歴史の中をうろうろ(5)
 日韓併合でどんな変化が・・・(5)封建社会の崩壊c

 ちょっと、貨幣史を眺めていると面白いことに気付きます。それは、金銀貨ってのが交易用に造られていたような感じなんです。まあ、金貨などは1枚の価値が非常に大きいので、船などで一度に大量の貨物を運び、それを決済するには都合が良いもののような気がします。そして、1900年ごろだと、貿易銀がさまざまなところで発行され、雑多な貿易銀が混在して決済手段に使われていました。米ドルも、メキシコドルも、わが国の1円も、香港の1円似たような貨幣で、ほぼ等価で使われていたようです。これは近代の例ですが、大昔の通貨はこういった、決済のみに使われる決済通貨として発達したようです。

 そして、大量の銅貨が出てくると、一気に貨幣社会が登場するようです。ただ、大量の均質なというのがキーワードになるようです。秤量貨幣でもそれなりに有用なのでしょうが、均質であれば、それの枚数を数えるだけで決済が済みます。それで、それなりの購買力があるならば・・・

 貨幣経済の衰退は・・・ごく当たり前に、通貨が安定して発行されなければ無理ですね。贋金が多すぎたりするとだめですし、流通している通貨が減少すると、贋金だって本物のお金のように通用していきます。

 面白いのはグレシャムの法則・・・悪貨は良貨を駆逐するというやつですが、それは、大量の均質な良貨と、これまた大量の均質な悪貨がある場合でしょう。つまり、発行元の資金が枯渇して貨幣の質を落として発行する場合・・・改鋳というやつをやる場合のようです。

 古典的な通貨は、その額面で取引されるのではなく金や銀や銅の含有量のようです。金貨などの場合は、金がどれだけ含まれているかを調べるのに、金貨を試金石・・・まあ、黒い硯に使うような石にこすりつけますすると石の表面に金貨で金色の線がかけます。これを見て、手元にある純度のわかっている金をこすりつけその色・・・条痕色を比較することでかなりの精度で金の含有率がわかります。江戸の両替商は、こういった試金石と天秤ばかりで精密な計測を行う技術を持っていました。

 しかし、銭にも高額の銭が現れます。1835年に寛永通宝に対して100倍の価値を持つとされる天保通宝で、寛永通宝8枚分の重さのものです。この通貨は・・・含有される銅の価値ではなく、額面で通用する通貨ですから・・・銅の価値とは離れたところに価値を認める通貨であると言えます。そして、時代が変わると・・・銭は1厘、天保銭は8厘へと評価換えになります。ここでも、価値の消滅があったか・・・

 日本では、天保銭が発行されたあたりで、近代的な通貨による経済が成立していたことになるのではないかと思われます。関連するものとしては・・・藩札ですね。一般には藩の財政が悪化して手形のように流通していたようにいわれますが、商品経済の発達に通貨の供給が間に合わなかったことによる現象では?そんな気がします。米を本位通貨のように使う米札とかも発行されています。藩札に対する幕府の対応は1705年に藩札についての調査が始まり、1707年に藩札の使用の停止が行われますが、なぜか1730年に藩札の解禁があって・・・1759年に再び藩札の発行禁止・・・やがて幕府も1867年には3種類の紙幣を発行します。

 藩札の通用調査は元禄文化期の話ですから、この時代にとてつもない経済発展があって、通貨が不足したのではないかと思われます。

 そして、藩札の禁止令は・・・案外、金銀貨の改鋳との関連であったのではないかと思われます。藩札は額面、そして対応する金銀貨の品位が下がるわけですから、それなりに経済が紺連する可能性を秘めていたのではないかと・・・そのこともわかっていて、江戸の為政者は通貨政策を行い、経済の安定的な発展を目指していたのではないかと思うのです。

 ですから、日本では1600年代の末には完璧な貨幣経済が成立していて、経済発展に見合うだけの通貨を作りだすだけの金銀鉱山は今後は見込めず、貨幣は法制によって定められ、国家が補修するものだという概念が、知識層では定着しつつあったのではないかと思います。それが、天保銭に象徴され、天保銭の発行で、日本は管理通貨制度に入ったと考えてもよさそうな気がします。そう、この発行に際して、勘定奉行 荻原重秀は「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」ですからね。まあ、この反動は大きかったみたいですが・・・経済のわからない新井白石が現れ・・・経済政策をむちゃくちゃにして・・・徳川吉宗が苦労することになるのでしょう。拡大する経済は止められない・・・

 江戸時代は基本的には米を本位通貨としているようなものですから、江戸中期に農業生産に革命が起こって、米の収量が飛躍的に伸びたのではないかと・・・推定では、、1600年頃で2000万石、100年で1000万石ずつ増加していって天保の頃に4000万石などと推定されていますから、江戸幕府が開かれたときから比べても通貨量は天保期で2倍は必要になり・・・通貨の普及でその他の産物の生産量にも見合うだけの通貨が必要な状況になっていたということなのでしょう。

 ふむ・・・江戸時代というのは・・・武士が贅沢三昧をするから、武家の財政が破綻して、それを糊塗するために通貨の改鋳を行い儲けていたいたとか言われたりもしますが・・・実は経済発展に通貨の製造が追いつかなかった・・・というだけではないかと・・・そして、額面を示す通貨が現れ、明治に入って戦費をひねり出すための太政官札が5年ほどで、政府の信用で回り始め、円貨へと移行していき、兌換券の名目で発行されますが、それを裏付ける金は?案外、ロンドン市場へ送られていたとか?紙幣で引き上げた江戸の大量な金が・・・国際決済に用いられ、多くの軍艦や兵器へと変わっていった・・・そして、そのメンテナンスと製造のために工業を興し・・・江戸幕府が金山を開発し、旧時代の金を、金貨に換え市中に流通させ、蓄えて来た金を、明治政府は紙幣で引き上げ、日本の近代化への原動力に使った?ということですかね。

 そして、幕末には日本は管理通貨制に移行する準備ができていた・・・それによって大きなインフレを引き起こすことなく太政官札4800万円もしこれが金の裏付けがあるなら・・・明治の1円金貨の金の含有量からすると・・・およそ40トンぐらいの金が市中を巡っていた?ことになるのかな?

 ああ、江戸幕府は、案外、開国によって強いられた日本の通貨システムを国際基準の金銀に合わせるための国内経済の調整作業の中ですりつぶされ、明治政府という看板に掛換え新たな信用システムの創出のために終わったということかもしれません。

 それに、通貨の発行は、江戸幕府ではなく・・・金座を運営していた後藤家ですから・・・

 ふと、歴史は為政者を中心に書かれますが、為政者などは単なる人間の集団による営みの表象にすぎないような気がします。人間の集団の営み=経済を中心に歴史を眺めた方が、はるかに有益なような?人間の営みは為政者が変わっても大きく変わることはないが、人の営みの大きな変化があるとき、その看板である為政者も変わるという気がするのです。そんな風に考えた方が・・・平和な世界ができるような気がしますね。

 時代が変わるのは、前の為政者が悪いではないような気がしますね。

 なんとなく、旧来的な歴史観というのは、何かちょっと変な気がしてきました。歴史認識・・・歴史観・・・歴史などというものは編集の魔術によるものですからどのようにでも記述できます。まあ、国の威信などという下らない記述方針はあまり意味はない・・・個々人にとっては歴史というのは、国家の威信史では意味を持たない、あくまでもただの民衆にとっては・・・経済史的な歴史観の方が役に立つし、生活の変化に対応するには・・・民衆生活を基軸にすべきか・・・しかし、民衆には階層があり、その階層での生活史・文化史を記述していくと・・・瑣末な膨大なものになってしまう・・・歴史の全体像は見えなくなってくる・・・

 歴史などは国家とか民族主義的な高揚以外では、実用性がきわめて低いものですから・・・

 かつて、歴史法学を研究を志したものとしては・・・サヴィニーの、法は言語と同じ様に民族共通の確信であって民族精神の発露として捉えるのも悪くないと思うのです。そして法は民族の歩みとともに自ずから発展するものであるとも思います。しかし、この見方はひっくり返すと、民族精神の発露を標榜して為政者に都合のよい歴史と法を与えてしまうことになりますからね。

 いずれにせよ、交換媒体の変化で経済が発展してきたことは間違いなさそうです。そして、経済が歴史を変えて行ったことも間違いなさそうですからね。そういえば、徐々にキャッシュレスの時代が本格化してきたような?クレジットカード決済・・・私などは家計におけるネットショッピングの比重が高いので・・・現金を触ることが減って来ていますね。紙切れという価値の表象物の紙幣から、データの時代ですから・・・経済は大きく変化する可能性がありますね。

 商品経済の中に、新たな巨大な価値を持つ商品が生まれる事の方が、大きな経済への影響が出てきそうな感じです。

 あれあれ・・・当初の予定からずいぶんと離れてしまった・・・経済と社会制度・・・そして為政というものはなかなか面白いものです。

(2012.10.17)

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