香取神宮をうろうろ(66)
 茂呂の探索 (6)

 さあ、東山道をうろうろしてたらずいぶんと長くなってしまいました。一応、香取新誌の続きなんで、香取神宮をうろうろなんですが・・・でも、結城のあたりで茂呂と香取神宮のつながりがあるような気がして・・・鳥取とか名前をもらった豪族連中とか・・・まあ、更級日記の冒頭の部分もすっきりしたし・・・すっきりしたので、私の所の秘蔵のエメラルド・・・2カラットを越える色も悪くないが・・・内包物沢山・・・カット悪し・・・疲れたとき眺めている石です。目が休まるという話ですが・・・こいつは銀のちょっと重厚なペンダントをデザインしようと思って買い込んだものですが・・・未だ日の目を見ずに高級おはじき状態・・・まあ、2カラットのこのクラスのものは5万円程度のペンダントがありますからね・・・しかし、エメラルドは不思議な石で大きな石では内包物があれば天然石、ないと人工石かと疑われるものですね。これはちょっと色むらがありますがかなり濃い色なので好きな石です。インクルージョンが目立たないほど少なければ100万円を下らない石なんでしょうが・・・残念ながら・・・でも、こういった石と人工石を眺めた時に、やはりグチャグチャの天然石が愛おしくて・・・エメラルドも透明で形の整った合成石が欲しいのですが、合成石が結構割高で・・・

 さて、東山道の系統の茂呂はなんとなく妄想的な理解は終了・・・でも・・・ふと、鹿沼からの国道293号線が気になったんです。それは・・・鹿沼駅から田野町へ山塊をいやいや迂回しているように見える道なんです。これって、まるで山塊を直線で横切るつもりみたいな道のつけ方なんです・・・地図を眺め航空写真を眺め・・・唸るわけです。律令時代の官人が駅の設置を考えたのは多分机上ですが、それを決めるための里程を歩測のために歩きまわった大勢の人が居たに違いないんです。そういった歩測を元にして道筋が決められたのだと・・・多分、この基礎データの蓄積は3世紀から4世紀にかけて行われたのではないかと思います。そして、近江令・・・天智9年;670年の条にある朝庭の礼儀と行路の相避ることを宣う・・・ってやつに繋がるのでは・・・さて、この時代には山歩き連中の集大成が歴史上に存在します。それは、伝説では舒明天皇6年;634年から大宝元;701年に生きた役小角ですね。つまり修験道というのは、地図製造業者ではないかと思われるわけです。この人間一人では全国を歩き回りデータを取ることは不可能でしょう。地誌の作成、統一された計測法によるデータの集積というやつを行うのは・・・というわけで、役の行者の一団は・・・日本中を歩き回っていたわけです。役小角は伝説によれば元興寺で修業し、葛城山を始めとして、熊野や金峯山で修業をし・・・空中を飛び日本各地へ・・・日本は旧石器時代の昔から歩きまわられ交易が行われていたようですが、多分・・・役行者の頃には地誌が成文化されていたのではないかと・・・そして、駅の設置による全国支配が見えた時点で、役行者のような地図製造業者は存在意義を失った・・・式を飛ばして国情を国司に命じて調査させればよくなった・・・出先機関の整備で不要になり・・・宗教界に鞍替えしたのではないかと、その象徴的な出来事としての役小角の話が残ったのではないかと思われます。

 役小角は・・・三輪氏に属するとか・・・加茂氏系で、加茂役君とか賀茂役君とか呼ばれているようです。地図製造業者の修業ってどんなものなのやら?先人の書いた地誌を読まされて、ちょっと行って来い・・・上手くいかなかったら、どこの記述がおかしいのかもっと明確にして来いとかかね・・・初めての道を、地誌だけで踏破できる様に人間と地誌を練ることを繰り返して、最短コースを考究させたのかね?・・・お前さん見ない顔だが、このあたりに随分詳しいね・・・何、ここに来たのは初めてだって?なんでそんなことまで知ってるんだ・・・いや、色々と式を打って聞いたんだ・・・式って何だ?・・・紙に書式の通りに書いて飛ばすと、鬼神のような働きで、いろいろなことがわかるんだ・・・お前さん、式を飛ばせるのか・・・ああ、こんな風に書いてやるんだ・・・そうするとこんな書類が来るんだよ・・・(見本を見せる)・・・え、もう来たのかい?凄いね・・・その紙に何が書いてあるんだ?・・・この先の駅長の家の娘が・・・へぇ〜そんなこともわかるのか、式って凄いね・・・文字を知らず伝聞での生活と書類による知識の集積の生活との差ですね。

 修験道で気になるのは・・・法螺ですねあれってどういった扱いなのやら?養老令の軍防令では、個人で所有を禁じられているものがあります。鼓鉦、弩、矛、戦闘用馬具などの兵器関連の物品、そして大角、少角、及び、軍幡が禁じられています。音の出る系のものは楽鼓は許されている・・・軍団には鼓を2面、角笛の大角を2口、管笛の少角を4口を備えています。法螺も禁止の対象になりそうな・・・法具として・・・僧侶でないものが法具というのも・・・何かの公的なルールがありそうな?法螺ねえ・・・法螺貝は山谷の地中に棲み、精気を得て山を出て海に入る・・・山から出る時に山を崩し洪水が引き起こされる・・・大角=はらのふえ、小角=くだ・・・

 もうひとつ・・・回峰行こいつもなんとなくね・・・山を歩きまわる行ですね。こういったものも案外、役行者集団の地図作製業者の基礎的な訓練の残滓かもね・・・1日に100km近くの移動を可能とする技・・・定刻で移動する技・・・律令の駅を利用すると最速で1日150kmの移動を可能にするわけですから・・・これってかなり高速・・・

 役小角は三輪氏か・・・大三輪神=大物主神の系統の一族・・・茂呂も三輪氏かね?というより・・・・茂呂は三輪の関東総代理店かね?案外一本歯の下駄をはいて歩きまわっていた一団かね?そうなると、大杉神社もその系統か?でも、時代的に大杉神社はもうちょっと後代だと思うが・・・このあたりは不明・・・妄想ネタには良いかもしれない・・・

 そう・・・そして、三輪・・・賀茂系の神様って言うと・・・大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子のアヂスキタカヒコネ阿遅志貴高日子根神・・・迦毛大御神か・・・・古事記は案外歴史的な事実を語っているのか?迦毛大御神・・・賀茂・茂呂・・・これを繋ぐものは?・・・三鴨神社とか・・・でも、この神社の創建は・・・享保3年;1718年とか・・・事代主命が主祭神・・・相殿は健御名方命・香々背男命・稲倉魂命・武甕槌命・櫛御氣命・天太玉命・火産霊命・伊邪那美命・白山姫命・若狭姫命・・・高鴨神社の系列ではないのか・・・残念・・・賀茂氏ね・・・近代デジタルライブラリー - 群書類従. 第四輯 168コマ 加茂氏系図 加茂家は天文博士・文章博士・主計頭・暦博士・漏刻博士・陰陽博士などを輩出か・・・こりゃ特殊技能集団だね。これ系の書籍を所有している・・・

 茂呂が担当していたのは水運系のような感じ・・・すると、水系を考えて・・・といっても渡良瀬川の水系は古河から南に流れて江戸川を経て古東京湾で・・・古利根川は中川だっけ・・頭の中がグチャグチャ・・・東京湾の東岸航路を運用していたに違いないから・・・

 とにかく検討、実は東山道をうろついてしまう前に、少しだけ検討に入っていたんです。とにかく茂呂の探索の1回の続きの様なものから入ることになります。

 ・・・茂呂神社は清宮君の云うように三輪系なのかね?さて・・・葛飾郡の茂呂神社を検討するかね・・・・流山の茂呂神社は・・・残念ながら、現在の航空写真では、このあたりの様子は一面の住宅地で古代の面影は推測することすらできませんし・・・でも、近年の宅地開発以前の航空写真なら・・・左の写真のように、簡単かつ明瞭に識別できますね。県道5号線は、茂呂神社から県道278号線と交差し、現在の道のつき方気に入りませんが、南へ続く道があります。もう少し高解像度の写真なら、そのあたりが確認できるのですが、残念ながら貧乏な遊び研究ですから、こういったものには金を掛けられません。

 どうやら、茂呂神社の入り江が機能していた時代が、頃神社の近くに津が存在していたのでしょう。そして、三輪野山と茂呂神社はあまり関係ないような?清宮君は三輪山=三室山で、室=茂呂と言葉遊びをしたようですが、なんとなく位置関係からすると、強い結びつきは無いような?

 三輪山ね・・・三輪明神と呼ばれる大神神社の御神体で、大物主大神を祭神としていますね。まあ、ここが華やかになるのはやはり・・・神仏習合が大きな役割を担ったのだと思いますが・・・案外、出雲-長野-そして関東平野へと大物主系の人たちが入って、運輸通信網を築いていったのかもしれない・・・というわけで東山道の方へ迷い込んだわけです。

 とにかく、茂呂の入り江が津としての機能を失ったために、江戸川河畔の流山へ物流の中心が移り、神社だけが残されたということではないかと思われます。多分、後年の付会では・・・でも・・・三輪政権時代のものだとちょっと違ってきますが・・・妄想的歴史観としては、こちらの方が面白い・・・

 三輪政権をキーワードにして考えるのも良いのかもしれない・・・まあ、王朝交代ということではなく・・・単純に地祇・・・天津神・国津神の二分類で、国譲り前の日本、国譲り後の日本と分けるだけの話です。出雲-三輪などの大国主系の国津神が、天津神系に吸収合併されていくという・・・具体的には、出雲に生じた勢力が日本海、東山道、太平洋岸へ勢力を延ばしたあとで、九州から出てきた天津神系の神々の下に統一されるという感じですかね。国造連中がなんとなくで繋がっていただけで、集団としての強い勢力を持たないものが・・・中央集権的な再編成を受けた・・・多分、陸上交通路の支配によるもの・・・古事記などをチェックすると・・・ヒントが・・・

 茂呂をやってるんだった・・・そして、栗ヶ沢の茂呂神社は・・・多分右の写真の場所のようです・・・ちょっとこのあたりの地形の改変が大きくてはっきりしません。鉄道連隊の演習線・・・後の新京成線の線路があります。ここも大きな2つの谷津の間にありますが・・・どこも同じように見えるのが難点・・・この場所を押さえる意味はどこにあるのかが不明・・・真間川に接続するための場所として押さえたのかね?手賀沼につながる谷津も近くにあるし・・・

 こうなると・・・船橋の茂呂神社界隈もチェック・・・昭和17年の陸軍の航空写真がありますね。一応、地形は分かりますが・・・ずいぶんと埋め立てられたりしています。船橋競馬場となる場所や、谷津干潟として残されているものとか・・・津田沼駅の所の、鉄道連隊であるとか・・・後に新京成線になる路線とか・・・不自然な地形としては・・・ちょっと史料が不十分で判りませんが・・・多分、利根川の水を千葉県東葛飾郡湖北村(現我孫子市)から手賀沼に一旦落とし、その水を鎌ヶ谷村を経由して船橋・津田沼市町境で東京湾に落とす放水路である利根川放水路と思われるものが写っています。

 茂呂神社は半島状に突き出した所に小さな入江が入り込んでいますね。波風を避けるには良さそうな感じの場所です。海港としては良い立地条件だったのでしょう。

 右の写真が、千葉市緑区の茂呂です。中央の半島状・・・台地に茂呂はありますね。かつて小さな入江があった場所に、上行寺というお寺があるようです。このお寺に関しての情報がないので・・・

 緑区の茂呂は左の様な海岸線だったことに活躍していたのではないかと思われます。

 海岸線のいいかげんな復元も面白いものです。本当は、貝塚とかそういった遺構を基準に推測する必要があるんですが・・・そういったものもデータベース化されると非常に便利なんですが・・・統一されたフォーマットが必要なのはわかりますが・・・国土地理院のデータフォーマットを真面目に学ぶと、いろいろなことができることが分かっていますが・・・面倒でね・・・お遊び研究だから・・・

 修験道についても昔から興味はあるのですが・・・なかなか気合を入れて調べる機会がなかったもので・・・そうそう、養老令を眺めていて面白い事に気付きました。当時の医療制度ですが・・・呪い医師の卵の咒禁生は、咒禁で邪気を払う術を学ぶということで、就業期間は3年だと・・・大抵のものの修業年限は7年なんですが短いのです。そして医針生、按摩咒禁生は、専ら習業させ雑事に使役してはならないという規定がついている所から見ると・・・かなり軽い気が・・・当時でも呪いというのはそれほど医事に関しては重きを置いていなかったのか?ちょっと気になるわけです。

 さて、頭の中で香取新誌の記憶が薄れた所で 香取志 こいつを読んでいくことにしましょう。やっと、香取神宮に戻れるぞ!篤胤君の字は嫌いなんだ!・・・見たくない!はしがきはパスだね・・・
2013.10.12

関係ないが、興味深いもの
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近代デジタルライブラリー - 登山旅行案内 関東中心
近代デジタルライブラリー - 修験道 
 

参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
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