香取神宮をうろうろ(103)
 香取志 (37) 奥御前六所から・・・

 さて、映画三昧の生活になりつつあります。見切れないほどの映画・・・基本的に、常用のPCから、メディアプレーヤーへ飛ばしていますが、便利なものです。メインでつかっているPCもそろそろ買い換えるか考えていますが、一応は16Gもメモリーを積んでいますから、それなりにきびきび動いてくれています。文書作成には問題ない・・・手が遅いので大昔のPCでもそれなりに仕事にはなりますがね。ただ、そろそろハードディスクが気になる時期です。一応はシステムはバックアップを取り、重要な文書ファイルはいくつかのコピーとRAID5で構築されたファイルサーバーに置いていますから、そう簡単に無くならないとは思いますね。色々と考えますが、新たにPCを買い込むと1日はOSと必要なソフトウエアのインストールや設定で消えることになりますね。こいつはあまり面白くない・・・そりゃ、今使っているソフトウエアでは駄目というなら・・・あまりまじめにバージョンアップしていませんから・・・新しいPCを買い込んだらバージョンアップするかと思っていますが・・・財布が許してくれそうもないのでね。そして・・・さすがにメインのCドライブの容量の問題が・・・近頃インターネットを眺めていると、ブラウザがかなり大量のキャッシュを取得しているようで・・・Cドライブの空き容量を圧迫してきて警告が出る時もありますから・・・新しいPCは諦めてSSDの導入をすることにしました。安くなったといっても500GBで35k円ほどしますから清水の舞台物ですね。残念な事に大雪のために手元になかなか届かない・・・届いても数時間はPCは使えなくなる・・・OSとアプリケーションソフトが完全に分かれて使えればよいのですが・・・大昔のフロッピーに入ったソフトウエアともう一枚のデータディスクの時代が懐かしい気もします。おなじOS が入っていれば、どこでも同じ環境でしたから・・・USBのハードディスクを繋ぐだけでソフトウエアの環境がどこでも同じで作業できるようになると良いのですが・・・

 さて、妄想の続きを・・・香取志 19コマ

奥御前六所
等官符に六所、当社六宇行事所の沙汰にて之を造り進すとある。重規によれば、ここの六宇とあれども、今一宇中に隔てをなして六社とする。この神体はつまびらかではない。今云う所の火御子・火王子・二荒山の神・加波山の神・筑波山の神・息栖の神と云う。そうであるが、その神、六所の他に火御子・火王子・息栖等の部ッ社があった事は、官符で明らかである。そうであるなら、今云う所の神々は誤っているものであろう。それとも、他に火御子以下の三社は今は無い。とにかく、その真実は今は知り得難い。


 現在の六所神社は右のようなものですね。元禄の造替の際と同じ場所であるのなら、かつての六所神社はこれよりも規模の小さなものであったようです。元禄の造替の際には、この場所が狭いので元禄13年7月27日に左右にある小松・小杉を伐ってこの場所を広げています。チェックをかける基本に使っている社殿リストを眺めると・・・

 正神殿/於岐栖社・一の鳥居/勢至殿・不開殿/佐土殿・アサメ殿/東廊・中殿/北庁・膽男社/三の鳥居・祭殿/火王子社・忍男社/内院中門・西廊/若宮社・酒殿/渡殿・外院中門/東脇門・西脇門/宝殿/二の鳥居/楼門/大炊殿/薦殿/脇鷹社/鹿島新宮/八龍神社(6宇)・・・寛元元年;1243年のものですが、これには八龍神社(6宇)というのがあって、六所神社は見られません・・・それより時代が下ると雷社六宇に変わってきます・・・多分、六所神社はもともとが八龍神の内の六神を祭っていたのではないかと・・・残りの二神は楼門とか?流行が変わったか、言い方が変わって八龍が八雷になったような気がします。そして、元禄の造替の際に八龍神は幣殿に入ってしまいますから・・・六所神社は空き家になってしまったとか?現在の六所神社の祭神は須佐之男命、大国主命、岐神、雷神二座と花園神社から入った龍神のようです。

 微妙に帳尻があっているようなあっていないような・・・真実は時代の闇の中に埋もれてしまっているような感じです。猿田彦はどこへ行ったのでしょうか?ちょっと気になります。

杖取神社
岐神が祭られている。神代紀によれば、投げ捨てた杖から生まれた~が岐神である。岐神が二神を薦めて言うには。これ我に替わって仕え奉るべし。また云う、故に經津主の神、岐神を以て国の導き巡り征服して云った。従わない物があれば、やがて殺し、帰順したものは称える。末社記によれば。中殿西の角にあるという。田の神に杖取があるのは慶長以来云うようになった。神領分間の縄張りを成さしめる堺地であって、杖取の社ではない。
重規によれば岐の神は伊弉諾尊の杖から生まれた神である。我が神宮、この神を以て教導とされていた事によって。昔、度に出る人は必ず我が神宮に詣でて、門出を祝い、白杖のようなものを受けて出立した。これ岐神の教導を受ける意味であって。帰ってきたら、またこれを返して納める。いつの時かこの事が絶えてしまって、度に出る物は、先ず神宮に詣でて旅路に支障が無いように祈って、その後に神庭の小石を懐に入れて出立し、帰ってきたら返し納める。この白杖の古事が変化してしまったものだと。三月の神幸神事の先祓太夫というものが神輿供奉の先頭に立って白杖を振って特別な事であると示す。これは岐神を教導とした事の古事に則っている。今、諸社の神幸にこの事があるのはこの事に倣っているものである。また、道祖神、ちまたの神、さえの神先玉の神など云うのは、皆この神の事である。門出、船出、出陣、方違なども同じようにこの神を祭っている。これは皆、我が神宮率いて教導としたことから起こっている。なお、この事について云いたい事があるが、長くなるので云わない。


 杖取神社は岐神が祭られているか・・・でこの杖取神社は・・・中殿西の角にあった・・・田の神に杖取が祭られるようになったのは慶長以降・・・検地かね?それで、神領を区別するために堺の地に置いたもので・・・杖の神様ではない境界神だという事ですかね?どうも複雑な文は上手く読みこなせない・・・中殿西の角・・・中門かね?末社記が書かれた時代が不明で今に伝わらない本は困るな・・・元禄の造替では中門も存在しなかったようですから・・・中門の西の空間に祀られていたのでしょうが・・・神幸祭の先導役か・・・?古い神幸祭の絵巻だと先頭は八龍神で一と二の御舩木が続いて・・・右の図ですね。白い棒を振り回しているのは・・・春日神幸図で見たような・・・


 左のが春日神幸図の先頭のあたりで梵天ですかね・・・とにかく白い棒のようなものを持っています。一応、他の香取神宮の神幸祭絵巻では先導は八龍神ですから・・・

 時代が下って明治12年の神幸祭は・・・神幸祭供奉列次によれば、前衛・大榊・太鼓・一艦木・二艦木・三艦木・・・となって護法の八大竜王は現れませんね。そう言えば、春日の龍神がありますね・・・神道集の春日大明神事に・・・あれ・・・六所明神は大龍神で、南八龍神の本地は不動明王、北八龍神の本地は毘沙門天王だと・・・側高神社は毘沙門天と関連がありましたね・・・

 ふむ・・・六所は龍神でOKの様ですね。鹿島神宮も楼門に左右に龍があり、それ以外に八龍神の社が元和5年の造替の際の地割り図に見られますね。春日大社の六所+南北の八龍神の方が香取神宮より古いのか新しいのか?ちょっと気になりますね。私はこれで納得したのでOKですけど・・・神道集は全文を読んだ記憶が無いですね・・・ちょこちょこ引用されていたりするので目にしますが・・・国立国会図書館デジタルコレクション - 輪池叢書. 17これには春日の事は無いですね。

 春日の祭礼に関しても興味がありますから史料を集めつつあるんですけど・・・そのうち・・・さて、重規説の白杖は・・・古い神幸祭の記録について書かれたものは・・・確か香取名所図絵にあったような・・・至徳あたりまでは行われていて、永正13年、享禄2年、永禄11年の文書に見られるか、この後いつ廃れたかは不明だが徳川の時代には中絶、明治9・12・15年に御遊船大祭を行い、それ以後は午年に大祭を執行・・・

享禄2年;1529年の陣職帳・・・がありますね。これの先頭部分は次のようなものです。
正一位勲一等香取大明神並びに王子三十余ヶ所、左右八龍神等於中殿三月御祭御陣職次第事
一 楯禮1人 白杖1人 田冷
次 立標1人 左右綱取2人
次 立将軍代、物申祝中臣
・・・・

 ふむ、この白杖の事ですね。右の図は明治時代に再興されたものの図かな?御遊船大祭・・・明治8年とか書いてある所の挿絵なのですが・・・多分、明治9年の再興に当たって計画図なのではないかと・・・メインの行列部分は榊を先頭に、八龍神があって・・・という感じです。田冷は多分、庭上神主かね?大禰宜日記の中に大宮司の死去に伴う言上書に連署している庭上神主や膳部所の名前が並んでいるような場所にありますから・・・もしかしたら膳部所の田令判官かね?職掌などもチェックしておかないとまずいのか・・・まあ、香取志にもそのうち出てくるかな・・・

 とにかく、この白杖なのですが箱の四面に2つずつ龍を描いたものの事ではないかと思われますね。白杖の古事の方は不明ですね。多分、内裏式の上卯日献御杖式の系統の話ではないかと思われます。近代デジタルライブラリー - 群書類従. 第五輯 14コマ 後に鷽替えとか様々なバリエーションを産む元になった行事ですかね?あと、杖関連の神事は・・・はねつきなどがありますね。ただ・・・先導は行路神・・・猿田彦をイメージしてしまいます。しかし、八龍神・・・左右八龍神という言い方が気になります。やはり、楼門の左右の龍神と六所は6つの社殿ではなく六所明神=龍神ということなのかもしれません。

 正一位勲一等香取大明神並びに王子三十余ヶ所、左右八龍神・・・この一連の神々に何かの意味があるのかもしれません・・・香取大明神・・・明神で、1529年ですから神仏習合のイメージ・・・十一面観音か、そして王子三十余ヶ所・・・そうなると法華経の説くところの観世音菩薩普門品第二十五いわゆる観音経では観音様は衆生を広く救うために、救う相手に応じて33もの姿で現れるとか・・・観音菩薩の脇侍って・・・一般に毘沙門天と不動明王だよな・・・六所明神は大龍神で、南八龍神の本地は不動明王、北八龍神の本地は毘沙門天王・・・ふむ、完璧じゃん!鎌倉時代に神仏習合の形が完成していたとなるのかね?これだと・・・神幸祭は観音菩薩の行列という事になるのかな?ふむ、それで、仏教系の地頭連の圧力が弱くなると、神幸祭が中絶・・・

 香取神宮の祭神の本地仏は十一面観音菩薩・釈迦如来・地蔵菩薩・薬師如来でしたね。基本的には神宮の本地仏の十一面観音立像は金剛寶寺の本地堂に納められていましたね。現在の祖霊社のある場所にあった寺院・・・この十一面観音立像は現在佐原の荘厳寺にあるようです。そして、香取神宮の掛仏は牧野の観福寺に行っていますね。

 ふと余計な事を・・・鹿島では弥勒信仰が現れますが・・・香取ではどうなのかと・・・鹿島踊り・・・私の妄想では、起源は弥勒信仰とは似ているが別の物で、それが東の海上から弥勒船が来るという事の類似から弥勒踊りを取り入れて現在の形になって行ったと思われます。鹿島の神はその時々にやってくる神のようですから・・・それなら、その萌芽となるものは香取神宮にもありそうな気がしますからね。・・・小見川の祇園祭や佐原の大祭(本宿祇園祭・新宿秋祭)などがその系譜かもしれませんが・・・芸座連ってのの発生が気になるところですね。香取には山車が無いのは・・・佐原型の山車の原型は多分、元禄の香取神宮の造替の際に使われた石車なのでしょう。この山車の系統のものは・・・佐原・牛堀・潮来・麻生、鹿島へと広がって行ったのではないかと、小見川は屋根つきですね。微妙に系譜が違う・・・途中に香取神宮が存在するからか?ちょっと気になりますね。それから御囃子の系譜も・・・これも知りたい気がします。

 祇園祭か・・・牛頭天王で素戔嗚尊・・・八坂神社の祭礼ですね。香取神宮はこういった祭礼は吸収しなかったのか?ちょっと気になります。鹿島神宮の鹿島踊りは、事触れが広めたとか・・・もともとは鹿島神宮の大禰宜・物忌の方の十人殿腹だったかな・・・神野の十人殿腹によるものは1670年に停止され、大宮司の手形を持つ者だけが、「鹿島の御師」として、鹿島様の布教を行うようになったとか・・・そんな話でしたね。鹿島神宮の創建に関しても・・・鹿島の神野の伝承では鹿島様は神野に鎮座してたそうで、藤原家が奈良の春日大社へ鹿島様の御分社を祀るにあたって、神鹿に乗って、奈良へ向かい、帰りに行方の島崎大生の里に逗留し、この場所が「大生神社」となり、大同元年;806年に神野に戻り、翌大同二年に現在の鹿島神宮の場所へ鎮座したと・・・春日大社の創建は春日大社の伝では、神護景雲2年;768年に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀したとか・・・神野に祀られていた鹿島様の宮は・・・跡宮ですね。明治時代に消滅しかけた神社・・・まずい、妄想が暴走しそうです。続きと行きましょう・・・

別雷神社
賀茂神宮と同体である。


 また知らない神社が出てきた・・・上賀茂神社と同じですから・・・多分、平安末期には雷が流行って左右雷社と八種の雷神を祀っていたのが・・・八龍神に変更になったとか?詳細は不明・・・これは、お手上げですね。ただ数の関係からすると、雷神社=八龍神と考えても良さそうです。元禄の造替前の境内の様子もなんとなくの推測では現在の本殿のあるあたりは杉林で窪地もあったようですから・・・図をこしらえると、右のようなものになるのかな?一応は江戸時代の地割り図を地図上に重ねたのですが・・・そして古い神宮の推測図も重ねておくと・・・ただ、楼門前の馬場の空間がかなり微妙で・・・多分、楼門の規模は現在のものよりかなり小さかったのでは?そうでなければ、馬場がかなり狭くなります。総門などはなかったのですが多分、旧参道から、総門下へ抜ける道が今とは違ったつき方をしていて、馬場はそのまま奥宮の方へ行く道に平らに真っ直ぐ続いていたのでは?

 香取神宮の祭祀空間は広いようでかなり狭いのでね。雷社と龍社はどうも共存できる数ではなさそうな感じがするわけです。

璽社
わが神宮の御正印殿である。神官任符にこの御正印を使うのが昔からの習わしである。大宮司宅地の内に有。また多くの神宝がこの社に納めてある。

 神徳館の北側の社ですね。左の写真の社です。確かに収納空間という感じの神社です。大きな扉が収納空間としての使い勝手の良さを示しているような感じです。正印と鑰が納められているとか書かれていましたね。他にはどのような宝物が納められていたのやら?ちょっと気になります。香取神宮のサイトの境内案内図では、璽神社と大山祇神社の位置が逆ではないかと・・・まあいいか・・・さて、この神社はいつのものなのやら?何しろ社の雰囲気がちょっと違いますからね。

 金物などの使い方の雰囲気からすると、護国神社が似ています。、昭和21年9月創建の神社ですから・・・昭和の建物なのでしょうか?ちょっと気になります。続きは・・・

奥宮
神宮の荒魂である。


 シンプルですね。荒魂・和魂って概念は・・・私には理解不能です。これって・・・神霊の人為的分類ではないかと思うのでね。神は如何様にも分霊可能なのか?ふと気になるわけです。人間の都合のよい形にすることが可能なのか?このあたりは考えても絶対に私にはわからないのでパスですね。いつの日か分かるのか?さて・・・続きは・・・

登戸社
末社記に太玉命を祀るとある。王子の社と同じ場所にある。


 これも知りません・・・王子社は分かりますが・・・王子社は経津主神の御子神を祀る神社ですね。太玉命か・・・太玉命の御子神が御門守神として楼門の前方左右にあるとか書かれていましたね。これって・・・南八龍神の本地は不動明王、北八龍神の本地は毘沙門天王で楼門前にあったものと重複しますね。王子社の太玉命があって、王子社の前の道を真っ直ぐと進むと・・・右の図の左下の王子社からの参道を考えればよいという事ですかね?王子社から北上すると、大鳥居前に出て、さらに直進して細い坂を登ると、左に奥宮、右に不断所がある雨乞塚に出ますね。笹川旅館=杉香楼の所へ出ますね。そして、ここを右折して旧参道を進み神宮へ入ると、楼門の前に太玉命の御子のクシイワマドの命、トヨイワマド命の二神の像があるという事ですね。クシイワマドの命、トヨイワマド命の二神の像はやがて、雷神に替わり、龍神に替わり、さらに・・・仁王になったか?左の図のように・・・そして、いつの時か楼門は隠滅していたような感じです。元禄13年の造替で、古い楼門を壊した話はなかったし・・・大風で数日分の書きつけが紛失していますから詳細は不明なのですけど・・・幕府との造替の交渉では、楼門は昔から馬場にあって・・・とかやってますから、この時期には楼門は存在していないような雰囲気です。

 多分・・・時代の流れの中での変化なのでは?続きは・・・

花園神社
左右の雷社の條に既に出した。


 はいはい・・・花園神社と言うと・・布留引神事って何かね?って気になります・・・花園神社という名前もなんとなく、雷社には似つかわしくないので、何か、変遷があったような気がしますね。・・・布留に関するもの・・・石上神宮の祭礼に類似のもの・・・1月14日頃・・・出雲建雄神社例祭ってのが1月15日にありますね。この祭礼は・・・草薙剣の荒魂を祀るとのこと・・・熱田神宮かね?いや・・・景行天皇御代に、日本武尊が東征からの帰りに宮簀媛に預けて伊吹へ行って死んでしまい、残された宮簀媛は剣を熱田神宮作り納めた・・・ふむ・・・草薙剣は、天武天皇の頃には布留剣と言われ石上神宮にあった・・・後に草薙剣と言われるようになった・・・さらに遡ると、この剣の出所は・・・ヤマタノオロチの尾から出てきた太刀ですね。天叢雲と呼ばれた・・・ヤマタノオロチの頭上に常に雲気が掛かっていた・・・この剣のためかね?

 まさか・・・白状祭を思い出してしまいました・・・天智天皇7年;668年の熱田神宮から草薙剣=天叢雲剣が新羅人に持ち出された事件・・・裏で側高の神が・・・というよりは布留御魂大神=ニギハヤヒの関連かね?まさか・・・塩土老翁の唆し系かね?この塩土老翁は奈良盆地へ神武天皇を東征させた張本人ですから・・・そして、さらに・・・鹽竈神社の社伝では、武甕槌神と経津主神は塩土老翁の先導で諸国を巡って国土を平定し、塩竈にやってきたようですから・・・それに海幸山幸の話も・・・さて、この布留引神事とは何なのか?気になりますね。

 気になるのは海幸山幸の話なんです・・・元禄の造替の際の神宝のリスト・・・広矛の箱 干珠満珠玉箱 御神輿4宇 大神輿1宇 御几帳4 御簾3間 御櫛33 八足机4 御盃の台10 御鉢5 御行器1荷 御木鉢大小21 御鉾4 御太刀4 御弓4 御矢28本 御箙4 行騰4 御神馬道具4通り 御銚子提子2対 御瓶子1対・・・干珠満珠玉箱これなんです・・・香取神宮には干珠満珠があるという事のようです。これは、私も欲しい・・・まさか潮汐表って事はないでしょうから・・・多分、側高の神が凡夫の時に活用した、霊験あらたかな追手を遮る事ができる玉ではないかと・・・

 ただ、私の妄想だとアサメトノ[女盛]殿って文字から・・・花園神社・・・アサメトノが役割を終えてから、愛染堂へ、しかし神としては花園神社として八龍神へ相殿・・・しかし、かつての假殿ですから、格が違う・・・従って花園神社の方の名が残り・・・廃仏毀釈で元の場所へ復活・・・しかし、再び八龍神と共に六所神社へ相殿・・・なんとなく、行方不明の愛染明王は、西側の庭上神主の蔵にでも納まっているのではないかと・・・妄想は限りなく・・・しかし、今まで神様の系譜など学びませんでしたから行き当たりばったりで調べていて効率の悪い事・・・学校教育って物事を行う上での最低限の攻略のための知識というわけですかね・・・教科書は攻略本の仲間と言えますかね。さて、布留引神事はやはりよくわからない・・・しかし、草薙剣とかに関連がありそうな・・・知識を増やしてそのうち再攻略を・・・続きは・・・

若宮
神宮の御子天苗加命を祀っている。文永官符に若宮一宇一間葦葺金物あり、作料官米50石、萱田郷本役である。よって、地頭千葉介これを作り進す。


 若宮・・・位置が書かれていませんから、香取志の書かれた時代・・・天保年間には存在しなかったし、どこにあるか不明な雑舎という事になりますかね?それとも当たり前すぎて書かれていない?若宮神事は11月10日にありますが・・・祭神からすると、又見神社ですね。ここは若御児神社ともいうようですから・・・ここでいう若宮はどうやら又見神社のような感じです。

又見神社は末社記によれば、天苗加命で此の神は神宮の御子、武沼井命は鹿島の御子、天押雲命は天児屋命の御子、天稚彦、下照姫命この五神となっているようです。この五柱の神は始めは若宮にあったのだが、春日遷座以後に五柱の神がここに鎮座した。このため、又見と称す。この神社の地を又見とという。この地の人は雉を食べない。これは天稚彦を祭る故であると云うですから・・・この地の人は雉を食べないということからの類推と、現在の又見神社の祭神は天苗加命・武沼井命・天押雲命から、ここには天稚彦・下照姫命が祀られていた・・・そこへ春日遷座後・・・ここに春日社があったのか?それとも、春日大社に經津主が祀られた時以降か?天苗加命、武沼井命、天押雲命が移ってきた?天苗加命は香取神領を仕切る香取氏の祖先神ですから・・・隣には香取連三島命を祀る三島社がありますから・・・この地は三島命の墓所なのかもしれません・・・なんとなく、私の妄想では、天苗加命は始めは王子神社の方に祀られえていたのでは?この王子神社の周りには古墳がずいぶんとあったようですから・・・そこから、又見へ移転したのかと・・・あと気になるのは、又見社の近くの若宮八剣神社は?となるわけです。右の写真の神社ですが・・・これ以上は情報が無いので妄想することは困難です。・・・まさか若宮八剣神社って・・・春日若宮・八剣神社かね?・・・さて?わからない??この社殿は現在のものより大きかったのかね?ちょっと気になります。

 少なくとも、元禄の造替の際には・・・元禄の造替の香取神宮の山にある摂末社は・・・15か所が修復され・・鹿嶋社・側高社・匝瑳殿・六社相殿・弧座山・奥之宮・印宮の7社新造 日御子社・市神社・馬場殿・花園社・優波山社・佐山社・祓殿・天降 8社修覆・・・多分、若宮は対象外・・・又見社=若宮社と認識されたのか?又見祭は1月2日か・・・次は・・・

一夜山の神社
木花咲耶姫の命を祀っている。大山祇神の娘である。神代紀に皇孫に求婚され、一夜で子を孕んだのでこれを名前としている。


 木花咲耶姫の命を祀っているとなると櫻大刀自神社のことですかね?そうなると・・・勢至殿の事になりますかね・・・一夜山神社から始まって勢至殿、今は櫻大刀自神社となる・・・現在の本殿と桜馬場の間は深い杉林になっていますが・・・元禄の造替が終わってしばらくすると、ここにあった護摩堂とその屋敷を移転させたようです。そして、その跡に杉苗を植えたようですから・・・元禄の造替の時には、宮林は神宮の西に広がり・・・東側も斥候杉を始めとする少数の巨木があっただけのような感じです。多分、現在の櫻大刀自神社の裏手の土手あたりに少数の杉の巨木があって・・・享保16年9月17日護摩堂の前の土手の大杉2本、参籠所の屋根に掛る・・・なんって事になっていたようです。どうやら、大禰宜家日記に巨木が台風で毎年のように巨木が吹き倒されるのは・・・今よりかなり神域が明るかったのではないかと・・・このあたりで切って、次回としましょう。

2014.02.12

  

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