか?

 役所には見えませんね。街の中には学校と思われる建物がいくつかあります。

 この町は何で栄えたのでしょうか?ちょっと気になります。国境の川沿いの街ですから・・・当然、中国側とで一つの経済圏を作っていたはずですから・・・

 川の様子を眺めると・・・例によって爆破された橋があります

左のような橋・・・1945年から国境での交流は断ち切られているということなのでしょう。

 もともとは川を挟んで中朝国境の平野に一つの経済圏を作っていたのでしょうが・・・それが切られて久しいのでしょう。興味深いのは、中国側は駐車場を持つ公園のようなものにしていて、北朝鮮側は一軒の家と何本かの木々が生える場所になっています。満蒙風物即興 この本の中に、この橋の中央にあった税関?の様子が記されています。右のやつです。前川千帆は良い絵を描きます・・・漫画家・版画家でしたよね・・・

 例の短いチョゴリを着て頭の上に壺を乗せた姿です。どうやら、乳出しチョゴリはこの地域の風習なのかもしれません。こんな風に、日常的に国境を越えて商業が行われていたことを意味するのでしょう。

 この本も興味深いものです・・・ちょっと気になるのはハルピン近くの呼蘭に聖母廟があって、ここに十不全という像があるとのこと、体中に病巣を持ち気味の悪い像だとのこと、転じて全ての病を背負って治してくれるというもののようです。気味の悪い像、悩みを取り除く・・・どこかで似たような信仰が・・・そう、羽黒山の能除大師の信仰です。何か関連があるのか?

 経済が分断されてなお、この都市が存在できる理由は?気になります。大廈高楼は何のため?中朝での交流があればホテルや商業施設があってもおかしくはないですが・・・ああ、ちょっと前に見た駅前の再開発・・・こんな町が出来上がるのかもしれませんね。

 あの橋は1941年ごろに作られた橋なのでしょうから、橋での交流が活発になる前に、中朝国境が閉じられ街も大きな発展を見なかったのか?

 あれ?この町の東に何やら巨大なモニュメントがあります。何のモニュメントなのか?非常に巨大なものです。右のようなものです。

 この国で、モニュメントと言えば・・・革命記念碑ですね。

 旺戴山(王在山、ワンジェサン)は1933年3月11日に金日成が抗日運動の会議を開催した場所であるとされ、北朝鮮では革命の聖地のひとつとなっているようで・・・これを記念して1975年に建立されたもののようです。

 穏城地区地下革命組織責任者・政治工作員会議というのが開催され、そこで金日成が演説したようです。

 この演説の中で、この地域が反日武装闘争の拠点として成立していく様子が述べられていますね。

 豆満江沿岸の広大な地域に堅固な遊撃根拠地を創設しました。創設された豆満江沿岸の遊撃根拠地には革命組織と革命政権があり、我が遊撃隊を心から支援する人民があり、遊撃隊に奉仕する兵器修理所や病院など後方基地があります。

 ふむ・・・間島派遣隊に対抗すべくか・・・

 日本帝国主義者は、兵力を集中して国境警備陣の強化に励み、国境一帯に警察機関をくまなく配置し、各種の防衛施設をきずき、厳しい監視網をはりめぐらしていたとのこと・・・

 間島か・・・間島のパルチザンですね。この頃の状況は?

 このあたりの治安に関しては、1920年には日本が間島出兵を行い、独立軍との間で青山里戦闘として知られる戦闘が行われます。

 そして、1928年の東部吉林省経済事情によると・・・琿春・間島の地区は、朝鮮領ではないが日本の領事館や警察が治安維持にあたっているため、朝鮮人も保護されていたようです。生命・財産が保護され、このあたりは沃野が広がっているものの、人口がきわめて希薄であため、支那人の大土地所有者が朝鮮人を小作として歓迎し、それらの人が稼いで土地を手に入れ、結果として朝鮮人農場が増加していったようです。そして、土地の値段が廉価なため、朝鮮領内の土地を処分して移住する者も増加し・・・やがて朝鮮人所有地と支那人所有地と同じぐらいになります。大正8年以来の朝鮮人移住者は総督府の統計では14万人、推計ではすでに20万人を超えるとのこと・・・
 畜産も盛んで極めて有望・・・この時期の領事館警察機関は18箇所、警察官の数は400人弱、これから在住朝鮮人が40万人にも増えるとなるとこれでは手薄、しかも、在住朝鮮人の思想が土地柄著しく過激に傾いている・・・

 朝鮮系パルチザンは満洲国成立後、1933年(昭和8年)には中国共産党系の武装抗日組織である東北人民革命軍に編入されますから、このあたりの話なのでしょう。

 新しい住民が爆発的に増え、そこそこ裕福な家が多く・・・小作から自作農へと転換していくわけですから。そして、それなりの教育を受けた若い者が増え・・・日本の主権下にないこの地域は抗日パルチザンの根拠地となりやすかったということですね。抗日運動、これも興味がわいてきました。

(2012.11.08)

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