豊かさって・・・? 続き

 豊かさとは何か?気になるんです。近頃の豊かさは、物質的なものより、創意工夫の才の方へ移行しつつあるのではないかと思われるのです。

 物質的に満たされつつある世の中・・・携帯端末すら持てない貧困層は別として・・・今や、携帯端末を持って歩けばそれだけで生活が成り立ってしまうような?

 極論からすると、自宅というのは寝る場所というか・・・とにかく、そこに行けば目的の人物に会える場所という気がします。最低でも寝るのに帰る場所ということになるのでしょうから、数日間、夜討朝駆けをすればその人物を捕まえることができる場所とも言えますかね?

 しかし、現在ではそれが崩れつつありますね。私だって、海岸の小屋やら その他の場所をうろついていますから・・・自宅など週に何度も帰っていない・・・自宅に泊ることはほとんどなく、郵便物のチェックを行っているのに近くなってきています。

 ああ、近い将来・・・住所地って本籍みたいな扱いになるのか?なんって・・・久々に、パスポートを取るので戸籍謄本を取りましたが・・・本籍なんってあって無きが如きもの・・・何しろ、あまり正確に覚えていない・・・パスポートの申請の際の読み合わせでしくじったし・・・447か477って言っちゃって・・・本籍地など遠い遠い忘却の彼方・・・

 私の場合はさらにひどくて・・・公式の現住所地と、主な生活の場はあまり一致していなくて・・・それが可能なのは・・・携帯電話と、あそびの本拠地にあるインターネットですからね。遊びと言っても、6時間程度はかなり必死に金儲けの算段でネットを利用しているというわけです。

 さて、豊かさは・・・となると・・・

 旧来的なお金持ちと言うと、あちこちに邸宅や山荘などを持ち、常宿を持ち・・・XXへ行くぞ・・・これでも、仕事は滞りなく・・・まあ、最高決定機関までたどり着く事案はそれほど多くないか・・・企業などのトップか自分の判断を瞬時に反映させることができるのなら・・・オフィスに詰めている必要はない・・・ふむ、ITによって中央集権は形を変えそうな?権力機構の中枢の意思決定機関の設置というのは・・・すでに古臭いものなのか?なんってね。

 豊かさって・・・分かりにくくなっています。ITによって変わったのは・・・ちょっと前まではレコードや書籍を買い込むには・・・田舎の本屋やレコード屋じゃなくて、都会へ行くしかなかった・・・田舎では一般的に物しかなく、ちょっとマニアックな人間には面白くないですからね。しかし、今ではネットで購入・・・出かける必要はなし・・・田舎でもそれほど問題なし・・・さらには、レコードも本も、そのデータで良いのなら・・・瞬時・・・都市と田舎の差はなし・・・

 そう、株式市場の市況を伝達するための手法・・・飛脚、電信、電話・・・そしてデータ通信へと・・・限りなく光の速度に近づいていく・・・IT化できない物は・・・その場にいて受け取る感覚だな・・・

 触覚・嗅覚を刺激するもの・・・これは、現在IT化が困難なのでしょう。しかし・・・技術の進歩は・・・やがてモニタやスピーカーなどを要しないシステムが開発されたら・・・脳と直接信号をやり取りするようなインターフェイスができたら・・・仮想現実と現実の境界は意識できなくなる・・・

 人間の感覚器官からの信号を遮断して、脳に直接刺激を送るって・・・できたら凄い!そうなると、その端末に脳を繋いだら・・・大金持ちとその端末を利用できる程度の収入の人間では気分の面では貧富の差はほとんどなくなってしまう。

 感覚器官の一部分を乗っ取ることができるなら・・・ただの飯に塩を振っただけのご飯が、贅沢な丼ものと認識させ、腹を満たす事も可能・・・満足度は自在にコントロールできる・・・水がワインに変わり・・・実は何も食していないのに、胃からの刺激を乗っ取り、肝臓からの信号を乗っ取り・・・あたかも満腹である感覚を生み出すことで・・・ダイエットとか・・・さらには・・・その満足感の中で飢え死にしていくとか・・・マトリックスやアバターなどの世界だな・・・

 仕事から帰ってくると、軽く飯を食って・・・右のような装置の中に横たわり・・・仮想現実の世界へ・・・アバターを操ることで、現実に遠隔地での体験を本来の体とちょっと違ったもので・・・レンタルのアバターを駆使して遊んでくるとか、マトリックスのように完全な仮想空間で遊ぶか・・・

 もし・・・私のようにPCで仕事をしているとなると・・・食事とトイレと風呂以外はこの端末外での楽しみは無くなってしまうとか?

 しかし、現実との差が感じられないのであれば・・・標準的なレベルの家計ではレンタルのアバターで、金持ちは自分専用のアバターを所有し、海外の別荘に保管して置くとか・・・海外の別荘でアバターを通じての実体験・・・貧乏だと・・・トータルリコール社のへ行って、偽物の記憶を植え付けて満足感だけを得る・・・

 麻薬が生み出す幻覚の世界に似ているような?リンク装置という中で、デジタル化された情報の断片が現実になる・・・

 仮想現実の世界のクリエーターなんって面白いかも?如何に沢山の妄想を現実の如く見せるか?とか・・・ん?ふと、今カラオケの練習をしてます・・・カラオケってある意味仮想現実の世界に近い・・・ステージに立ち演奏家を控えさせスターになった気分・・・

 今、やっているのは採点機能とガイドを使った練習・・・自分がどこで音を外しているか一目瞭然、人間が批評するのと違って機械の批評ですから、その得点には文句をつけても意味が無い・・・文句をつける行為自体は感情的なものですから、機械に対して感情をぶつけても仕方ないので・・・ある意味、素直にかつ大胆になれる・・・仮想現実と現実の差は、この素直かつ大胆になれるということなのでは?

 仮想空間に自分の仮想の屋敷を立てるという行為自体はどのようなものなのか?都市は・・・不滅の都ダイアスパーのようなものか?銀河帝国の崩壊だったかな・・・いや、都市と星だったかな・・・まあ、いずれにせよ都市の実像は記憶バンクの中の物が実体化されている。この部分については、時の流れによる変化は見られないが、記憶バンクの中にない実体物は経年変化を受けるとか・・・そういったものですね。

 記憶が定かでないのは・・・都市の個人の家の戸口の接続部分ですね。パブリックスペースとプライベートスペースの境界・・・日本型の家だと、外周の防壁があり、そこに門が存在し、その門を入ると玄関があるという形ですね。ああ、武家の屋敷の構えが基本モデルなのか・・・アメリカ映画に見られる家は、道路から準パブリックスペースの庭があり、テラスの先に玄関そしてホール、邸内、その先に完全なプライベートスペースの庭が存在する・・・前庭部と中庭を擁する建物がイメージか?

 ありゃ?なんだか考察が妙な方向へ向いてきてるぞ・・・家の構えの違いが、人間関係に及ぼす影響というより、社会的な人間関係が家の構えの違いを生み出している?

 家の構えというのは都市型と農村型ではイメージが違うのか?ふと・・・都市型の基本モデルは武家屋敷や律令時代の官衙や寺院建築なのでしょう。よって外周防衛システムが深層に隠れている・・・?農村型は?神社建築ですかね?外周防衛のためのものは基本的になく・・・外との区切りは・・・鳥居の存在のみか?

 また史料の少ない分野に足を踏み入れたような?昔の農村集落の景観を知るには・・・小説のようなもの・・・ああ、ありますね。近代デジタルライブラリー - 田舎と都会 朝鮮関連で調べ物をしたときに出会った本です。

 里山が静かなブームになっていますが、この本が書かれた昭和の初めに、武家地に育った筆者の人文地理的な考察をほのめかせつつ語られる里の様子・・・田舎道ねぇ・・・かつては里山は、燃料供給地であり、肥料となる木の葉・・・さまざまな木工品の原料を産し・・・それ故、保護され、塵っ葉一つ落ちていない美しい森林であったわけです。燃料革命や、農機具の変化化学肥料の利用などで、存在意義が失われた場所・・・もともと、里山は観賞用ではないですから・・・

 今や、私有地の里山など・・・その下に砂利などが出るのであれば、切り崩されて平らにされてしまう運命にあります。美しい里山にあこがれて家を建てても、こういった利益のために、借景は悲惨なものへと変わってしまいます。

 右は、鹿行地域のある場所の変化を示したものです。別荘地の南西に広がっていた里山ですね。マウスを写真の上に持っていくと、幾何学的な美しさを持った非情な空間へと2年ほどの間に変容しています。

 里山好きな人間にとっては・・・ちょっと、厳しいですね。特に、こういった森林を散策するのが好きで、この場所を選んだ人には・・・しかし、誰かの所有地で、採集された土砂、砂利などがお金に化けるといなればね。

 ああ、またアバターの世界へと戻ってしまったかな?緑を愛する人、砂利のむこうにお金を見る人ですかね。どちらが正しいのか?すでに利用価値の無い里山を切り開くことのよって、その場所の新たな価値を見出そうとする者に対して、金銭的な価値ではない物を・・・心の安らぎを求める人の間のせめぎ合い・・・

 そういえば、明治の初めに駿河台のニコライ堂の近くに土地を二束三文で買った人が、そこから砂利が出たことで大いに儲けた話を何かの本で読みましたが・・・砂ばかりの台地・・・、砂利が売れるとなれば、こんな風に変わってしまうのでしょう。多分、近くの生コン工場へと運ばれているのでしょう・・・航空写真から読み取れるところによれば・・・

 豊かさって、難しい・・・金銭で得られる豊かさ、金銭によらない心の豊かさ・・・最悪なのは心が貧しく、心を養うことなく、金銭に貪欲であることか?

 いや・・・価値観の違いですかね?木々の緑、自然物の造詣が豊かな地域では・・・プラスチックカラーや幾何学的な造形が美しく見え、プラスチックカラーと幾何学的な造形の豊かな地域では、木々の緑、自然物の造詣が美しく見えるということなのでしょう。美しさの基準が違う・・・文化的な差ですね。日本という国の中で、田舎と都会という本の中で著される、隣接した地域での武家・商家・農家のカラーの違い・・・

 異文化交流ってのが難しい・・・価値観に差がある場合、それは説得することは不可能ですからね。イスラム教徒に、おいしい豚料理を出しても、食べてはもらえません・・・理由はありません。それは絶対的な価値観だからです。その絶対的な価値観を捨てて改宗によって初めて食すことができるものです。

 普遍的な価値観というものは存在しない・・・普遍と言えるのは・・・金銭で表された価値の範囲までですからね。これを超える、精神的な価値観は、妥協を許さない範囲に入ってしまいます。精神的な範囲を緩めるために・・・ある宗教では免罪符という精神的な価値を金銭的なものへ変える装置を見出したりしますが・・・

 飢えという生死を分ける究極の場面でなければ、まあ、精神的な価値ってのが優先されるってわけなんでしょう。

 私は・・・絶対的な価値は、基本的には認めませんので・・・ちょっと訂正、自分の持つ価値観というものは、程々に保留したうえでですけどね。しかし、起こってしまったものは・・・それをよりよきものに変えて行くしかありません。それが、知恵であると信じるからですけどね。

 つまり・・・食べて行くのに十分な知恵もしくは環境があって、その上に、更なる知恵あるものが豊かであると言えるのでしょう。さて、私は豊かになれるのでしょうか?
(2013.03.31)

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