現在をうろうろ(122)

 日本の戦争の始め方は? その2

 どんな作文が続くのか・・・気は重くなりますが、一応は国家の方針が何に向かっているかを精査する機会ですから、妄想的なチェックを続けましょう。

 昨年11月、カンボジアの平和のため活動中に命を落とした中田厚仁さん、そして高田晴行警視の慰霊碑に手を合わせました。あの悲しい出来事から20年余りがたち、現在、アジアで、アフリカで、たくさんの若者たちがボランティアなどの形で地域の平和や発展のために活動をしています。この若者のように医療活動に従事をしている人たちもいますし、近くで協力してPKO活動をしている国連のPKO要員もいると思います。しかし、彼らが突然武装集団に襲われたとしても、この地域やこの国において活動している日本の自衛隊は彼らを救うことができません。一緒に平和構築のために汗を流している、自衛隊とともに汗を流している他国の部隊から救助してもらいたいと連絡を受けても、日本の自衛隊は彼らを見捨てるしかないのです。これが現実なのです。

 平和のための活動をする・・・立派な事です。私も、そういった専門的な知識や職業を持っているのなら参加したいですね。平和活動のために死ぬことは・・・それ自体立派です。平和活動のために、ある種の考える人を平和の敵として殺そうとするというのは?問題があるような気がします。できれば・・・平和は銃で勝ち取るものではないと理想を述べたくなります。平和のための活動を行って・・・平和の敵として何人を殺す事が許されるのか?1人ならOK、10人なら?100人なら?・・・殺された分だけ殺して良いのか?・・・一緒に平和構築のために汗を流している、自衛隊とともに汗を流している他国の部隊から救助してもらいたいと連絡を受けても、日本の自衛隊は彼らを見捨てるしかない・・・本当にそうかね?他国部隊から救援を受けた場合、指揮権を移譲したらどうなる?他国部隊から兵力をまわせ・・・今から日本国からの派遣隊の指揮権を移譲する・・・こうしたら、日本の自衛隊ではない・・・要求が正当であり必要であるなら・・・総理大臣は防衛大臣を通じて命令を出せるのではないかと思いますがね。日本だけのために戦う事を是とするかどうか・・・これによって日本人部隊だけが消耗する事になるかもしれないですが・・・結果に関しては歴史の判断に任せるしかない。これによる死もまた、平和のため必要であるなら、その死もまた尊いものとして歴史に刻まれる事になるのではないかと思います。

 現実問題としては・・・もし、私が現場の指揮官だったら・・・反逆罪を犯すかもしれません・・・多分、それを裁く法はなさそうな気がしますから・・・ただ今より、我が部隊は日本国の指揮より離脱し、XX国の指揮系に入る。これは、国の定める規定に反するが、現在の状況からして助けられるのは我が部隊である。私一人でも行くが、ついて来るものは無いか?ここで戦闘を見ている事を望むものがいるのなら、列から離れよ・・・すべての責任は指揮官である私にある。・・・多分、これでOKじゃないですかね?超法規的な行動というのは、正義の概念と結びつくものですから・・・この日本国に対する反逆を行ったとして、その結果、多くの人を助けより良い平和の状態に導く事ができるのであれば・・・無理に刑法 第82条 日本国に対して外国から武力の行使があったときに、これに加担して、その軍務に服し、その他これに軍事上の利益を与えた者は、死刑又は無期若しくは2年以上の懲役に処する。の前段を無視して死刑にすることは困難だと思いますがね。公共の福祉は憲法も超法規的に認める概念なので、私の妄想でもOKなのでは?なんでわざわざ、坐して正義の戦いに参加せずに死を見ていなければならないかという単純な話ではないかと・・・それを、何やら感情面に訴えかけて誤魔化そうとする意図が見え隠れしているような気がします。無理にでっち上げた作文のように見えるので、ここで検討を終わらせたい気もしますが・・・2年半の検討に敬意を払って、次の文は・・・

 皆さんが、あるいは皆さんのお子さんやお孫さんたちがその場所にいるかもしれない。その命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいのでしょうか。内閣総理大臣である私は、いかなる事態にあっても、国民の命を守る責任があるはずです。そして、人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません。

 本当に・・・いかなる事態にあっても、国民の命を守る責任があるはずです・・・その決意があるのかね?事態に関して、自ら考えて判断する事を放棄しているのではないのかね?ちょっと、腹が立ってきました・・・怒りの感情が私の心の中に湧いてきました。私は、日本国憲法を敬愛しています・・・たとえ、現日本国憲法を奉じて非国民と呼ばれようとも・・・人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っている・・・どうして、そんな事をいうかね?不思議です、その様に考える人がいるのかい?自衛隊を戦わせる手段は、ちゃんと総理大臣の手に握られている事を示したのに・・・そして、奥の手・・・現場の指揮官にもできる事も・・・その法源は憲法の公共の福祉の概念・・・形式的な規定に見える次の2つの条文は非常に重要なものだと私は考えています。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ
第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする

 残念ながら、総理大臣はこの2つの条文に反対しているのではないかと・・・私が指揮官だったら、躊躇せずに日本国に反逆して、日本からの指揮から離脱して他国の指揮下に入ってしまうのは・・・常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ・・・と憲法が命じているからですがね。そして、真に平和に必要なことで、勝手に指揮権から離れて、他国の指揮下に入ったとしても・・・公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする・・・と憲法が私を守ってくれる事も知っていますから。

 どこぞの新聞社がまとめた憲法では、このあたりの規定の意味を取り違えているようで、これは、国民を縛るための条項なんですけど・・・普通、憲法は国民の権利を規定して、国の行為を縛るものなんですが・・・政府もまた国民の集まりなので、その一人ひとりも、この条文に縛られていることが分かっていない・・・と妄想するわけです。従って、孫や子を引き合いに出して感情的なものに訴えかけようとしても・・・私には、不思議な理論を捏ねまわしているようにしか見えないのです。憲法は正義を行う事を要求し、正義はすべてに優先する。道徳教育ってのは、公共の福祉について積極的な行為に出られるように、人間を陶冶するものでなければ・・・意味がない・・・形式的履行ではないと妄想するわけです。

 どうも、我が国の憲法の理想は高すぎて理解する事が困難なのかもしれないと妄想してしまいます。一応・・・人権の歴史から考えると、その努力の積み重ねの結晶として日本国憲法があるような気がするんでね・・・あ、そういえば日本国憲法には最高法規の規定があって、それについて書かれていましたね。 日本国憲法 第九十七条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 これですね。

 続きは、次回としましょう・・・

2014.05.18

  

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