鹿島神宮の力の源は?

鹿島神宮の力の源は何なんでしょう・・・世俗的な意味で・・・何しろ財政基盤なしには、あれだけの大社は維持できないはずです。古代においては、国が造替などを行っていましたが、それが崩れた中世は?近世になると徳川家の崇敬が、今の社殿の中心的な建物を生み出していきますし、それなりに領地も持っています。神領ですね。そして、鹿島神宮の氏子も・・・

確かに、そういったものが財力として蓄積してきたのでしょうが、それでも、多くの神職や神宮関連の業についている人たちがいるわけです。まあ、鹿島神宮の家臣団とも考えればよいのでしょうが・・・

とにかく、ちょっと気になるのが、鹿島の町内に市が開かれていたかどうか?こいつですね。ちょっと前に、化蘇沼稲荷へ行ってみて、ここには市が立って、市の日には江戸の賑わいのようであった・・・とか、鹿島神宮にも市が立ってもおかしくないような?そんな気がします。

気になるのは市を開く場所です。どこに開くことが可能であったか?こいつですね。鹿島神宮の門前からの大きな道って・・・史料があったぞ・・・水戸への坂屋坂、飯沼街道への北宿通り、大船津からの船便へとつなぐ大町通り、府中である石岡につながる鹿島道ですかね。このような道が集まる場所が鹿島宮中ですし・・・そして、町内の大町通りは坂屋坂のところ、入小路っていいましたっけ、そこの前、そして龍神社のところが広くなって儀式用の空間か市の空間として使われたかもしれません。

まあ、広くなっているというより、かつては榎や欅の並木になっていて、その並木が切れた所が広小路になっていたようです。この並木は、1945・6年の航空写真でも識別できますね。並木が伐採されたのはいつなんだろう?とにかく、馬市はあったはずです。流鏑馬のときに、近郷近在から百頭くらいの馬が集まっていたようですからね。競馬あり・・・なんって記載がありますから、品評会のようなものがあったのかもしれませんね。

まあ、この広小路、案外流鏑馬の的を置く場所だったのかも?どちらが先だか?案外、練兵場としての役割も担っていたのかもしれません・・・何しろ、鹿島神宮と鹿島城を結ぶ場所ですから・・・案外、町方の支配は総大行事家=鹿島城主でしょうから、商業の発達に伴って、広場が必要になり、惣大行事家の古屋敷に神宮寺と護国院を移転させ、市を立てたのかもしれませんね。まあ、史料が見当たりませんから、なんとも言えませんが、明治になって神宮寺の跡に祭事堂を建てたりして、祭頭囃などの町方祭事を行っていますから、案外こういった所も利用されていたのではないのかな?なんってね。

意外と、小さな神社も神田を持っていたりするので、宗教法人化されているということか・・・

それと、鹿島神宮の祭事って、**月**日の祭りって、日にちで示されていたとのこと、何に関連する祭祀かで、市の種類も自動的に定まっていたのかもしれません。御師の活動をチェックすると見えてくるかも?

御師が**月**日の祭りには**の市が立つ、これを見に行って、ついでに今回奉納の燈篭の献納式もあります・・・って来れば、奉納の日にちと市の関連がわかるかもしれません。ちょっと強引かな?

鹿島の町の小さな神社、八龍神の祠がありますが、こういった所も農地改革以前は神田を持ち、その小作料によって直会なんかをやっていたようです。このような神田を持つ神社の求心力は大きいでしょうから、様々な講組織がつくられ、その講から商業に結びつくものが現れてもおかしくはないでしょう。

初期には、この大町通りの市が重要だったのかもしれませんが、後に発展すれば、道じゃちょっと・・・関連する倉庫などの施設も必要になるでしょう・・・そうなると、鹿島の小字を調べると関連する名称が見いだせるかもしれません・・・そういえば、地名考的な本が図書館にあったような?

手元にも類似のものがありますが・・・字が小さくて・・・コンパクトにまとまったものがあれば簡単に見いだせるかも?

一応、眺めてみたんですが・・・あまりはっきりとはしませんね。大正末期の宮中の小字を見ても、それらしいものはありませんね。それなりに大きな町を形成していますから、市がないのは考えにくいですが・・・鹿島の商圏って結構陸地向きではなかったのかもしれません。

そろそろ、サーファーが少なくなってきたので、再び鹿島研究でも始めますかね。冬はこれが良いようです。図書館にもいかなきゃ!

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