鹿島神宮関係の備忘録(5)

鹿島神宮の参道が気になりますが・・・現在の参道・・・大町の道は大船津と鹿島神宮を結ぶ道です。たぶん、奈良時代までは鹿島神宮の社務所の裏の谷津の中まで水路が通じていて、大町の道はそれほど重要ではなかったのでは?なんって思われます。

大船津からの道は、旧51号線の道とこの道から分かれ、鎌足神社とか根本寺などの脇を通って鹿島神宮へ至る鹿島城本丸と二の丸の間の道なんでしょう。

もうひとつ、現在の参道へとつながる可能性のある道は、神野の物忌館から鹿島神宮へ至る道でしょう。この道は、大宮司家の前を通って鹿島神宮へ至る物忌社参道っていうやつでしょう。

しかし、こちらの道って、たぶん、大宮司家のあたりから、楼門前へ抜ける道がありますから、案外、こちらを利用していたのかもしれません。わざわざそちらまで回る必要はなさそうです。

まあ、鹿島神宮が炎上した1241年以前は、大宮司は下津の下浜に屋敷を構えていますから、もう一本の道も書きこむ必要がありそうですが・・・・

それより、鹿島神宮駅から上ってくる細い道なんかが直行ルートとしてはよさそうです。この現在の参道は、かつては流鏑馬などが行われた場所ですから、案外鹿島城と鹿島神宮を結ぶ道と考えた方がよさそうな気がします。

ちょうど鹿島城と鹿島神宮の真ん中あたりに、鹿島城主でもある大行事の屋敷もありますからね。この大町の通りには、鹿島神宮の近くには神職や神宮に関連する職人町があり、城に近いところには、鹿島城主の家臣団がいたのでは?なんってね。

ただ、鹿島大宮司家は下津の下浜に屋敷を構えていましたが・・・1241年以降、物忌参道の途中、海辺社のあるあたりに移転し、慶長年間の町割りの際に、現在の桜山の方へ移転したとか?

この現在に続く、鹿島の町割りの基本はのは、1596年慶長元年に行われ、大町・仲町・角内・桜町がつくられます。しかし、この町割り以前から大町通は存在していたようです。そりゃ、城と神宮を結ぶ道ですし、儀式用の空間としても利用されているわけですからね。代表的な行事として、流鏑馬は大町通りですね。

そして、これ以前に大町は大宿と呼ばれていたようです。しかし、平安末期か鎌倉時代までは、正面の参道はどうやら、みたらしの池の方で奥宮が正面という感じがします。

神宮寺や護国院が神宮の境内地内にあったときは、案外、厨からの道・・・つまり、神宮道場への道がある時期正面に変わり、さらに社務所裏の谷津へと移り、現在の参道へと変わっていったような気がします。

社務所裏の谷津からの道を切り離したときに、神楽殿が置かれたのでは?たぶん・・・祭事空間を大きく変更する必要がありますから・・・

いずれにせよ、メインの通りは、鹿島神宮と鹿島城を結ぶ大町通、それとT字につながる物忌参道ですかね?気になるのは、やはり御手洗川です。こいつを利用した水運はいつごろまで続いたのやら?

しかし、なぜ鹿島神宮関連の文献資料って、時代の変革期を境に、急激に減るんでしょう?明治以前の様子も限定的、特に現在に残る社殿が作られる以前の資料がほとんどありません。まあ、これで楽しめるわけですが・・・

とにかく、鹿島神宮を中心に、下津の大宮司家、神野の禰宜家、鹿島城主の総大行事家の三家を結ぶ通路が主要な道であったということのようです。別の言い方をすれば、それぞれの家が、津を押さえていて、三家の合議の場が鹿島神宮かな?なんって・・・神社って、集会所の役割もありますからね。

この三家の中で、大宮司家は製塩業で豊だったのかもしれません。文太長者、例の御伽草子の中の「文正草子」の主人公ですね。地元の貧しい青年であった文太が、製塩で巨万の富を得て、長者となったお話もありますから・・・そして、神野の禰宜家なんかが輸送を行っていたとか?鹿嶋界隈ではベンツやボルボの大型トラックを走らせている所って・・・あの名前神野に多そうですから・・・伝統的に・・・そして、それを保護奨励していたのが大行事家とか・・・

さて、現在の社殿もちょっと面白い気がします。それは、現本殿の構造ですね。一応は流造って、神社の基本形で構成されていますが、事実上権現造のような建物です。確かに、権現造と比べると、拝殿・弊殿・石の間・本殿の一体性が弱いのですが、どう見ても、権現造の元になる形ではないかと思われます。

一応、権現造のプロトタイプは、寛永11年(1634年)に改築された日吉東照宮とのこと、まあ、権現造ってそれ以前では1607年(慶長12)に再建された北野天満宮なんかもそうですね。つまり、現社殿は最新流行のものだったということのようです。ということは・・・古代の様式とはかなり変わっているような感じです。

まあ、神慮ってやつを伺う手段としての卜占の類をやっていますから、そいつを利用すると大抵のことはなんとかなるのではないかと思われます。そう、自然的な理性認識によってではなく、啓示に仮託されることで、大幅な方針転換が可能な宗教?啓示を恩恵として受容することが・・・

どんな具合やら?そもそも、日本の宗教って神道って何じゃい?って感じもします。はたして宗教なのか?教義は何?なんって考えると・・・やはり、神社って権威のための装置で権威を維持するために、文化的なものを授けていた場所であったのでは?なんって思えるわけです。

催眠商法の類に我が国の民衆はかなり弱いようですから、案外その系統にあるのが、文化を授与する神社・政権ということになるのでは?なんだか、ずいぶんと世俗優位の解釈になってきましたが・・・案外、こいつが正解かも?

なんとなく、他の神社と鹿島神宮の違いが見えてきたような気がします。
(2009.06.12)

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