ちょっと、学問でも!

このところ、霞ケ浦・印旛沼・手賀沼・・・などなどに残存する常総の中海が気になります。何しろ鹿嶋まで本拠地の我孫子から夜中に出向く時、田んぼは真っ暗、はるかかなたの丘陵地帯のすそ野などに点々と明かりを見ながら車で移動しています。

このとき、このあたりがかつての常総の中海であったと考えると、明かりで縁取られる丘陵地帯が島のように見えてきます。比較的最近の人物の松尾芭蕉も「日既に暮かかるほどに、利根川のほとりふさと言処につく。此川にて鮭のあじろと云ものをたくみて、武江の市にひさぐものあり。宵のほど、其漁家に入てやすらふ。よるのやどなまぐさし。月くまなくはれけるままに、夜ふねさし下して、鹿島に至る。」とありますから、私と同じですね。

松尾芭蕉も、私が生きている時代の風景と大差ない空間を眺めたのでしょうから・・・比較的最近の人物です。私の思いは縄文弥生文化期ですから、それに比べれば松尾芭蕉など・・・近年の人です。

まあ、私の場合は夜中に帰ってきて、それから、夜中のうちに鹿島に到達・・・しかも車で・・・芭蕉は、夕刻に出て、夜の間に船に乗って昼前には鹿島についているようです。18時間程度の船旅なのでしょうか?・・・中秋の名月を見に行くのですから秋分のあたりの満月ですから、夜はおよそ12時間だから・・・結構な速度ではないでしょうか?

船の発達を考えると、意外と大昔からかかる時間は江戸の末まで変わらないのかもしれません。確かに、江戸の後期で帆が大きく発達したとか読んだ気がします。松衛門帆だかなんだか・・・本を探さなきゃ!

成田船とか・・・賭博船もあったようですし・・・江戸から成田詣での船を仕立て、成田まで行かずに船の上でさいころ賭博などをする奴です。船着き場には、湯船が停泊していたりと、昭和の30年代までは、利根川水系に高瀬舟が走っていたようです。最後は、東京湾で屎尿運搬船になって終わったもとか・・・

私も、ずいぶんと昔・・・潮来から土浦まで船に乗った記憶が・・・おぼろげなものですが、今ではそういった船もなさそうですから、貴重な体験だったのかもしれません。記憶はかなり曖昧ですが・・・

とにかく、水運というやつは、鉄道が敷設される前には、間違いなく現在の高速道路くらいの威力があったはずです。何しろ牛馬では1頭から数頭に1人の人間がついて、頑健なやつだって2俵ぐらいしか運べそうもありません。何しろ1馬力ですから。近頃の原チャリなどは7馬力程度ありますから、七頭立て?ですね。

しかし、高瀬舟となると2名ほどで50トン前後の荷物を運べたようです。一人で過積載のダンプを走らせるようなものかな?そして、銚子から江戸まで順調なら2日程度で走ったようですから・・・

関東の水運は間違いなく、巨万の富を生み出し続けていたのでは?そんな気がします。何しろ、江戸時代に利根川を銚子の方へ流し、さらに利根川の効率を重視して、新利根川を掘削し、何年か使用して再び元に戻したり・・・冬の渇水期の通行を考えて・・・さらには、印旛沼を介して東京湾へ直通の運河網を作るとか、明治大正期には、利根川と江戸川を結ぶ運河、手賀沼経由の運河やら・・・いろいろと作ったり作ろうとしたようです。

さて、今ちょっと気合いを入れて調べているのが・・・縄文海進のときの海岸線です。こいつの資料はほとんどなくて、それらしいものは、手もとのデータでは明治時代の右のような奴ですからね。

近頃ちょっと面白いと思っているのは、昭和20年代に米軍によって撮影された日本の航空写真です。こいつには、条里制の遺跡じゃなくて、条里制そのものの遺構じゃないな・・・そのまま古代から耕作されている地割が見られます。この写真から、古代の地形が再現できそうな気がします。

何しろ、田んぼというのは、平面の度合いが極度に高く、畔や土手などは等高線の代わりに使えますからね。これと、航空写真の読図の力があれば・・・かなりの精度で地形を再現できるはずです。耕地と湿地の違いぐらいは読み取れますからね。

まあ、私の場合は、てきとーにやってもOK、だって、学者じゃないから!ってアマチュアの特権が使えますからね。今、注目しているのは神崎ですね。ここが気になります。ここって水運の要衝だったらしく、航行する船舶に税金を課していたりしました。

利根川水系には、こういった関がいくつか存在したようです。関を素早く抜けるために、書類を持った人が陸上の道を走って行って書類を先に通して円滑な航行を行った場所とか・・・いろいろとあったようです。

現在では、そういったものはすべて・・・まあ、すべてでしょう堤防によって消されてしまっているようです。

そうだ、ずいぶんと前に気になっていた奴も確認せねば、鈴木貫太郎です。終戦処理を行った総理大臣ですが、普通には、現在の大阪府、和泉国生まれとされ、第14期海軍兵学校卒業。日清戦争に従事。海軍大学校を卒業して、ドイツ駐在武官などを経て日露戦争の日本海海戦に水雷戦の権威として名をあげ・・・でも、この人の父親は関宿藩士なんですね。

利根川と泉州このつながりも、以前気になていたんですが・・・すっかり忘れていました。この、坂東の内海空間って興味あるところです。

鹿島って、歴史の舞台に表だって現れることもさほどないように見えますが、この地域って、豊だったはずです。赤穂の塩が江戸に入る前には、このあたりが関東の製塩の本場だあったはずです。そして、鉄の供給源でもあったはずです。

鹿島松も製鉄・製塩のために重要な産物であったはずです。鹿島神宮の社務所日記によれば、敗戦後、ずいぶんと盗伐にあって、製塩のために木が盗まれたとか・・・

さて、また新しいカテゴリーを作ってやろうかな・・・鹿島がひょっとしたら、日本の首都になれるくらいの場所であったことを証明することも可能なのかも知れないことを、研究成果として示すことが出来るかもしれません。

まあ、私にはそれほど関係のあることではないのですが・・・しかし、週に3日も夜に我孫子を発って、鹿島に行くとなると、幻想は膨らむというわけです。そうだ!小説を書くのも良いかもしれない、小説ならアマチュア研究家より金になる!なんってね。

書きだしは・・・鹿島には、かつて、大きな船の残骸があったと常陸の国風土記にある。この船は、どこから来たかはわからないが、当時の日本には想像もできない、高度な技術を持った人たちが乗り、難破し生き残っていた。この人たちが、文化によってこの地を平和裏にまとめ上げ、当時の世界最高の技術と知恵によって豊かな地を作り出していった。そこことを、伝えようと思う。

この地に流れ着いた人々は中国大陸の先進の文化を携えてやってきた、大和の政権がまだ未熟であった。継体天皇の御世にすでに、大規模な水田開墾を行っていた。この時代の鹿島半島は、まわりを海に囲まれ、耕地は基本的に台地の上に広がる畑であった。水田はほとんどなく、ただし、水田の開墾への機運は高くなっていた。

なぜなら、水田は畑作のおよそ3倍ほどの収量を約束していたからである。明治以降、房総半島では水田の開墾がかなり行われていった、その原動力となったのも、灌漑と排水、つまり水路網の設計によるものであった。この投資を国や県のレベルでバックアップしたために、実現し、所得の大幅なアップにつながった。モデルとなった地域での成功を耳にし、目にし、大規模開発がおこなわれるようになっていった。

それと同じことが、すでに6世紀に起こっていたようである。その残滓が、常陸の国風土記に、谷あいの低湿地に、やはずのたまち(箭括麻多智)なる豪族が「西の谷の葦原」の開墾をすると、夜刀神の群に妨害された。怒ったたまちは鎧に身を固め矛を取って夜刀神打ち払い、杭を立てて境界を設定し、みずから祀祭者として、夜刀神をまつったそうな。またその後同じ谷に池堤を築こうとしたみぶのむらじまろ(壬生連麻呂)は夜刀神を恐れる人々に、水田開発をじゃまするこの神を打ち殺せ!と叫の声をあげたとか・・・

夜刀神は谷あいの低湿地に暮らす人たちで、この人たちは自分の家の前の水路を利用し、水運に励んでいた、また製塩も行って豊かな生活を営んでいたのだろう。そこに、水田を作るため、水路をふさぎ、土手を作って谷あいの低湿地から出られなくする政策が為されたのであろう。

結果は、反抗が起こり、収拾するために新たな境界を設け、共存の道を模索したのであろう、しかし、少し時代が下ると夜刀神より、水田耕作者の力が増し、夜刀神たちとの境界が再び問題となり、今回は、水田を干ばつから守るために、谷津の奥とを仕切る堤防を作り、ため池を作ることになるにあたって、みぶのむらじまろは、反対する奴は殺せ!と激烈な叫びをあげることになります。

まあ、内容としてはこんな感じでしょうね。しかし、文体がよろしくないな・・・もう少し読みやすく、統一性があるように・・・何しろ、酔ってますから・・・酒を飲まずにやれば良いのでしょう・・・さあ、方針は決まったから、てきとーに、学の形をでっちあげてしまいましょう。プロの学者たちに面白いことを独占させても面白くないですからね!

さあ、資料を集めて、体系を作り出さねば!
(2009.04.04)

inserted by FC2 system