時の流れとともに変化する鹿島神宮

このところ暇があると、鹿島神宮をぶらついています。鹿島神宮に初めていったのは・・・ずっと昔・・・その時の記憶がおぼろげにあるのですが、現在の姿とちょっと違っているような気がする部分があります。それは・・・仮殿の裏なんです。トイレのあるところ・・・右の写真の場所なんです。

私の記憶では、この場所が違うんですね。こんなに平らな所ではなかったような?

記憶では・・・谷津が入り込んで斜面になっていたのでは?そんな古い記憶が・・・記憶違いかもしれませんがね。

所々、昔の記憶と違った場所に出くわすというわけです。まあ、この谷津もだんだん埋め立てられていくのではないかと思われます。

先日の祭頭祭の御豊竹の残骸もここへと運ばれていました。

まあ、さまざまなものがこの谷津を少しずつ埋めていっているのかな?なんって・・・

ふと、ここを発掘調査したら?意外といろいろなものが出てくるかもしれません。廃仏毀釈の際の、仏具などの残骸なども・・・まあ、明治初期だと、金属は高価でしたらか、木像の金箔の類なども木像を焼いて回収していたようですから、大したものは出てこないかもしれませんね。

木簡とか使っていたのなら、案外出てくるかもしれませんね。しかし、神社って経済的な活動をあまりしていないような感じですから、木簡を削り削り仕事をするとかはなさそうですね。長屋王の屋敷のゴミ捨て場からの大量の木簡類の出土とは比べ物にならないものなんでしょう。

鹿嶋市内のこういった谷津を眺めると、結構ゴミ捨て場の様相を示しているところがありますね。伝統的に、燃えないゴミは山に捨てに行くというのが我が国の伝統に近いですから・・・まあ、捨てる場所が定まっているようですけどね。馬捨て場とか・・・

そういえば、以前は入れて今は入れない場所がありますね。鹿園の奥、かつて神宮寺があり、その客殿や庫裏のあった場所ですね。おぼろげな記憶では、奥の右手に石が積み上げられている場所があったような?宝物殿で購入の鹿島神宮と町方百二十年の歩みの中に、明治22年2月9日境内御経石塚より石およそ十駄以上を掘取り、持ち去りし者ありってやつですかね?歩きながら、色々と思い出しつつ、写真を撮っているというわけです。

この間から気になっている仮殿の位置も、変更されているようですね。現在の宝物殿の場所に神楽殿があったとか、仮殿は昭和32年に高房社北に7月に移転しています。その前は、明治14年2月22日にも拝殿正面右方に移す工事着手、どうやら、仮殿は楼門の方を向いていたのが、南向きに変更されたようです。楼門を入って正面にあった・・・という資料もあり・・・良く分かりません。

「鹿島神宮と町方百二十年の歩み」って本は面白いのですが、基本的には「知っている」を前提にして書かれた社務日誌をもとにしているので・・・どうも、中途半端・・・高房社北へ移転・・・でも、どこからが不詳というわけですね。

こうなると、資料を探したくなるというわけです。

他にも気になっていたことは、拝殿の形なんですね。なんとなく不細工・・・よく見ると、拝殿の前の庇なんですが、付け足されているんですね。そして、階段が二重になっているのです。

階段の方は昭和49年に昭和天皇が御親拝のため、階段勾配を緩めるための仮設工事がそのままになっているのかな?とか・・・

鹿島神宮は様々な変化の中に、存在し続けているということのようです。とにかく、資料を集めることにしますかね。

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