鹿島神宮関係の備忘録(1)

雨が降ると文献研究・・・何しろ現在から過去という空間を探索することが可能になるので文献研究もまた面白いというわけです。

祭祀空間が気になっているんですが、鹿島神宮ってどこが管理しているの?ってちょっと気になりました。

鹿島の支配者って・・・神野の物忌代当祢宜東家(お屋敷様)、桜町の桜山の鹿島大宮司家(桜山様)、新町の堀の内の鹿島城主鹿島家(堀様・堀の内様)この鹿島三支配と呼ばれる家々が鹿島の政治を行っていたようです。こいつはわかるんですが・・・かつては、二万五千石ほどの神領を持っていたのですから・・・まあ、太閤検地で引っ掛かり、500石まで削られ、江戸時代は2000石とか・・・

これらの家は、地主様でもあるのでしょうから、その支配体系が少々気になります。例えば、神野の方だと、神野の十人殿原と呼ばれる農家なんですが、侍のような屋号を持つ家があり、物忌・当祢宜に仕え役職を務めたり、農閑期には物忌の口をかりて出る「鹿島様のお告げ」を広める鹿島の事触れや、「鹿島踊り」を行っていたとのこと。これも、やがて偽物が多くなり、この神野の十人殿腹によるものは1670年に停止され、大宮司の手形を持つ者だけが、「鹿島の御師」として、鹿島様の布教を行うようになったとか・・・

まあ、こんな具合に鹿島神宮関係の鹿島三支配の下に組織化されていたのでしょう。神野の言い伝えでは、鹿島様はかつて神野にいたというのもあるようです。

はじめ鹿島様は神野に鎮座してたそうで、藤原家が奈良の春日大社へ鹿島様の御分社を祀るにあたって、神鹿に乗って、奈良へ向かい、帰りに行方の島崎大生の里に逗留し、この場所が「大生神社」となり、大同元年(806年)に神野に戻り、翌大同二年に現在の鹿島神宮の場所へ鎮座したと・・・

色々と伝承があるようで・・・なかなか複雑、しかし、神代の昔から鹿島の神様を祀る家が続いているんですから凄いものです。

さて、鹿島御師なんですが、どうやら、鹿島神宮の鳥居のあたりに、XX大夫という名の付く家があり、そこから江戸・相州など地域を決めて布教活動を行い、自らの屋敷を宿泊所に供していたとのこと、近いうちに燈篭などの文字を見てこなきゃ!なんってね。どの大夫がどの地域を担当していたのか?そんなことも見えてくるはずですからね。

この御師の組織ができる頃って・・・神宮内にあった護国院・神宮寺が移転した時期では?ちょっとこういったものも気になります。護国院の系列の寺は神野にあり、神野の過去帳は神野の下寺ではなく、この護国院にあるとのこと・・・護国院は物忌代当祢宜の系列?そして大神宮寺は大宮司家?鹿島城主惣大行事の墓所は根本寺にありましたから・・・

鹿島は、聖俗の両面にわたって強力な支配体制があったということなんでしょう。

案外、祭頭祭・・・あれって、政道の祭りとも呼ばれていたようで・・・例の棒を振り回すやつですが・・・案外、鹿島神宮領の治安維持と年貢の取り立て部隊を、各郷がまわり持ちでやっていたものを儀式化したものでは?なんって・・・この、祭頭祭の棒を振り回すやつって、明治のころまでは、かなり荒っぽく、左方・右方の郷の乱闘騒ぎが毎回のようにあったようです。例えば、安政6年には、「二月祭頭、塚原、須賀村と争いあり。」 明治25年「春期祭頭左方田野辺、右方鉢形、大町中程にて、助勢の須賀と平井と大喧嘩ありて、夜の春季大祭事十四日まで延期。」 明治31年「祭頭祭当番右方自儘に振舞い引取る。」 明治42年「祭頭祭にて大船津と荒野衝突紛争。祭事天明く。」 こんな具合に、左方・右方が出会うと喧嘩が始まるという野蛮な祭りであるようです。

各々の郷の行列が出会わないように、先頭に町役人がくっついて、棒を持った連中を遠ざけるようにしていたというわけです。右の写真の羽織の一団ですね。

鹿島の祭事では、神職が刀を掲げての祭式があったりするようですから、鹿島神宮は案外、多量の武器を保有しており、それを貸し出していたのかもしれません。

どうも、この祭頭祭って、防人へ向かう人たちを示したものだとは思えません・・・確か、防人は、国府に集まってそこから出発でしょうから、鹿島神宮から出るような祭りはちょっと考えられません・・・

しかし、鹿島の政治を行って来た家が、現在も古い記録を持ちながら、連綿と続いていますから、本職の研究者たちはどのように扱っているのやら?私は、てきとーに研究していますから、お前の考えは間違っている!と言われたら・・・ごめんなさいですかね?

とにかく、鹿島神宮とは興味深い場所です。この「神宮」ってやつは、神職が神社を中心として領地を支配するという体勢を持ったところという意味なのかもしれません。伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社だけが、かつて神宮を名乗っていました。伊勢神宮は皇室の・・・そういえば、伊勢神宮の神官の序列はどうなってましたっけ?神宮の神官の最高位は・・・斎王(斎宮)で,天皇の皇女が任ぜられて伊勢に出かけて行ってましたが、後醍醐天皇の後は廃絶しちゃいましたが・・・。この下に祭主・大宮司・少宮司・禰宜となるわけですが、神宮の実務を掌握していたのは禰宜で、内宮・外宮の禰宜の下に大内人・物忌・物忌父・小内人などの神官があったそうな。永正記でも見ますかね・・・

なんだか、神宮というキーワードーも面白いかも?何かを調べ始めると、次々と興味がわいてきます。なんだか、まとまりのない内容だこと!まあ、備忘録のようなものですからね。そのうち、大論文ごっこも面白いかもしれません。

しかし、関東の外れの鹿島に壮大な文化が存在したという実感が・・・鹿島研究をやっている本気の研究者ってどんな方がいるのやら?ちょっと気になります。
(2009.05.18)

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