香取神宮をうろうろ(108)
 香取志 (42) 神宮の現在の様子から・・・

 どうも、近頃PCの様子が変?原因は不明・・・多分、ブラウザのキャッシュの関係なのか?グーグルクローム?のキャッシュかね?IEのキャッシュと同じ?MSワードなども?・・・こいつを削除すると、調子が良くなる・・・なんとなく、裏で色々なものが連動しているような感じで・・・なんで、普段使っているホームページ・ビルダーの方に影響が出るのか不明・・・インターネットエクスプローラーとも連携があるような感じ・・・それとも・・・近頃、ホラー映画ばかり、ネットで見ている関係なのか・・・ホラー映画は・・・英語が良くわからなくてもOK・・・というわけでもないですが・・・単に驚けばOKですかね?しかし・・・新しい作品になればなるほど現実離れしていく様な感じです。そう・・・PCもそうですね。近頃のPCは・・・その構成はちっともわからない・・・CPUも色々とあって・・・286とか386の時代は比較的分かりやすかった気がしますね。アドリブのサウンドボードとか、ハーキュレスのビデオカードとか・・・CGAでしたっけ・・・前世紀の遺物ですが・・・たまには、引っ張り出していじりたい気がしますが・・・そんな暇はないのが実情ですね。一応は未来志向なんで・・・古いマッキントッシュなども動かしてみたい気がしますが・・・1台は現役に近く即応体制にありますね・・・大昔の組版のソフト・・・、QuarkXPressが入っている関係で・・・もう、何年使っていないのか・・・これでの仕事をする必要はないのですが、なんとなく・・・アルダスのソフトウエアとか・・・いつの時代かね?なんってものもありますし・・・今は、Adobe InDesignを導入したいのですが・・・財布がね・・・今では、こういった高価なソフトを使って行う仕事はないのですが・・・なんとなくね・・・欲しいだけに近い・・・コーレルDRAWなどを使えばOKなんですが・・・なんとなくね。コーレルの製品はずいぶんと昔から使っていますね。Windows3.1時代からですから・・・あの頃はバージョン2か何かでしたね。しかも英語版・・・Windows for Workgroupとかも使っていましたね。これを、日本語化して・・・挙句の果てにはOS/2とか・・・英語版・日本語版のWindowsを動かして遊んでいたっけ・・・・体験版をアップデートすると、製品版に化けたり・・・あの頃に比べると、きちんと仕事の道具として安定して動くようになりましたけどね・・・落ちないのが嬉しい・・・さて、香取志の続きです・・・

 続きと言っても、現在の香取神宮の境内の様子をチェックしてみたくなっただけなんです。基本的な配置は分かりますが、周辺の地形も含めて・・・元禄の造替の際の土取り場と思しき場所とか・・・色々と気になっている場所があるのでそのチェックです。やはり、歴史ある場所を直に体験してこないとね・・・
 
 というわけで、ちょっと香取神宮へ・・・疑問に思っている場所を羅列しながら、現状と比較する作業でもしてみましょう。

 まず、気になっているのは、下総名勝図会の右の、旧参道の石段の右側の出入口です。

 この場所は、現在は左の写真のように石段脇の出入り口はありません。

 この図の雰囲気からすると、明らかに、旧参道から登りであり、この門から押手社・要石方面の道は等高になっていると思われます。もうひとつ気になるのは、図の石段が・・・石垣から引っ込んだ付き方をしています。図が間違っているのか、鳥居脇の門が無くなって、総門下への道が掘り下げられた時に石垣が組み直された可能性もありますが・・・それは不明です。でも、多分・・・図が誤っているのではないかと・・・一応、石段のあたりの石と、切通しになった部分の石垣の石材には差があります。石段に近い方は安山岩質の石、切通しの石は砂岩・・・多分、銚子石ではないかと思われます。なんとなく・・・元禄の造替の際に石段が作られたような感じです・・・はっきりとはしませんが・・・この旧参道は元禄の造替で物資の運搬用に整備されたのではないかと・・・なんとなく・・・諸神塚=雨乞塚のあたりで道の脇の家を取り壊したような事が、日記に書かれていたりしますからね。何しろ、江戸でプレカットされた材を香取まで運んでいますから・・・慶長の造替の際は本殿の屋根、5丈ほどの高さから職人が落ちています・・・18mほどですかね?すると、15mを越える材を搬入したわけですから・・・どんな経路だったのか不明ですが、津宮からの道で、この手の長い材を運ぶのに困難な場所は、雨乞塚の角だけですからね。・・・あまり根拠はありませんが、香取神宮のあたりは、あまり自動車が入れるような道ではないようですから・・・元禄の造替では石車が使われ、この石車は多分、1丈ほどの幅があるようですから・・・

 そう言えば、車を入れるために土手が削られている所があるような・・・要石と押手社の間の通路って細いし、石段ですね。また、現表参道から資材を護国神社に上げる事はかなり困難です。護国神社の場所って昔から平らだったのか分かりませんが・・・香取要害城の跡とか言われますが・・・ここへの資材搬入の関係なのか・・・押手社の脇の土手が、右の写真のように、自動車での搬入を意識したような感じに切り開かれているような感じです。この切り方は・・・要害城の昔のものとは思えません・・・この護国神社の場所は・・・確か、長吉寺があった場所ではないかと・・・これも、良くわかりませんが・・・多分・・・出典が不明だな・・・まあいいや!というわけですからね。香取神宮関連の寺院もチェックしなければ・・・諸宗末寺帳か・・・どこぞの図書館で見たっけ・・・そのうちチェックしてみましょう・・・なるべくネット上で検討できる史料が良いのですが・・・

 とにかく・・・昔は、山道などではなんでも臂力搬送ですから・・・第二次世界大戦も、日本はほとんど、どこでも臂力搬送・・・重輓馬というわけにはいかない・・・でも、人間は短い時間なら1馬力ぐらいの出力があり・・・掛け声での統一行動が取れますから、短時間なら、驚くべき力を発揮することは分かりますけどね・・・しかし・・・山砲とか分解して臂力搬送は厳しかろうに・・・利根川沿いの神社などの力石を見ると・・・人間の力の大きさを実感しますが、さすがに持つ気はしません・・・元禄の造替の際の石材は小松石などですから・・・神奈川から香取まで運ばれたようですから・・・これって、凄いことだと思いますがね。

 右上の写真から旧参道の石段の所へつながる道が気になるわけです。右の写真のように道が開削されて、要石からの道が切断された時期ですね・・・なんとなく、これは昭和初期の改造によるものではないかと・・・そんな気がします。そして、総門下、神徳館向かいには家が立ち並んでいたような感じですから・・・

 旧参道から総門下、神徳館へ向かう左の写真の道・・・なんとなく、神徳館への資材の搬入路みたいな感じかね?・・・神徳館は紀元2600年記念事業関連のもので、実際に完成したのが昭和34年ですから・・・
 
 神徳館は、右の建物ですね。基本的には体育館のような建物ですね。

 楼門前の馬場から総門下の広場への道は左の図のように表されています。

 左上の写真の道はなく、鳥居脇の道から馬場へ上がり、そして下る道があり・・・現在の総門の階段に相当する階段が二本の柱で示されています。

別のバージョンの下総名所図会ではこの場所は右の図のように示されています。こちらだと、現神徳館・・・大宮司邸が描かれていますね。

 そして、気になるのは、右の図では旧参道わきの門のそばに池が描かれています。

 道のつながりからすると、この池は右の図のように、旧参道石段脇の門から総門下広場へ下る道の右側にあると思われます。

 位置的には、現在、道になってしまったあたりにあったような感じですね。この場所は、池之端とか、そういった名前で呼ばれていたようです。そして・・・明治17年の大饗祭では、この池の端にあった中教院を御炊殿として、米を炊いて供したとのことですから・・・このあたりに建物も存在したようです。

 私の古い記憶では・・・建物は分かりませんが・・・旧参道の石段の脇の要石に向かう道の南側に右の写真のような貯水槽に水が湛えられていたような気がします。おぼろげな記憶では・・・屋根が斜めにさし掛けられていたような記憶が・・・定かではありませんがね・・・この場所の記憶であるかすら不明ですがね。どうも、水に関連する物に興味があったようです。

 右の写真の奥に見えるのは・・・多分、現在の神池への水を揚げているポンプではないかと・・・現在の立派な神池は、私の古い記憶にはありませんね。現在の参道の左右に広がる神池は昭和53年の式年大祭記念行事として計画され、昭和55年10月竣工との事ですね。

 旧参道石段脇から要石への道の途中で、今回、月宮をちらりと見ることができました。左の写真ですね。この場所は・・・親父に連れられて入った記憶が・・・遠い遠い記憶ですが・・・この社を見て思い出しました。

 この時も、木戸はあったのですが・・・ここって、たしか分飯司家の屋敷地ですよね・・・親父はさも知っているがの如く入って行きましたが・・・なんで親父が、香取神宮の道を良く知っていたのか不明なんですが・・・多分、土浦の航空隊にいた頃に来たのではないかと?そこの兵隊仲間に香取出身者がいたのか?今となっては、そのぐらいの推測しかできませんけどね。

 人間の記憶というものは不思議なものです・・・どうして、覚えていられるのか?完全に忘れ去ったと思っていたことも、ふとしたきっかけでよみがえってきますね。今回の香取神宮行では、冬枯れの草が刈られていたために、色々と普段見えない物を見た気がしますね。

 要石と神宮との間の道について気になるのはこんなものでしょう。そして、楼門前の馬場に関連しては・・・市神社と馬場殿の位置が時々替わっているか、図の誤りか・・・とか・・・右の木母杉の跡とか・・・現在はスダジイがその跡に生えていますね。ここからは廻廊しか見えませんが、かつては・・・

 左の写真の写真のように神楽殿があったようです。概ね、廻廊の角のあたりが、神楽殿の角に相当するような感じですね。上の写真の木母杉の右に手水舎がありますが・・・これは、水盤石に昭和17年4月とありますから、紀元2600年事業関連で寄進されたものではないかと・・・廻廊の延長工事は平成2年のようですね・・・神楽殿はいつまで存在したのやら?

 この昭和15年の改修工事で右の写真の矢印の幅だけ馬場の部分が拡張されたという事のようです。しかし・・・昭和15年から17年にかけては大きな工事を行っていると・・・どこに、そんな金があったのか?非常に気になりますね。昭和12年盧溝橋事件から支那事変がはじまります。水盤石の昭和17年4月って・・・国立公文書館 アジア歴史資料センター 写真週報215号4月8日 戦時ですよね・・・昭和15年から神祇院の直轄事業で、社殿以下の建造物の大改修が行われています・・・まさか・・・献納運動の一環かね?香取神宮の事業ではなく、国が様々な人や団体から献納を受けて、それによってこのような事業を行った?

 神祇院か・・・近代デジタルライブラリー - 我が国体と祭政一致 ふむ・・・騏一郎君か・・・何で?論点は分かりますね・・・ふと、私の日本の国体に関する妄想的見解は・・・日本国民の漠然とした総意は天皇とういう象徴的な存在に集約される・・・これが、天皇に現人神としての神格を与えている・・・この神を通じて、国民の漠たる総意は具現して、太政官や征夷大将軍であるとか総理大臣を生み出し、そこに委譲された権限が顕現する・・・なんだか、使った用語が変な気がするが・・・言葉の問屋ではないので、都合の良い用語が湧いてこないのが難点だね・・・

 ・・・臣民の天皇を輔翼し奉るは大御心を奉戴して天業を完成するにある・・・か・・賢い人は・・・しかし、騏一郎君イメージは・・・経済なんですが・・・神祇院・・・国が金集めをやってる事なんです。直轄事業なんでね・・・国債を売り、献納を求め・・・市中の現金通貨を動かないようにするための手段って考えちゃうんで・・・この時代、戦争による好景気の時代です。インフレ率は極めて高く、国は盛んに紙幣を発行しています。悪性インフレに陥らないようにするために、市中の金を貯金とか国債とか・・・献納とかで回収して過剰な資金が回らないようにしています。献納させて、奉仕させて現金を消滅させるという手段として使ったのか?なんって・・・市中の金の動きに熟知している騏一郎君ですから・・・

 資材の無い時代に突入しているはずですが・・・立派な事業が行われる事になる・・・ある意味、民間の金と労働力を吸い上げているわけですが・・・

 香取群書集成もこういった事業の一環で行われていきますね。昭和18年に刊行された香取群書集成 付録第一號の最後に左のような事が書かれています。多分、この本の紙なども、付録の普通の酸性紙とは違った紙ですね。良い紙を使ったのか?それとも、統制外の用紙を使ったか?統制の緩い用紙の特配を受けたのか・・・余計な事ばかり考えてしまいます。

 昭和18年から・・・かなりの時を経ました・・・現在、香取群書集成は8巻まで刊行されていますね。文化事業というのは、色々な思惑の上に成り立つものですから・・・基本的には成果は精華であるとして讃える事は吝かではありませんが、その裏側にある文化とは違った思惑などが見え隠れするのは・・・別の意味で興味深いことだと思うわけです。なんとなく、騏一郎君は・・・凄く賢い人間に見えてきました・・・国策としての、経済政策を・・・文化活動へとすり替えたか?なんとなくやりかねない・・・香取神宮のように、時代を越えられる物に投資させた・・・

 さて、元禄の造替の際の馬場と現在の馬場ではその広さが違う事が分かります。木母杉の所の石組はそのまま続きます。ですから、楼門と同じ高さの部分がかなり前にせり出している感じになっているのでしょう。そして、楼門前に鳥居がありまました。

 この写真では楼門の斜向かいあたりに15糎加農砲が置かれていますから、明治40年以降の写真である事が分かりますね。この砲は明治37・38年戦役での戦利品です。この明治40年3月の奉納碑が現在も、御神井道の脇に残っていますね。

 このほかにも大砲が何門かと機関銃などもあったようです。

 黄門桜は石垣の上に植えられていますね。現在は位置は変わっていないのでしょうが、根元が丸く石垣で囲われています。これが、かつての楼門前の小高くなった部分の高さの名残ですかね。

 しかし・・・なぜ、広げたのかね?ここに車を走らせる必要ができたかね?馬場に車を入れるためには・・・

 確かに、資材の搬入搬出には軽トラが入れることが重要ですね。

 車の入った跡・・・右の写真の奉賛者名の掲示板の間の・・・車イス用の入口・・・ここが車の出入り口になっているのでしょう・・・ふむ・・・この六角形の土盛りの跡は何なのだろうか?十五加農の位置だが・・・十五加納が入ったために儀式空間に変更が加わった・・・?そして、それが、元に戻って何かを行った跡・・・まずい・・・香取神宮の過去の祭礼ばかり眺めていて・・・現在の祭礼に無関心だったようです・・・どうも、私は・・・過去と未来への関心が高く・・・現在には興味が無いのか?まあ、今は・・・今・・・出たとこ勝負ですかね?今・・・今が未来を作るわけですが・・・未来を予想して、今を作る・・・未来を作るために、今の選択を行っている・・・今の選択のために、未来の想定を行うのだ!という事にしておきますかね・・・今に対する無関心さの言い訳には良さそうです・・・でも、今って・・・今の瞬間でしかないから・・・今というものは、過去と未来の狭間の刹那なのでしょうから・・・移り行く刹那の今に関心が無いのは当然か・・・いささか無理があるなぁ・・・不確定な未来だけではなく、予定として確立している未来についてもう少し関心を持つように心がけるとしますかね・・・

 とにかく、楼門前の馬場に入るための道は左の写真の進入路だけになるような感じです。まさか・・・十五加農を入れるためにこの進入路が開削されたとか?十五加農砲なんって鉄の塊ですから・・・多分10トン前後の質量があるはずですから・・・分解しても、砲身とか砲架など結構な重量物ですから・・・分解するとしても階段を上がるというわけにはいかないでしょうね・・・


 桜馬場の石段は、右のようなものでしたね・・・この石段がスロープに変わったのはいつなんでしょう?昭和45年ごろは石段だったような気がしなくもない・・・ふむ・・・この写真に写っている石灯籠は・・・元禄4年の奉納でしたっけ?・・・どんな人のどんな思いが、石灯籠に込められて奉納という形を取って現在につながっているのか・・・ちょっと気になりますね。

 神社というのは、人々の思いの結晶のようなものだから・・・ふと、そんな気がします。文化というのは・・・不思議なものです。

 元禄の造替に関しては色々と知ることができましたが・・・慶長の造替は良くわかりませんね・・・このときの造営の職人は新市場村の方に宿舎を持ったような感じですね。物資の搬入路として、氷室坂が使われた可能性が高い・・・そして、旧参道沿いの家々は、慶長年間にはほとんど存在していなかったのか?なんってね。・・・多くの職人を受け入れられる・・・そういった基盤を持っていたのが、慶長年間では新市場だったのかね?とか・・・色々と妄想してしまいます・・・あれ?元禄の造替の際の職人の宿舎はどこだ?津宮かね?基本的には・・・水源の無い所に大勢の人間が暮らす事は困難ということなのでしょう。

 ちょっと、長くなったので、ここらで一旦切るとしましょう・・・

2014.02.25

  

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 平和記念東京博覧会写真帖
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近代デジタルライブラリー - 検索結果 平沼騏一郎


参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
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国立歴史民族博物館データベース
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近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第12巻 178コマ 類聚三代格
『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要|奈良国立博物館
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近代デジタルライブラリー - 帝室制度史 6巻. 5巻 附圖
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