古代の郡衙はいずこ?

このところ、学問ごっこの方向性が微妙に変わって来ました。インターネット上の情報で過去を眺めるというものを今考えているんです。何しろ、航空写真が充実していますから、ある程度過去へのアプローチができるというものです。

このところ、主題は「行方郡衙」なんです。こいつは所在が不明なんでね。この行方郡衙は海退と交通路の変化で、大きく存在を変えたために不明となったのではないかと思われます。

郡家の南の端には一本の大きな槻の木が生えていて、北側の枝は、地面に着くまで垂れ下がり、その先は空に聳えてゐる。この場所は、昔、沼だったため、今でも長雨があると、庁舎の庭に水溜りができる。郡家の傍らの集落には橘の木ある。こんな場所なんです。

行方小学校の北側の谷津の奥に行方郡衙が存在したと思うのです。たぶん・・・目印になる槻の木は・・・こいつはケヤキでしょうから、こいつは今では目印にはならないでしょう。理由は・・・ケヤキは2000年程度の寿命を持ちますが・・・名高い木であれば保存されますが、そうでなければ・・・伐採、木材へと変わってしまいますからね。

さて、風土記の記述によると、どうやら郡衙は南へ下る緩やかな斜面にあるようです。長雨があると、北のほうから水が流れてくるようです。南の端の大きなケヤキの木の北側の枝が地面に着く・・・樹形からすると、北側の地面が高くなっていると考えるのが妥当でしょうからね。

郡家より西の谷津の葦原を開墾して、新田を開いていった。その時、夜刀の神たちが群れをなして出てきて、左右に立ちふさがったので、田を耕すことができなかった。とのこと・・・夜刀神=谷津の占有者・・・田畑として占有しているものではないから、田を開いた・・・しかし、生活に不可欠な空間であったからデモを行った・・・われらが利用する土地だ!ここを開墾することは我々の生活を脅かすものである!

この時代の化外の民は狩猟採集なんでしょうから、谷津の民は狩猟民でしょう。そうなると、古代遺物から考えると、この民は谷津の陸側の端に、柵を設けたりして、狩猟の場として、追い込みをかける場所として谷津を使っていたのではないかと思うわけです。その部分を土手を築き水底に沈める作業をすれば、それが強権の下にあったにせよ、反対運動は起こるでしょう・・・

全体像が見えてこないな・・・仕方ない、原文に当たって地図を描いてみるか・・・というわけで例によっていい加減に地図を作ると・・・

こんな感じです・・・まあ、文献資料によると・・・この県の祇というのがちょっと問題で、国神社が比定されていますが、位置が合わない、西の谷津の開墾というのもちょっと微妙に合わないような?

あとは、置烽条がね。烽つまり狼煙を置くのは、その距離40里だから、およそ20kmちょっとでしょう。とにかく、山や丘で直接見えないなら、とにかく互いに見えるところに設置して、40里の規定にこだわることはないという話ですね。

この置烽というのが問題です。通信には、相手が必要です。

行方郡衙から直接見える場所というか、通信の序列の問題です。どこかの郡衙からののろしが見えないといけないのでしょう・・・光通信ですから・・・視界にある場所という場所を考えればよさそうです。

とにかく、ちょっと古文書を色々と調べなければならないような感じですね。
(2012.01.25)

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