鹿島神宮の過去?

鹿島神宮って、時代によってレイアウトが変化しています。過去の神宮境内には色々なものが存在していたようなんですが、具体的な資料が少なくて・・・それでも、1つ見つけました。

日露戦争の捕獲兵器で、明治40年に陸軍省から奉納された15センチカノン砲が、境内に展示されていたとの文献資料の大砲です。なんと拝殿脇に砲弾と共に設置されていたというわけです。

雰囲気は、クルップ社製の要塞などにすえつけられ、半円形に敷かれたレールで方位角を変更する砲のような感じです。

現在この場所には、おみくじ売り場の小屋が置かれていますね。石畳の様子も微妙に現在と違うような?

記憶ではあまりはっきりとしたことがいえないので、写真を撮って来ました。ほぼ同じアングルになるように・・・明治時代のほうが社殿の周りがすっきりとしていて建物がよく見えています。

あとは・・・拝殿のひさしのあたりがずいぶんとさっぱりした感じになっていますね。

たぶん、この写真は明治40年から45年ごろまでに撮影されたものでしょう。そして、この大砲が置かれている場所の辺りに、昭和12年には、仮殿がやってきているはずですから、そのとき、移転してどこへ行ったやら?

いや・・・仮殿を置く余裕があるかな?おみくじ売り場の裏手に位置する灯篭が砲の脇に見られますね。この灯篭は・・・卜占に使われた桜の木の脇当たりに現存しますから・・・そして、この大砲の右脇辺りにはご神木に次ぐ第二の巨木が存在しますから・・・位置は確定しましたが・・・昭和12年に、この大砲の前あたりに、仮殿が来ちゃいますから・・・ちょいとわかりません・・・

この大砲・・・資料にあたると・・・日露戦争の戦利砲であって、15珊加農とのこと、香取神宮に奉納されたものと同じで、旅順要塞少案子第一砲台に備え付けられていた4門のうちの1門であるとのこと・・・鹿島香取神宮にそれぞれ1門ずつ、あとの2門は?

そして、鹿島神宮の楼門の左右には、日清戦争の戦利砲の5珊砲などもあったとのこと。珊知米・・・センチメートルだな。これはフランス語からのものだっけ?

香取神宮にもこの15珊加農が奉納されていて、馬場の神門の大銀杏の辺りにあると・・・これって楼門の前のことかな?そして、楼門を入ったところには南山で鹵獲された3インチ速射砲が置かれ、最新兵器の鹵獲、馬式機関砲が置かれているなど、最新兵器の展示場のようだったとのこと・・・馬式・・・マキシム機関銃だな1門当時で1万5千円ほどするとか・・・ロシア軍はライセンス生産品だかコピーのPM1905を使っていたのだから・・・PM1910重機関銃 - Wikipediaこいつだな・・・しかし、この当時の20円金貨は、金15g相当ですから・・・近頃の金相場の高騰があるので、5千万円相当?近代兵器は高価です・・・

資料をあたると・・・香取神宮の15珊加農が出てきました。次のモノクロ写真です。この砲、なんだか見覚えが・・・古写真で・・・たぶん出雲大社にも

確かに楼門の前に据えられています。どうも、昔の本は表記が一定でないので、楼門とか神門とか色々な名前が出てきます。

この楼門の前の通路も馬場と呼んでいますが・・・よくわからん?

あれ?楼門の前に鳥居がありますが、現在は鳥居は無かったかな?香取神宮も、参道の付け替えをずいぶんとしているようで、古い文献資料をあたると、現在とはずいぶんと違った感じになっています。このあたりもよく整理しておかないと・・・

鹿島神宮も香取神宮も、その意味ではずいぶんと境内の様子が変わってきているようです。この大砲へ伸びる道がかつてのメインの参道、しかし、現在の参道はまたまた違った道のつき方をしていますね。神社というものも、一定のレイアウトのまま、無為に時の流れの中にいるのではないということがわかります。

面白いねぇ・・・少し探すと日露戦争で鹵獲された機関砲の写真も見つかるというわけです。

たぶん、この手の機関砲が1万5千円なんでしょう。

帝国陸軍も、多少は研究していて、輸入もしているようです。輸入商社は、しっかりしていて、教練のための本なども翻訳出版しているようです。

確かに、この手の新兵器は、操典も整備されている必要があるのでしょう。ロシア軍の操典の翻訳と思われる本を眺めると、第一射手とか・・・様々な職掌を持つ兵の集団によって運用されていることがわかります。

写真の説明によると、南山に放棄されし機関砲とかそんな、題名がついた写真ですから、案外これが香取神宮に奉納された機関砲そのものかも知れません。

特に鹿島神宮はずいぶんとレイアウトが変化しているような?たとえば、江戸から明治の初めあたりまでは、仮殿の位置は、たぶん、次の写真のような位置でしょう・・・

現在の社殿が奉納されたころには、この写真の仮殿の位置に、現在奥宮となっている、徳川家康の奉納した社殿があったのでは?なんって・・・私も、写真で遊んでいると、だんだん合成写真がうまくなります・・・この合成を行った画像は・・・この位置に、この大きさで入れるぞ!って決めて、相対的な位置関係がちょうどになるように写真を撮っていますからそれほど、手をかけていませんが、それなりに合成されているように見えると思います。まあ、よく見ると違和感のあるところがありますが、ご愛嬌ですかね?

あ!しまった、白黒写真にすればよかったかな?それなりにノイズを入れて・・・古い写真のように見せるとか・・・それも面白いかな?ちょっと、セピアにして、周辺減光を大きくして、ノイズをのせ・・・色々やっているうちに、ふと気づきました。縦横比の問題・・・この写真、ずいぶんワイド・・・このままでは明治時代の雰囲気にならないような?今でこそ、ワイド画面は普通のものですが、明治時代の写真ではほとんどワイド画面など無いのです・・・あるのはパノラマ写真の類・・・2・3枚の写真を、それなりに繋いだようにするか?

鹿島神宮を眺めていると、この神社がいかにして、長い年月を生き延びてきたかが気にかかります。この祭祀空間の大政奉還あたりからの変遷を眺めるだけで、生きた神社がどのような仕掛けで生き残ってきたかが見えますから・・・遡って、初期の神宮から、文化センターとして、神宮寺を作ったり、廃仏毀釈を考えてか?神宮寺を現在の境内から移転させ、さらに、廃寺へと・・・追い込んだのか?それとも、時代の要求だったのか?

久々に、要石等も見て来ましたが・・・ちょっと前までは、木造の鳥居と木造の囲みでしたが、22年11月ごろから、石造の囲いと鳥居へと変わったようです。鳥居の奉納がそのころでしたから・・・

とにかく、久々で要石のところへ行くと、右の写真のようなものになっていました。これってずいぶんとイメージが違うのでは?

ふと、この要石も気になって・・・何しろ、この要石は一度発掘調査の対象になったとのこと・・・例の水戸光圀の手によって、発掘が為されたと・・・有名な話なので、古書に当たると・・・

ちょっと話が違うんです。明治20年ごろの水戸黄門仁徳録などの本を眺めると、要石の所在は・・・社の右の方に高間原というところがあり、そこから浜辺へ出るところに大きな石が土の中にある。これを鹿島の要石と言って、そのもとは根の国より生じている。これが、地震の押さえとなっている。

なんって内容になっています。高間原の位置は明確です。そして、そこから浜へ向かうところにある・・・要石は社殿と高間原の間にあるんだな?

話には続きがあって・・・西山公は家臣に向かって、たとえ根の国へ続くと言い伝えられているが、人夫を使って掘り返しても問題ないだろう、その根元を見極めるようにと命じ、家臣は役人にいいつけて、早速人夫百人あまりを呼び集め、よく早朝からこれを掘らせました。浜辺のことであるので、潮が満ちると捗らないので、〆切の杭を打ち板で土の崩れを食い止め、櫓を組んで水車を設置するなどして、人夫数百人を使って海水をくみ上げる努力などをして、日暮れまでに二町ほどの深さまで掘り進みましたが、この石はだんだん広がりを増していて、1日2日では簡単には掘利上げられそうにもない有様で、石の根元を見極めることはできませんでした。
西山公は、翌日も掘るようにと命じて、みなのものは宿舎へ戻りました。翌朝、西山公はいつもより早くに目覚められ、指示を与えたので、役人たちも早速人夫を呼び寄せ石の所に行って、様子を確かめると、昨日に二町ほども掘ったはずの地面が、平らになっていて平地となっており、周りは箒で掃いたように平らで土の塊一つ無いような状態になっていました。西山公は、昼夜を問わず掘るように命じ・・・・

つまり、水戸黄門仁徳録では、要石は海岸にあるということになります。場所は下津の海岸でしょう。今、鹿島神宮境内に祀られている要石とは違ったものを黄門さまは掘らせたという話になっています。

しかし・・・水戸黄門仁徳録なんってものは講談物でしょうから、それほど信を置くべきものではないといえるでしょう。しかし、鹿島神宮などは、ある意味観光スポットとして、江戸時代も君臨しているわけですから、このあたりの話のギャップをどのように説明したのでしょうか?こちらのほうが気になるというわけです。

このごろ、明治時代の鹿島神宮の記述を探して色々な本を眺めるのですが・・・なんだか、明治期の本は本殿・拝殿・楼門の記述が薄く、鹿島神宮を取り巻く自然の方に目が向いている感じです。なんだか、今の日本みたいな感じです。文明開化に少し食傷気味なのかもしれません。それとも、江戸の名残に決別かな?江戸時代の話題が出てくるのが、明治20年代・・・このあたりは講談が全盛を迎える時期にあたるのでは?全盛期は1980年からおよそ15・6年間、明治に飽き、復古調の時代なのかもしれません。

1890年・・・教育勅語でしたっけ・・・あまりに、時代が早く動くので、古い道徳が引っ張り出されたのか?なんってね。千古不易か・・・鹿島神宮の叢林も、それほど古い感じはしません。代々植え継がれて来ているのはわかりますが、あちこちに植林の碑があります。

結局のところ、古くから続いているものは常に更新されてこそ続くのだということのようです。四書五経なども・・・原文は変わりませんが解釈で新しく読み直されていくのでしょう・・・そういえば、近頃は古典的教養なんってものはどうなっているのだろう?
(2011.08.24)

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