香取神宮をうろうろ(99)
 香取志 (33) 不開殿と室町以前の香取神宮・・・

 新し映画は良いものです。ただ・・・英語版がメインでね・・・それが困ったものです。まあ、映画というのは、台詞の半分も聞き取れれば・・・いや5分の1ぐらいでもそこそこ楽しめたりしますから・・・特に子供向けの物であればそこそこ聞き取れて・・・たとえ聞き取れなくても飽きさせないようにできていると思いますのでね。しかし・・・昔から英語版の映画を眺めていますがちっとも英語力がつかない・・・字幕を見ているというのが問題なのかもしれませんがね。

 その挙句の果てに・・・フルハイビジョンのプロジェクターを買い込んでしまいました。例の無駄遣い計画の一部として、追加予算を・・・だって、消費税が上がるし、円は弱くなるのですから、ここで現金を持っているより物にしてしまった方が豊かになれる気がして・・・多分、4月に色々な物の価格が改定されます。そして、円安の分を補正する新価格が打ち出されるでしょう。政府にとっては、それはインフレとして、経済の伸長と見るはずですから、この調子で行けば・・・消費税はさらに2%の上昇を見ることになるのではないかと思われます。庶民の生活が苦しくなればどうなる事になるか?非常に気になります。まあ、私のようなものは、自衛するのがやっとですから・・・さて、世界はブロック経済に移行しようとしていますし、我が国は軍備拡張に走ろうとしているようですし・・・行きつく先が気になりますね。とにかく、最悪を考えておけば、それほど驚かなくても良いわけですから・・・でも、歴史が教えるところによると経済で、庶民が怒ると凄い事になる事を示していますから・・・扇動政治家は庶民から生まれる・・・そして、失うものの少ないものは強いということでしょうか。

 さて、香取志 16コマ 不開殿から始めましょう。

不開殿
末社記によると、春日社が不開殿にあり。また仮殿なり。大禰宜家の記録には霊の形宝珠に坐す。八葉の鏡に坐す。正嘉2年12月圓勇当宮参詣記に鹿島は常陸、楫取は下総であるけれども両国の境を隔てて一双の神におわします。鹿島に替わるのは正殿の他不開殿坐すなり。跡たるる国の境の近ければ、通う心は何が隔てられようか。鹿島志に正殿は常に御戸を閉じ奉ればそういうのだと。そうであるので鹿島では正殿を不開殿と云う。香取神宮には正殿の他に不開殿が坐すこと圓勇が云っている通りである。文永の官符に、不開殿一宇三間葦葺金物あり、作料官米百漆拾斛小見郷本役也、よって地頭彌四郎胤直造り進す。


 不開殿・・・ルビにはアケズトノとあります。開けないのか・・・春日社ってのが時々出てきますが、この春日社も見当たらないのが気にかかります。又見神社のところで、元は又見神社の所に春日社があって、これが移転して若宮社の所から又見神社が移ったとか・・・春日社というのは・・・春日神を祀っているのかね?春日神と言うと・・・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神をまとめて言うようですが・・・香取神宮の正殿に祀られている神は・・・主祭神の経津主大神で相殿神は武甕槌命・天児屋根命と比売神ですから・・・本殿と祭神がダブりますね・・・春日社って置けるのか?ちょっと気になります。神は同時に沢山の場所に居られるのでしょうから問題は無いとは思いますが・・・何しろ、本殿にも武甕槌命を祀り、すぐ脇の鹿島新宮にも武甕槌命を祀っているようですから・・・ふと・・・

 まさか・・・再び妄想・・・鹿島香取・・・元は香島・香取であったようです。香島は鹿島へ名称変更、このあたりで香取神宮の本殿から武甕槌命は、鹿島新宮へ移転したのでは?そして、再び本殿に武甕槌命を迎えるにあたって・・・春日神を春日社として持ってきて・・・そこから新たに武甕槌命を本殿に迎えたのでは?そんな風に考えてしまいます。何かの本で、鹿島新宮に武甕槌命を出したような話を見たのでね。春日社はいつ頃まで香取神宮界隈に存在したのか?気になります。しかし、不開殿・・・ここで仮殿なりだって・・・仮殿は基本的にアサメトノでは?匝瑳殿の位置が変わっていなければ、不開殿はこの近くにある事になって、本殿の西側・・・確かに、現在の社殿は神饌殿に直通の通路が確保できるようになっていますね。ですから・・・多分、現在は神饌殿を仮殿とするようになっているのかと・・・昭和初期の改修では、神饌殿の位置に假御本殿が置かれています。どうやら、この改修の際の假御本殿は、現在の神饌殿とは違う建物であるかのような平面図になっています。近代デジタルライブラリー - 香取神宮志

 この改修はずいぶんと広い範囲に渡っての改修だったようです。・・・多分・・・詳細は私には分からないのです。史料を買い込むお金は無いし、史料のある場所へ出向くのが困難なのでね。一応、チェックすると境内摂末社は本殿の裏手の現在は通行できない道の両側に配置されています。三本杉から桜馬場への道は現在は閉鎖されています。一つ気になるのが、本殿の改修がいつ行われたのか?これですね。本殿の背面庇の柱は他の柱に比べて細い事が、香取神宮本殿の特徴であるかの話がありますが、現在は、外から見る分には、本殿の背面庇の柱は同じ太さになっているようです・・・目測だから当てになりませんけどね。

 この図では匝瑳殿は本殿に一番近い左側にあるようです。向かい合っているのは鹿島新宮のようです。このように、境内摂末社が集められた時期は・・・

 明治時代の改修では、匝瑳殿も鹿島新宮も、現在と同じような位置にありますね。左の図では匝瑳殿は、明らかに本殿にショートカットする戸の正面付近にあります。この位置は拝殿が巨大化する昭和初期の大改修でも位置はほとんど変わっていないでしょうから・・・本殿の位置が変更になっていなければ匝瑳殿は北へ移動した事になりますかね。そして、匝瑳殿の右隣の花園神社は六所神社へ合祀され、上の図には既に無くなっていますね。

 現在のような摂末社の配置になったのはいつの事なのか?昭和末の改修かね?このあたりが良くわからないですね。

 香取神宮は改修を経るごとに、荘厳さを増して行きますね。この間、改修が終わり新しくなった社殿の素晴らしい事・・・日本文化の精華ですね・・・時代を越えて生き続ける信仰・・・

 神社も庶民もちゃんと時代を越えて存在し続けますね。変わるのは政体ですかね。政体とか政権とかなどは単なる看板ですから、変わっても大したことは無い・・・ただ、江戸から明治で香取神宮の財務内容はかなり変動しますが・・・廃仏毀釈の嵐とは何だったのか?気になります。神仏分離を行う意義とは何だったのか?ドンナ政体でもかまいませんが、あまり庶民の生活をいじるような事は止めてもらいたい気がするというだけですね。私にとって好ましい政体は何だろう?・・・

 政体なんって、私は特に気にしませんが、自由主義社会での平和が好ましく思えますね。庶民の生活というのは基本的に政体とは無関係に行われますが・・・個人の尊重とか尊敬という面では・・・独裁制などは好ましくないような気がするわけです。理由は単純で・・・たとえばナチ政権下・・・ナチである事が尊敬の第一条件、ナチでなければ尊敬に値しない人間・・・ナチだから尊敬しなければならない・・・これが嫌なだけなんです。尊敬に値する人間ってどこにでもいますからね。人間って何かに取り柄があって、それなりに尊敬される部分があるはずなんです・・・ナチ政権下だと・・・ユダヤ人であることで、尊敬に値しない人間となるわけですから・・・反体制派がいるから社会が活性化する・・・学問分野も同じだと思うわけです。まあ、歴史は解釈が間違っていても大問題には普通はならないと思うのですが・・・政体によっては、過去を面子の一部として過大に捉えることもあるようですが、過去を変えることはできませんから・・・しかし、変えられない過去を眺めて何が見えるか?気になるところです・・・多分、見える物は人間の恣意的な何かですかね?

 日本経済はどうなるのかね?産業の基本を考えれば、何の建て直しが必要なのか分かるはずなのに、なぜかそれが後回しになっている・・・人間なら飯を食わないと駄目、産業は?ベースになる製造業は何で動くか・・・単純なことなのに、済崩しでなんとなくしかできない政府では駄目なのかもしれないね。

 さて、冠注の文からすると不開殿は本殿に向かって建っていて、その途中に匝瑳殿があるという事ですかね?そうなると・・・どうなるんだろう?渡り廊下のような匝瑳殿・・・庇が長く伸びている?いずれにせよ、この事が正しいのであれば、匝瑳殿の位置は今のものとは違うという事になりますかね?ふと・・・渡り廊下のような・・・そうなると浜縁がつながるような感じなのかね?そうであれば・・・側高神社の本殿のような庇の構造で、浜縁が繋がっているとか?ちょっと、イメージが纏まらないですから、どういった構造なのか推測することすら難しいですね。ただ、冠注の記載がいつの時代のものなのか?それも問題です。末社記は・・・末社伝記と知られる本のようですが、失われた本のようです。元禄の造替以前であれば、現在の社殿配置と異なり、本殿の位置は神札授与所のあたりで南東を向いて建っていたと妄想していますから、鹿島新宮の位置は多分・・・宝庫のあたりではないかと、そうなると、桜馬場への道を塞ぐように匝瑳殿が建っていたとか?

 右の図が江戸時代に写された元禄の造替以前の様子なのでしょう。慶長年間の造替はその前の姿の踏襲のようですから・・・社殿と御神木の位置関係は大戸神社と同じパターンですから、大戸神社は古い香取神宮の様子の写しであると妄想しているわけです。これより古い姿だと、本殿正面の扉が左の図のように2つになります。私の妄想だとそれぞれの扉は経津主命・武甕槌命を示しているのではと思うわけです。相殿神の配置は一般的には右の図のようになるようですから右が経津主命で左が武甕槌命で、なんとなく左が開かずの扉で不開殿の元になった扉ではないかと思うわけです。この現在のような大きな拝殿を有しない社殿構成で祭祀が行われる事を考えなければならないわけですかね?

 ここの記述からすると、鹿島新宮と本殿の間に匝瑳殿が入り、匝瑳殿があたかも渡り廊下のような役割をしている・・・しかし、鹿島新宮も匝瑳殿も一間社ですから、それほど大きな規模とは思えないし・・・それでも渡り廊下のような役割をしているとは如何に?一間社で通路のような社なんってちょっと思いつきませんが・・・古い絵図を検討してみますかね・・・しかし、どうなってるんだ?旧本殿まわりの様子をチェックするか・・・

 古い絵図となると、香取神宮神幸祭絵巻として知られているもので、古いのは室町期の写と思われるものですね。これとほぼ同じ構図のものが数種類あり、それより後代のものと思われるのが1つあるようです。社殿配置は、上の右の御神木を正面に持つ図からおよその位置関係を知ることができますね。正面に御神木、背後には三本杉を背負っているのではないかと思われます。そして、本殿は南東方向に向いていて・・・大昔は扉が2つ、その後1か所になって・・・正面には御神井道があると思われます。その様子を現在の地図に乗せると右のようになると思われます。そして、これより少し時代が下ると、参籠所は中門と楼門の間に移転しているようです。ん?楼門はずいぶんと昔からあったのですが、楼門の位置付けって何なんだろう?

 とにかく・・・どうやら、神殿は南東に向かって建てられ、人間様の詰める参籠所は南向きに建てられているために、絵図ではちょっと落ち着かないねじれた感じな並びになっているという事のようです。そして、なぜか御神木は描かれる事が少ないような感じです。この絵図が描かれた時代には樹木を描く事は好まれなかったのか?

 樹木などは、位置関係を知る上では非常に重要なんですが・・・

 一応、この社殿配置に関しては、元禄の造替の際の大禰宜家日記でチェックしていますからOKなのだと思います。そうなるとあとは鹿島新宮と匝瑳殿なんでしょうが・・・分かっているのは、どちらも一間社で、本殿・匝瑳殿・鹿島新宮の順に並んでいる・・・他には何があるのかね?やはり造営注文でもチェックしないとわからないかな?

造宮所役注文写によれば
正神殿/於岐栖社・一の鳥居/勢至殿・不開殿/佐土殿・アサメ殿/東廊・中殿/北庁・膽男社/三の鳥居・祭殿/火王子社・忍男社/内院中門・西廊/若宮社・酒殿/渡殿・外院中門/東脇門・西脇門/宝殿/二の鳥居/楼門/大炊殿/薦殿/脇鷹社/鹿島新宮/八龍神社(6宇)/玉垣31丈6尺・・・etcだね。

 ん・・・わからん建物がずいぶんとある・・・於岐栖社は息栖社でしょうが現在はありません。勢至殿は本殿の北東にあった?不開殿は不明、佐土殿は匝瑳神社らしい、アサメ殿は勝手に愛染堂に化けたと信じていますし・・・東廊・西廊は本殿のまわりの囲いですかね?そして、東西の脇門がある・・・中殿って?北庁は参籠所でしょうし、祭殿は御供所ではないかと外院中門が正神殿前の中門・・・渡殿は本殿と中門を繋ぐのか?外院中門とは何?薦殿って・・・薦を調製するのか?薦・・・推薦試験ってフレーズが頭に浮かんだが・・・推薦って何故「薦」なんだ?薦かぶり・・・樽酒が呑みたい・・・薦って、素敵なものですよ!って包装紙のような役割をしていたのか?そうなると・・・幣殿のような役割をするものかね?不開殿と鹿島新宮があるから、この2つは別のもの・・・31丈の玉垣・・・100mぐらいの長さか・・・30mの3辺か、25m弱の4辺かね?明治時代の社殿の写真を見ると、右上の写真で囲まれた祭祀のための空間が作られていますから、絵図などには現れていませんが、このようなものが存在し続けたのか?この囲いが外院で、この空間の出入口に外院中門が存在したのか?なんって妄想してしまいます。

 上の写真の拝殿と社務所を繋ぐ渡り廊下は、元禄の造替の際に予定外の工作物として作られた物と思われますね。この部分に屋根が無いと困るとか交渉して作ったものなのでしょう。ただ、遷宮の際には遷宮先までの仮設の屋根付きの通路に幕をめぐらせて行うので仮設の物を常設化したものとも考えられますね。事によると、本殿と仮殿であるアサメ殿との間には渡殿があったのかもしれません。

妄想を図にしてみると、左のようになりそうな感じです。元禄の造替で本殿の位置を下げていますし、当時、現在の本殿の位置には窪みがあったり木がずいぶんと生えていた事になっていますから、この位置は純粋に森林になっていたのでしょう。アサメトノは愛染明王が置かれて愛染堂となっていたのではないかと・・・本殿に奉仕する建物群は東側に存在していて、メインの参道は御神井道であるとして勢至殿は桜馬場への入口あたりにあったようですから・・・

 北庁は参籠所と妄想し、祭殿は御供所、酒殿・大炊殿の位置は不明ですが祭殿の近くに置き、渡殿に匝瑳殿と鹿島新宮がつながり、宝殿が近くにあればOK・・・アサメトノは楼門の正面に存在した・・・楼門には古くは仁王様が置かれていたようですから・・・

 なんとなく、神仏習合で愛染堂を中心とする仏教の空間と香取神宮の形式的な分離が行われていたのではないかと・・・まあ、こんな感じなのかと・・・ふむ・・・再び妄想・・・

 新たな妄想は、御神木の前の庭上祭祀の空間がメインなのかと?鹿島神宮も庭上に座っての祭祀ですから・・・本殿が存在しなかった時代の祭祀の気配を感じますね。しかし・・・千数百年前だと御神木も小さな杉の木ですかね?アサメトノ=愛染堂で、神仏分離で愛染堂は花園神社に変わって・・・六所神社へ・・・替わって昭和初期の造替で仮殿、現在は神饌殿なのかね?一応は伝統を引き継いでいるような雰囲気です。神饌殿は仮殿としても使われてきましたから・・・佐土殿・アサメ殿のセットというのも気になりますね。ああ、不開殿・鹿島新宮については結局不明ですね。まさか、不開殿=春日社とか?本殿があるから同じ祭神は・・・よって、不開殿・・・やはり、武甕槌が本殿から鹿島新宮へ出されて、新たに本殿に武甕槌を、春日神経由で再導入するために春日社を不開殿として置き、そこから武甕槌を本殿へ・・・不開殿=鹿島新宮として昇華・・・そして、2つの社殿を持つことになった武甕槌に渡殿が必要になって・・・やがて、造替が不完全になるにつれて渡殿とか補助的なものは隠滅、名前と仮設の通路で伝統は維持されていく・・・可能性としては、これが美しいかな?どうやら仮殿と匝瑳殿は対になっているのかね。

2014.02.04

  

関係ないが、興味深いもの


参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
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