鹿島神宮をうろうろ(2)

 鹿島神宮の元々の位置は・・・?(2)

 現在の鹿島神宮は移転してきていると勝手に思っていますね・・・沼尾神社や坂戸神社辺りから・・・基本的には、水運の関連する神社ですから・・・この2つの神社は・・・

 左の図の赤丸の大きな入り江に面していますからね・・・この入り江が浅くなって、水運の要衝となり得なくなって・・・移転していったのではないかと・・・現在の鹿島神宮があるのは・・・その南の細い入り江に面していますからね・・・

 ただ、砂の動きはよくわからないですから・・・実際にはどんな具合だったのやら?

 とにかくちょっと海面を下げてみました・・・一応、現在の鹿島神宮の入り江には水路が続いている形にはなりますが・・・このあたりは・・・鹿島神宮駅や開発が行われる関係でかなり埋め立てられたのでは?

 昭和21年の航空写真だと左のような感じですね・・・中央左下に鹿島城がありますね・・・このあたりは・・・どうやら畦からすると・・・結構高低差が小さいように見えますが・・・

 う〜航空写真などは気合で読み取って・・・

 右の写真Aがみたらしの池、Bが奥宮ですね・・・Bの文字の分かれ道が・・・昔の街道でしょう・・・佐久良東雄が寄進した桜の並木がある・・・街道ですね・・・この二又を北東に進むのが下津道で北へ向かうのが明石神向寺道と言うようですね・・・

 ああ・・・そうか、鹿島神宮周辺の道のチェックをしないとダメじゃん・・・古い地図を参照しないと・・・多分、上の写真は・・・明治時代の道と変わっていないはずですがね・・・古い地図は・・・明治37年の奴がどこかにあったね・・・

 ありました・・・左の奴ですね・・・Aが水戸から銚子の飯沼までつながる飯沼街道ですね。Bが須賀道、AとBの間の道が三社詣り道で坂戸神社へつながる道と思われますね・・・

 飯沼街道は水戸から・・・ですから、この地域の中心が常陸国の国府=石岡の存在が薄れた時期のもの・・・石岡へは・・・律令時代は・・・ああ、旧大洋村の大蔵の辺りの神社・・・近江神社が・・・石岡の国司様が、毎日鹿島神宮へお参りに行っていたとか・・・その途中の旧大洋村の役場のあたりの大蔵に住んでいた北条氏の尼さんにひかれて、鹿島神宮にお参りに行くのが時間的に困難になり、その結果・・・鹿島大神の分霊をこの地に迎えて祀ったのが始まりとか・・・どうも、怪しげな伝承があるから、こちらが経由地点・・・

 この神社は・・・位置からすると・・・36°05'54.5N 140°34'11.7E - Google マップ ここだから・・・船着き場があったはず・・・多分・・・36°06'09.0N 140°34'14.4E - Google マップ ここのお寺・・・福泉寺が律令時代の船着き場だったのでしょう。船着き場へ降りる所に、唯砂稲荷があって近江神社ね・・・ここから北浦を越えて・・・対岸の谷津・・・当時の入り江を行けば・・・潮来からの街道の接点で駅があるはず・・・なんとなくつながるね・・・

 あ!馬鹿でした・・・新シリーズを始めたきっかけの沼尾の神社のみたらし・・・これって、大きすぎて場所がピンポイントで出てこないのだよ・・・常陸国風土記に・・・天から流れてきた水沼とあるじゃん・・・ハスが美味いって・・・沼尾神社から谷津に降りたところに沼があって、それの水源・・・国立国会図書館デジタルコレクション - 風土記 37コマ このコマの最後の部分から沼尾に関して書かれていますね・・・よって、みたらしが大きすぎて分らんというだけですね・・・蓮池の湧水を利用していたという事でしょうね・・・そして、かつて郡衙があった・・・郡衙の移動と共に・・・鹿島神宮も動座・・・って感じですかね?

 昭和22年の航空写真がありますね・・・右の赤線が参道で、丸の辺りが沼尾社・・・その南に蓮池があり、この池のさらに南に郡家ですね。その社の南、郡家の北に沼尾の池・・・この池は・・・国立国会図書館デジタルコレクション - 風土記 194コマ 康元元年11月5日には既に枯れているってさ・・・水源として役に立たなくなっていた・・・1256年・・・か

 ああ、ちょっとすっきりした・・・国衙への道が再現できるかな?そうなると・・・古い航空写真と・・・古代の駅の所在と、神社仏閣のつながりで・・・古代の道を復元できるかもね・・・律令の官道は直線道路ですから・・・それらしきものの残滓を古い航空写真から拾ってつなげればOKでしょうね・・・大抵は神社仏閣が目印になりますからね・・・

 あれ?予定とはちょっと違った展開になったね・・・そうなると・・・香取神宮と鹿島神宮を繋ぐ水運の道と香取神宮から都への航路、鹿島神宮から東北地方への航路・・・そして、常総の中海の覇権・・・このあたりのチェックも必要じゃん・・・利根川沿いの香取神宮系の神社はある程度チェックしてあるし・・・

 ああ・・・鹿島と香取が分かれたのは・・・鹿島郡が常陸国で香取郡が上総国だから・・・地方自治の領域の確定と共に2つの地域にまたがっていた勢力が、全国支配の中での行政によって分けられたという事かね?それが・・・720年頃という事か?大宝律令に基づいて・・・令・式の整備が20年ぐらいかけて行われて・・・その決定版が養老律令に718年・・・ただ、現実にこの体制が整って全国支配の形になったのが・・・757年ごろになった・・・国勢調査に相当する風土記の編纂が・・・元明天皇の詔・・・713年・・・常陸国風土記は721年に成立・・・大宝律令が701年大宝元年・・・ああ、5年計画の編纂で?養老律令が718年・・・ところがどこも終わらなくて・・・大宝律令の20年計画の期限で721年に提出・・・?いや・・・役人は期限命だから・・・713年発令で718年に完成、中央で編んで・・・721年の大宝律令20周年で・・・新しい国家体制・・・

多分、風土記は全ての国で作られたが・・・それは単なる常陸国風土記で省略された地名と戸数のリストで消えた・・・現状は変わっていくから・・・計帳使がきちんと情報を運ぶようになって無用になった・・・720年には日本書記が完成・・・710年が平城京遷都・・・この辺りから国家体制の確立に気合が入ったという事でしょうね・・・現代につながる日本って全国組織は奈良時代に始まるのかね?法治国家としては・・・大化の改新646年・・・このあたりで天皇の権威が・・・白村江の戦いへ向けての連合の中で明確になっていった・・・百済の役・・・これによる天皇家への求心力・・・か?661年の斉明天皇の九州への出兵を可能としたものかね?百済の滅亡で・・・日本が興隆・・・?朝鮮半島百済の難民が原動力かよ?

 なんだか、可能性としては面白いね・・・百済の滅亡で、大量の百済からの難民が日本に流入した・・・難民の多くが官人・知識人だったとか?それだと・・・日本国内の法整備がこの時期に大きく進展したのは分からないでもないね・・・なかなか面白いね・・・

 また、脱線している・・・一応、こういった時代背景も考慮に入れて・・・チェックしてみるか・・・一応は潮来から常陸国国府の石岡への道も一部チェックしているし・・・なんとなく、全体像も考慮しながら・・・鹿島を中心とした水運と陸上交通をチェックしてみるか・・・何かが見えるかもしれない・・・古い航空写真を先ずはチェックしなきゃね・・・まあ、後回しかね・・・だって戦争かもしれないしね・・・

2017.04.11

  













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