生きる力というか・・・一人でできること・・・

 ふと、日本の教育で不足している部分って・・・意外と技術史の教育とか、物を作るということは何なのか?そういった部分の教育が欠けているのではないかと思うようになってきました。

 企画力というか、そういったものにつながる教育ですかね?何か自分でしようと思ったときに、何が必要なのか?それを見極める力というか・・・まあ、お金があれば、こういった力は考える必要はありません。欲しいと思ったものが棚ボタ式に現れればですね。

 何かを見たとき、それを素材として何ができるのか?それを考えることができるのなら、そこには高付加価値商品の開発が可能になるのではないかというものです。高付加価値商品ってのは、基本的にはありふれた安価なものをはるかに高価なものに作り変える技術ですからね。

 たとえば、単なる木切れ、しかも腐りかけてぼろぼろになったもの・・・こういったものであっても、円空などの手にかかればそれなりの価値ある仏像へと変わってきます。豊かな発想と確かな技術の賜物・・・発想と技術が両輪となって製品が生み出される。発想が良くても、あまりに高価なものとなればそれは意味はなく・・・素晴らしい技術であっても、発想がなければ・・・何も生み出す事はできません。

 芸術などはその発想の最たるものです。アート・・・しかし、これもまた技術ですから・・・まあ、物を作るという作業って、ある意味未来へ向けた活動ですが、未来に向けて切磋琢磨するという作業が、近頃、失われているような?

 東電の原発事故対応の話などでもそんな感じです。解散!という言葉で、幹部が一時的に席を外したなんって、たいしたことか?なんって思いますが、報道では大騒ぎ・・・幹部の所在が分からないわけでもないのに、技術者の対応で概ね済むとの判断によるものでしょう・・・そのときの判断というものを、未来から眺め文句をつけるのは簡単、そのときの判断は過去からの積み上げで未来を作るためのもの。

 長緒場になる・・・全員が顔を合わせている必要はない、緊急性が低くなり判断を下す人間の所在が分かっていて、遅滞なく判断が下せる体制が確立した時点では、全員が集まっている必要はない・・・と思うが・・・それでも、判断する人間が詰めていなければならないなんって・・・衛星回線の携帯電話とか持っている人たちなのに・・・携帯電話の電源を切るな!とか指示を出せというのかね?

 日本って、形式的な行動が必要な社会だとは分かっていますが・・・未来につながるものでない、枝葉末節な事柄が大好きな国民性だから・・・仕方ないかもしれませんがね。

 日本で好まれる言葉・・・責任者を出せ!責任を取れ!土下座せよ!腹を切れ!だけど、これってすごく簡単じゃん!これだけで終わるんだから・・・頭を使う必要もないですから。ごめんなさい、土下座して謝ってNo!なら腹を切っておしまい・・・ここで未来への展開は終了しますからね。これが日本型の事件の終わらせ方・・・

 辞めて、死んで、そこで追求は・・・無理、はじめから無理な状況へ持っていくのが大好き・・・そして、諦める。いや、諦めのつく状況が最後の手段・・・これで本当にいいの?と思うわけです。

 何かに反対し、建設的な意見を述べられない人っていますけど・・・ふと、ある子供向け?のお話を思い出しました。新見南吉のおじいさんのランプ・・・このお話には、素晴らしい言葉がちりばめられていますからね。

 日本がすすんで、自分の古いしょうばいがお役に立たなくなったら、すっぱりそいつをすてるのだ。いつまでもきたなく古いしょうばいにかじりついていたり、自分のしょうばいがはやっていた昔の方がよかったといったり、世の中のすすんだことをうらんだり、そんな意気地のねえことは決してしないということだ。

 マッチを持って来りゃよかった。こげな火打みてえな古くせえもなア、いざというとき間にあわねえだなア

 近頃話題の・・・そう、原発にしても、オスプレイにしても同じような気がします。新しいテクノロジーというのは、そのテクノロジーとは異なった環境で教育を受けた人間にとってはなじみのないもので、その操作系は、基礎教育で学んだこととは違ったりします。しかし、そのテクノロジーから学んだ人間は・・・新しい操作システムに違和感はなく・・・旧式なものには手を出さなくなるでしょう。

 私はもちろんマッチ以降の世代・・・並行してライターもありましたから、でも火打ちは知識はあっても多分、使いこなせないのでは?なんてね。まあ、なんでも興味を持って何かを行えばできないことなどないですが・・・放火は・・・現在の仕事や生活を守るために、こういった手段に訴える・・・しかし、時代は移り変わり過去のものへと変わってしまいます。

 なんでも、時は流れ技術も移り変わってしまいます。なんでも、素晴らしく見えてものが、技術の進歩で過去のものになり、新しい操作系になれた者にとっては、堅実に見えるものであっても、それはすでに過去のものになってしまうというわけです。反対を唱えるのは簡単、より安全なものに変えるための努力の方が難しく、そして、命がけの努力が必要です。

 ああ、命がけの努力というので思い出しましたが、竹島問題・・・竹島に切り込んで死ぬんだ!って唱えている人間がいて、本当に切り込むのか?切り込んで死んでやる!ただし、記者会見をして、大見え切って乗り込みたいなんって言ってたので、記者会見と、船のチャーターは可能だよ!って・・・久々に本気で考えました。

 記者会見は・・・死ぬ気ならそれほど難しくないかな?たとえば、政府に対して竹島航路の開設の申請書を出すとか、竹島は国有地か県有地でしょうから、使用許可書類を出してみるとか・・・当然却下でしょうが、却下理由を聞きに行くとか再申請とかを行えば、政府筋の人間と現実的なレベルでの話し合いをすることになります。

 このやり取りを、報道に流し、インターネットで声明を発表するとか・・・話題を作るのとは可能でしょう。何しろ、切り込みに行くという固い決意なのですから・・・・

 問題は船のチャーター・・・場合によれば、船を買い込んで強行突入ですかね。話題性が高くなれば、それなりに面白い、男子一生の仕事としてね。

 面白いのは、一応実現可能なレベルの話へ持っていくと、何やらグチャグチャ話がしていきます。こんなものは直球を投げて、死ななければいけない状況へ持っていかなければうまくいきません。翻意されたら、かかわっている人間は馬鹿を見ますからね。

 結局のところ、記者会見はやらなくても良い、静かに出かける、竹島へ切り込む前には少しは良い思いをしたい・・・何だ?良い思い・・・良い女を抱きたいだと!私は、当然怒ってしまいます。多分、竹島へ切り込む前日に御大尽遊びをやって、夜逃げを決め込むいつもりなんでしょう。それをさせないために、記者会見をして、日本に新しい英雄が生まれることを高らかに宣言して、顔が売れた所で、何が何でも死んでもらわなければなりません。

 竹島に行けないのであれば・・・隠岐の島あたりで竹島に向かって腹でも切れば、一応の形はつくでしょうね・・・ひそかに、世界にインターネットライブで流し、できるだけ多くの動画サイトにその最期の様子を流せば・・・誰も、完全に消去することはできないでしょうからね。

 さてさて、インターネット配信の基本技術はマスターしたし、スタジオもあるから、何か新しい技術を使って、インターネット放送局でもでっち上げますかね。

 近頃、世界のインターネットラジオとかネットTVなどを眺めていますが、フランス語と中国語とロシア語を少し覚えてくなりました。英語とドイツ語だけでは、物足りなくなってきてね。

 あの、ジンバブエ共和国にもなかなか楽しいインターネットラジオがあったり、こんな国にもインターネットTVがあるとか・・・まあ、ライブで流れているのは素晴らしいことです。面白いのはNHKの海外向けのネットTV、これって、日本の文化を歪めて世界に伝えているのか?なんって、ふと思ってしまいました。いわゆるゴシック・ロリータってやつですかね。あのデコラティブなコスチュームの話題でしたが・・・あれって、日本で大々的に普及しているファッションか?なんってね。

 なんとなく、近頃は書店に翻訳小説の新刊が減って来ているような?日本の作家の作品はどれも似たような感じ・・・ネットラジオでさまざまな国で流れる音楽と日本で流れる音楽は、やはり差が大きく感じられます。ふと、フラメンコと日本の演歌などは共通点があるのかな?なんって・・・

 ネットTVやネットラジオの世界では、どうも日本は閉鎖的な感じがします。気のせいならよいのですが・・・日本語での海外のインターネットサイトに関する記述が、だんだん少なくなっているような?確かに、日本の技術水準は高く感じられます。しかし、独自開発が好きなようです。

 ネットTVのシステムなどは、確立された技術で、自分で番組作成から、プロモーションとかをこなすのであれのであれば、簡単にできてしまいます。一番難しいのは技術ではなく、自分ひとりが食べて行く金があれば、自分の持つ全ての時間を使う気なら、テレビ局が開局できることになるわけです。

 一番簡単に開局するには・・・第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての戦争関係のネットTVですね。現在、映像資料はパブリックドメインになっていて、かなりの量のものがインターネット上に、あちこち散らばって存在しています。半年ぐらい、必死になって集めれば・・・そこそこな歴史チャンネルが作れると思うわけです。

 ネット上の図書館にも、その時代の本が沢山公開されていますから、こういった考え方が本や新聞などのメディアによって広まり、その結果、このような政治・軍事的な行動が行われ、その結果を、このようにまとめて後世に伝えることになった・・・そんな風な切り口での番組構成ができるなと・・・懐古的に見るのではなく・・・

 学生時代、ナチスの研究をちょっと・・・まあ、友人がナチス研究が好きで、ネオナチに近かったのか?良く、渋谷の本屋にそれ系のビデオや書籍を見に行きましたね。

 意思の勝利とか高価なビデオを買い込んでいましたけど・・・今では、インターネット上に殆どの映像資料があるようですから・・・私も久々に意思の勝利を見ましたが・・・ナチスを中心に権力論の研究でもしますかね。

 しかし、世界は狭くなったものです。今、ドイツのインターネットTVの画像を大型プロジェクターで投影し、音楽を聴いています。ビデオクリップが24時間流れているのですから大したものです。同種の放送局が世界中にあるのですから、異なるジャンルの音楽を聞きたければ、チャンネルを切り替えればよいのですから・・・南極圏にある放送局も興味深い・・・

 ふと、さまざまな言語での放送を聞いていて・・・近年の造語・名詞が世界中で同じであるということに気付かざるを得ません。絶対知らない言葉の中に、おなじみの単語を耳にするのですから。コンピュータテクノロジーはやはり英語圏なのでしょうから、英語の単語に、異国の言葉は浸食されつつあるのかもしれません。ふと、どこかの国のコンピュータ関係の教育番組を見ていて思うわけです。多くの名詞はおなじみ、動詞や形容詞は分からんけど、映像と分かる名詞で番組の内容は理解できますからね。

 しかも、技術系の番組では同じ文章構成の言葉が名詞を変えて登場しますから、なんとなく理解できるような気分になってしまいます。かつては、民族の移動に伴って、言語のコンタミネーションが起こるというわけです。現在は・・・人間が動くのではなく情報伝達の過程で起こるのでしょう。

 多分、今は文化的な激動期なのかもしれません。日本人が南蛮人と接して急速に国内の変化を見たとき、どのような行動をとったのか・・・鎖国という選択肢を選び、完全には切り離しきれずに、李氏朝鮮と琉球王国には通信を行い、貿易は中国(明・清)とオランダ東インド会社とやっているわけですから。文物の交流は皆無ではなく、流入してくる知的なものに対しての鎖国といってよいのでは?思想的な、文化的な鎖国ですかね。

 今の日本人が、そういった傾向になければ良いのですが・・・なんとなく、日本をインターネットを通じて外から眺めた印象なんですが・・・NHKの英語ネットTVと国内向けの番組との比較でも、なんとなくそんな気がしますね。

 懐古趣味的なSP盤のネットラジオでも良いかもしれないな・・・まあ、何か新しく始めましょう!

(2012.08.25)

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