現在をうろうろ(1146)
日本貧窮者経済新聞
 大東亜戦争の開戦への道(2)

 さて、前回の続きで1ヶ月ほど前の疑問点とその調査の記録なんですが・・・天皇を中心とした枢密院や貴族院の連中の関係が良く見えない・・・というか、大日本帝国憲法はこの辺りの規定があいまいですね。天皇は基本的に口を出さずに、なんとなく決まって、天皇に責任を取らせない形で事が進む・・・所謂、御前会議を主催した連中ってのが・・・?疑問が膨らむわけです。御前会議は・・・基本的に天皇による意思の表明や発動は・・・天皇自らにその責任が及ぶため好ましくない・・・とされているから・・・

 東條君は戦争に関して何をしたんだ?統帥権は無いわけだし・・・陸軍大臣として話は漏れ聞く事ができるが・・・東條君が率いる政府は、戦争を遂行する上での内政に限られる・・・統帥権は・・・

 天皇が臨席する大本営会議が最高機関になるのか?陸海軍の統帥部長の参謀総長及び軍令部総長、次長の参謀次長及び軍令部次長と、第一部長=作戦部長と作戦課長によって大本営会議が行われ・・・統帥権は独立しているため、文官はメンバーになれないので、内閣総理大臣や外務大臣などの、政府の人間は蚊帳の外で・・・閣僚であり軍人である陸軍大臣・海軍大臣は発言権は無いものの・・・軍政を行う立場から列席・・・

 大本営会議でその戦略を決定して行くのは?部署はどこなのかね?天皇がらみだと・・・枢密院という事になる?枢密院は・・・枢密顧問とか顧問官と呼ばれる人達によって組織される天皇の諮問機関ですね・・・開戦の時点では枢密院は大きな力を持っている・・・開戦後しばらくすると、内閣が大きな顔をする事になって行く・・・開戦時の枢密院顧問の顔触れは?

 枢密院議長は原嘉道ですね 原嘉道 - Wikipedia・・・あとは・・・副議長は鈴木貫太郎で 鈴木貫太郎 - Wikipedia 鈴木貫太郎が終戦工作をしていますね・・・どうやら、基本的には枢密院が戦争指導を行っていてもおかしくない事になる。ただ、戦争遂行に当たっての国力の総動員のためには内閣の力が必要になる・・・他のメンバーは・・・

 昭和16年12月のメンバーは右のようなものですね。

 金子顧問官・・・金子堅太郎 - Wikipedia 昭和15年の春から病
 石井顧問官・・・石井菊次郎 - Wikipedia
 有馬顧問官・・・有馬良橘 - Wikipedia
 窪田顧問官・・・窪田静太郎 - Wikipedia
 石塚顧問官・・・石塚英蔵 - Wikipedia
 清水顧問官・・・清水澄 - Wikipedia
 南顧問官・・・南弘 - Wikipedia
 奈良顧問官・・・奈良武次 - Wikipedia
 荒木顧問官・・・荒木寅三郎 - Wikipedia
 松井顧問官・・・松井慶四郎 - Wikipedia
 菅原顧問官・・・菅原通敬 - Wikipedia
 松浦顧問官・・・松浦鎮次郎 - Wikipedia
 潮顧問官・・・潮恵之輔 - Wikipedia
 林顧問官・・・林頼三郎 - Wikipedia
 深井顧問官・・・深井英五 - Wikipedia
 二上顧問官・・・二上兵治 - Wikipedia ・
 眞野顧問官・・・真野文二 - Wikipedia
 大島顧問官・・・大島健一 - Wikipedia ・
 小幡顧問官・・・小幡酉吉 - Wikipedia ・
 竹越顧問官・・・竹越與三郎 - Wikipedia ・
 三土顧問官・・・三土忠造 - Wikipedia
 伊澤顧問官・・・伊沢多喜男 - Wikipedia
 池田顧問官・・・池田成彬 - Wikipedia
 
 どうやら、私の頭が悪いのか・・・大東亜戦争の開戦は誰が決定したんだ?東條君が統帥権にかかわれるようになるのは、総参謀長を兼務するようになる昭和19年;1944年2月21日以降ですね。ここで、前総参謀長は昭和15年;1940年10月3日からの杉山元ですね・・・杉山元 - Wikipedia、その前が、閑院宮載仁親王ですね・・・閑院宮載仁親王 - Wikipedia・・・米内内閣を陸軍大臣畑俊六・・・畑俊六 - Wikipediaを辞任させ、陸軍は後任を出さなかったので、現役武官の大臣が不在になり昭和15年;1940年1月16日総辞職・・・このときの陸軍三長官の残りの教育総監は山田乙三か・・・山田乙三 - Wikipedia・・・となると、実質的に日本を戦争に追いやったのは・・・閑院宮載仁親王という事になるわけですね。しかし、形式的には昭和15年10月3日に参謀総長の杉山元に譲り議定官に転出・・・閑院宮載仁親王は皇族だから基本的には参謀総長をしていた1931年12月23日から1940年10月3日まで実務は参謀次長だから・・・この間の参謀次長は・・・二宮治重、真崎甚三郎、植田謙吉、杉山元、西尾寿造、今井清、多田駿、中島鉄蔵、沢田茂・・・沢田茂は参謀次長として閑院宮載仁親王・杉山元の下で昭和14年;1939年10月2日、参謀次長に就任、ノモンハン事件および仏印進駐の後始末と責任処置を行い、昭和15年;1940年11月15日参謀本部付として転出、次長職は塚田攻中将へ・・・塚田攻 - Wikipedia・・・昭和16年;1941年11月南方軍総参謀長となり太平洋戦争序盤の南方作戦と軍政を担当

 どうも、見えてこないですね・・・やはり、近衛内閣が東條君に丸投げして・・・なんとなく・・・成り行きで?、米英蘭に宣戦布告で始まった?近衛内閣は・・・貴族院議長近衛文麿への大命降下により昭和12年;1937年6月4日から昭和14年;1939年1月5日までで・・・平沼内閣が昭和14年;1939年1月5日から8月30日・・・独ソ不可侵条約の締結で辞職、次が阿部内閣で昭和14年;1939年8月30日から昭和15年1月16日ですから・・・ドイツのポーランド侵攻に際して、大戦不介入・・・総辞職で、米内内閣が昭和15年;1940年1月16日から7月22日・・・で、陸軍による倒閣に遭うわけですね・・・そして、近衛内閣・・・

 この線から見ても・・・どうもはっきりしない・・・中心になって開戦に持って行こうとしているのは誰なんだ?

 9月6日の御前会議で帝国国策遂行要領を決定・・・10月上旬において交渉の目途が立たない・・・の開戦の条件が揃った・・・10月14日の閣議で紛糾・・・東久邇宮稔彦王の組閣に、木戸幸一が反対・・・総辞職・・・昭和16年;1941年10月18日から昭和19年;1944年7月22日まで・・・この間に帝国国策遂行要領は白紙撤回・・・陸軍は大陸からの撤兵も視野へ・・・なぜか、海軍がやる気になる・・・このときの海軍大臣が嶋田太郎で・・・嶋田繁太郎 - Wikipedia ・・・伏見宮から「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と言葉で10月30日に海軍省の幹部たちを呼んで「この際戦争の決意をなす」「海相一人が戦争に反対した為戦機を失しては申し訳ない」・・・真珠湾攻撃かね?・・・なんだか、凄く日本的・・・どうも、情報の流れなどを考えると・・・余計な所が急に動き出すパターンか・・・

2015.08.06

  

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