鹿島神宮関係の備忘録(2)

鹿島神宮の造替は、結構合理的なような・・・何しろ、仮殿は恒久的なものですからね。いつでも補修が可能です。似たように式年造替をしているところとして、近所の香取神宮がありました。ここも、造替は、徳川家の立派な社殿によって終了しましたが、それ以前は造替が行われ、造替の際はアサメトノと呼ばれる仮殿に移して本殿の造替を行ったようです。

興味深いのは、アサメトノにも祭神があって・・・磐裂神・根裂神つまり、主祭神の経津主の祖父母神の神殿として使われているらしいことなんです。そして、造替に先立って、アサメトノの仮殿を作るか、既存の建物をアサメトノ仮殿として使ったらしいといいことです。

さて、鹿島神宮の現在の仮殿には、明治42年5月に、「仮殿の幣、鏡を撤す。」とありますから、何か常に祀られていた雰囲気があります。香取神宮と同じパターンだとすると、タケミカヅチ神の親はカグツチ神、カグツチの親はイザナキ・イザナミか・・・

どうやら、仮殿に祭られている神様らしくないような・・・そういえば、筑波山にこのイザナキ・イザナミが祀られた形跡があるとかないとか・・・

天皇の系列とは別のカグツチの系統の神様が鹿島の祭神・・・天皇家の方は天の岩屋戸ごもりの前に、アマテラスとスサノオは互いの玉と剣を交換し、アマテラスの御統(みすまる)の玉から生まれた天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の子瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上界葦原中国(あしはらのなかつくに)の統治者になるわけですからね。古事記・日本書紀ががんばってこのあたりのことを記すわけです。

そういえば、古事記って面白いものです。タイムマシンがあったら、奈良初期の官人、太安万呂に会ってみたいですね。

聞いてみたいことは、奈良時代の人は物から人が生まれてくると信じているのか?西洋の連中は、ネズミが古いシャツと小麦少々を箱に入れておくとわいてくると信じてたらしいが・・・なんってね。

たぶん、安麻呂さんは、お前馬鹿か?おれの書いた本の最初の部分を読まなかったのか?男女の交わりでできるにきまってるじゃん!まさか、玉とか剣をもらって喜んで支配下に入ったなんって、口が裂けたって、お偉いその子孫の前で言えるか!なんって・・・

こんなことを言われそうな気がします。何しろ安麻呂さんはすぐれた文化人ですからね。神話はそれなりの約束事があって書かれた、伏字文学のようなものなんでしょう。本来の意味が読み取れるように、しかし、現在に生きる人の不利益なならないように様々な約束事で隠蔽が施されたものでしょう。

秘めるための約束事がわかれば、さまざまな情報を正しく伝えていることが読み取れるのではないかと思うのです。何しろ、古事記は稗田阿礼の口承を記録したんですから。

稗田阿礼は、お偉い人々の前でその家の歴史や皇室との繋がり等を話す役割でしたから、話す内容で、お偉いさんを怒らせたり、眉をひそませたりさせるわけにはいきません。

それに、公知の事実を曲げるわけにはいきませんから、それなりに格調高く、嘘にならない程度に立派なお話に一定のルールで脚色していったのでしょう。

知っている人は、その真意を悟って、あいつの祖先はビー玉みたいなやつが欲しくて、服属したんだよな。俺のところも似たようなものだけど、鏡とビー玉だものな・・・まあ、俺の祖先の方がちょっと強欲だったんだな・・・とか考えながら、脚色された話を読み解いていったのでしょう。

おっと、余計なことを・・・すぐ脱線するから、学者になれなかったのでしょう。同じテーマを集中して考究することが困難なんで・・・

さて、鹿島神宮の仮殿って何なんでしょうか?

伊勢神宮の式年造替は東西に隣接して同じ広さの敷地があって、遷宮に先立って,空いている方の敷地に新しい社殿をつくって、遷御の儀が終了してから古社殿は撤去されます。

しかし、鹿島神宮の場合は、とりあえず仮殿に遷座し、本殿を破壊するのか、どこかへ引いていくのかわかりませんが、撤去して、その跡に新しい本殿を建てています。本殿が完成するとそこへ正遷座して終了ということのようです。

ちょっと気になるのは、徳川家康の奉納した本殿の前の形態ですね。はたして、あの規模だったのか?徳川家康の奉納した本殿が、奥宮になるときに、その前の奥宮は沼尾神社に払い下げになっています。これ以前の奥宮や本殿のスタイルなんです。どんな建物なのか?ちょっと気になります。記録がほとんど無いらしく・・・

基本形は正面に3つの扉があり、右奥に横を向いた神座があるとか・・・内陣の基本的な作りは、住居型の出雲大社のデザインに通じるところがあるとか・・・まあ、およそ右の図のような奴で、上が南下の階段がある側が北です。御神座は東に向いていて、出雲大社の田の字型の配置に似ているとのこと。

しかし・・・狛犬があるのがちょっと気になります。狛犬が流行するのは・・・平安時代には一対の犬のようなものは、清涼殿の御帳前や天皇や皇后の布をたらして仕切りとするとばりの鎮子(ちんず)には獅子と狛犬が置かれ、口を開いたのを獅子として左に置き、口を閉じ頭に1角をもつもの人の邪正をよく知るという「かいち」称する獣を狛犬として右に置いたとのこと・・・。大陸の文化が内陣に入り込んでいるのでしょうか?

しかし、鹿島神宮界隈の神社には狛犬が少なくて・・・これまた不思議・・・鹿島神宮関係の資料を眺めていると・・・何やら隠されたものがあるような?ふとそんなことを思ってしまいます。

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