歴史の中をうろうろ(7)
 日韓併合でどんな変化が・・・(7)

 景福宮は、いまだに再建途上のようです。グーグルアースで現状を眺めると、まだまだ空き地や基壇の跡が残っています。建物は建っているだけで維持費がかかりますから、広大な王宮を維持するのは結構お金がかかるのではないかと思うのですが・・・近代建築の良いところは、開口部が少なく、機密性が高い・・・ああ、ヨーロッパだと開口部が広く、機密性が高いになるのか?同じ建物でも感じ方が違う部分があるようです。昔のヨーロッパの建物は開口部が小さく暗い部屋・・・近代建築というより、ガラス窓の導入で部屋が明るくなったという事情がありますから。

 しかし、ちょっと気になるのはソウル辺りは冬寒い・・・しかし慶会楼や右の写真の洗剣亭などは、江南の建物のような感じです・・・まあ、居住用ではないものですから問題はないのでしょうが・・・さて、この洗剣亭、どういった由来のある建物なのやら?

 写真についている説明には・・・京城の北門の彰義門の外の市街にあり、昔光海君が綾陽君をここに閉じ込めて密かに殺そうとしたが、綾陽君は企てに気付いて兵を挙げ、光海君に立ち向かい、ここで剣を研いで都城に突入し、光海君の位を退け国を定めたことにより、ここを洗剣亭という・・・という内容が示されています。

 近頃の解釈では 昔からこのあたりの景色は有名で、弘済川一帯の景色を鑑賞するために建てられた亭で、古くから建物は存在し、1748年の建て替えに際して洗剣亭という懸板が掛けられたとのこと。洗剣亭の名は剣を洗い、平和を願う場所という意味である。

 現在の建物は1941年に火災で焼失したものを1977年に復元したものとのこと・・・

 東京国立博物館に洗剣亭図がありますが、これは写真のものと形が同じですね。

 現在の建物は左のようなものです。グーグルアースは便利・・・下の岩は同じですが、建てられている位置は、やや川の方へ出てきている・・・多分道幅の拡張のためでしょう。そして護岸がしっかりとされたので、川幅が狭くなったという感じなのでしょう。居ながらにして景色を確認できるというのはすごいことです。

 東京国立博物館の洗剣亭図では築地がめぐらされています。大勢が集う姿が描かれていますから・・・案外、まわりに補助家屋があったのではないかと・・・食事ぐらいするでしょうからね。

 しかし、観光地としてはインパクトが弱いものになってしまっているようです。まあ、大きな道路の脇ですからね。あとは護岸が・・・古い写真で人が立っているところまで道から高度差で3mぐらいはありそうですからね。

 しかし、この建物・・・公園という位置付けではないでしょうから何かの意味があって維持された?

 この建物は、右の写真の昌徳宮の芙蓉亭に似ていますね。こういった建物が流行りだったのかもしれません。私も欲しい!

 文化は、積極的に受容して、自分の持ち物の一部にして、さらに発展させるべきだと私は思うのでね。自分のでない文化を否定するのは簡単ですが、それでは豊かになれません。豊かになるためには多様な価値観を認めつつ、自分の価値観を高めるのがよさそうです。

 ふむ・・・1623年、西人派を中心とした勢力は、仁穆大妃を担ぎ出し、クーデターを起こした。光海君は廃位されて直後に江華島へ追放され、後継には甥の綾陽君(のちの第16代国王仁祖)が擁立されて即位した。この事件を朝鮮史上では仁祖反正と呼ぶ。その後、西人派政権は大北派を粛清し、外交政策を崇明排清に転換した。そのクーデターの舞台になった場所なのでしょうが・・・ネットの中には、これ以上の説明はあまり見出せません。

 朝鮮には何やら大きな建物がずいぶんとあったようです。右の写真は恵運宮中和殿とのこと、もともとは王族の邸宅として造営されたものですが、文禄の役で荒廃した景福宮の代わりに、1593年から臨時の王宮として国王は政務を行います。このときは貞陵洞行宮と呼ばれたそうです。その後、光海君が居住し慶運宮に改名されます。

 やがて、景福宮が復旧していくと光海君は昌徳宮に移るとこの宮は荒廃していきます。

 1897年に高宗が慶運宮を改修し、1896年に閔妃が暗殺され、高宗がロシア公館に避難する事件が起きてからは、慶運宮に高宗は居住するようになり、退位する1907年まで王宮として使われます。そして慶運宮は徳寿宮と改名し、現在にいたっています。

 この写真で気になるのは左の洋風の建築物です。なかなか立派・・・この建物は石造殿と呼ばれ、例のイギリス人ブラウンが言いだして、同じくイギリス人のハーディングの設計で作られた新古典主義様式の大きな建物です。1909年に完成とのこと。現在も健在とのこと・・・

 石造殿の雰囲気は右の写真で分かると思います。旧来の築地の内側に木造の立派な建物と、これまた立派な石造の建物・・・そして、イギリス式の庭園が・・・日帝時代を迎える直前に完成した、洋式の建造物・・・

 ふむ・・・朝鮮半島には花崗岩が山ほどありますから、この建物も花崗岩のようですが・・・花崗岩というのは極めて固い岩石で・・・加工が困難・・・

 日本だと・・・霞ヶ浦界隈では、筑波山あたりから産出する、変成岩と花崗岩が利用できたようですが、花崗岩は固くて・・・真言律宗の連中が、優秀な鉄鑿を持ちこむまでは、細かな細工が困難な石だったと・・・なんとなく記憶が・・・すると、朝鮮にはなかなか良い鉄があったのか?朝鮮の製鉄はどんなだったのやら?日本だと明治時代の半ばくらいまで、製鉄と言えば、たたら製鉄が主力だったと・・・多分・・・

 記憶がかなりいい加減・・・とにかく、自前で花崗岩の細かな細工ができたのか?それも気になりますね。一国の文化は、それを支える技術や産業で、その高さが自ずと決まってくるように思えますからね。

 土俗的なものもありますね。南山の国師堂の内部のようです。神様の画像が掲げられているようです。

朝鮮の土俗宗教も興味深いと思うのです。教団を形成している宗教がそれほど強力でなさそうなので・・・冠婚葬祭がどのようなものであったかを知れば、そこそこ理解できるような気がしますからね。

 基本は祖先崇拝・・・教団を持つような宗教を持たなかったのか?イザベラ・バードは基本的にキリスト教の宣教師のネットワークを利用して旅行しているようですから・・・教団が組織されていない者は好きではなかったのかと思うのです。改宗させるのに非常に手間がかかるから・・・案外ね。朝鮮の社会は、王族貴族階層は中華文明にあこがれ、下層社会は封建制の中で・・・キリスト教の得意技、道路・病院・学校を使って教化する集団ではなかったということのような気がします。

 さて、朝鮮の土俗宗教は、どうも呪術医の性格が強いようですね。下層階級は医術など縁のないものだったのでは?あと・・・風水かな?ちょっとまとまった資料がなくて・・・おぼろげな記憶では・・・日本の道祖神みたいなやつ・・・疱瘡よけとか、イワシの頭のようなもので赤痢除けとか・・・形代のようなものでマラリア封じとか・・・朝鮮総督府調査資料. 第25輯 民間信仰第一部 朝鮮の鬼~ ああ、こういったやつ・・・村山智順とか・・・そういった研究者が心血を注いだ研究・・・短期間に大部の調査報告書を残した・・・

 ああ、良い時代になった・・・国会図書館の資料などを縦横に使うことができる・・・図書館では、酒など飲みながら本を読むなんって絶対無理だもの!禁帯出・・・そのうち死語になるかも?

 民間信仰は面白い・・・俗っぽい道教は・・・西遊記とか、封神演義などで身についていますけど・・・山海経・抱朴子・・・ずいぶんと読みましたっけ・・・

 あれあれ・・・ところで、国師堂って何?南山から仁王山へ移ってるって?理由は、噂では、南山の中腹につくられた官幣大社朝鮮神宮よりも高いところにあったから移転?右の写真が朝鮮神宮の参道の入り口でしょう。

 中国の鬼神・・・読んでまずが・・・なんとなく今昔物語の世界のような鬼の話が出てきます。三国遺事とかも面白そうです。これは、目にしたことがある・・・東京雑記という本もあるが・・・こいつは検索不能・・・

 龍泉淡寂記なる本からの引用がありますね。これはいつ頃の誰の本やら?この本の事は日本語では検索に当たらないですね・・・近頃の得意技、機械翻訳を活用すると韓国語のサイトもチェックできます。

 金安老1481年から1537年に生きた人が書いた35編の伝承された説話を記録したもの・・・この金安老、朝鮮王の外戚で政局の混乱の中で一度罷免され、京畿道に流され、そこで集めた話のようです。この人物、再び政府の中央に返り咲きますが・・・結局は追放されてしまうようです。なかなか興味深い人物・・・

 この人のいた時代の宮廷は面白そうです。俗信はずいぶんあるようです。

 とにかく、朝鮮の俗信・民間信仰はすごく面白い!ちょっとこの本真面目に読んでみなきゃ!後半に山ほど呪符があって・・・どうやら、朝鮮の民間信仰は奥が深い・・・呪符がべたべた貼られている家を見たら・・・イザベラ・バードは何か言及してたかな?これまた気になります。ちょっと、呪術や民間信仰へと方向転換するか・・・

(2012.10.20)

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