香取神宮をうろうろ(58)
 香取新誌 (18)

 バス旅行で横浜へ行きましたが、中華街もそれほど刺激的な街とは感じられなくなりつつありますね。確かに、中国的な要素は沢山あるのですが・・・まあ、ちょっと駄菓子を買い込んで、食材のお店を中心に覗いてきました。駄菓子と、焼酎と・・・風水の店で風水盤を・・・本当は古銭のレプリカを眺めていたんです。例の中華民国の鳥船の1円銀貨のレプリカを・・・袁世凱のはありましたが、鳥船の孫文の壱圓銀貨は見当たらなくて・・・残念・・・でも、札束を買い込んできました。

 瞑通銀行券です。これって、本物のお金?それとも偽札?真贋の区別のしようのないものの様な気がして・・・HELL BANK NOTEってね。香港に行ったときは、仏具店の様な店でセットものを買い込んだりしましたね。壱萬円と五千万円札です。近頃の極彩色の新型の紙幣もあったのですが、ちょっと買う気力にかけました。なんとなく、こういった土俗的な香りがする奴の方が好みに合うので・・・地府通用か・・・この世では使えないお金・・・焼くことであちらの世界に積み立てられるお金です。沖縄でも同じようなものを使っていますが・・・確か、一萬円札を模したようなやつですね。琉球瞑通銀行発行・・・紙銭というのもなかなか興味深いものです。・・・・一生懸命燃やして、あの世では、そんなの知らん!ってやられたら・・・詐欺か?


 さて、続けるとしましょう。近代デジタルライブラリー - 香取新誌 37コマ このあたりを読んでるのでした・・・印旛郡1座・・・からです。


印旛郡1座
麻賀多の神社 二村に分祀する。1つは公津台方村、1つは船形村にある。亦、荒魂祠、和魂祠であるに違いない。台方を栗山の社と称す。安房山の事であるに違いない。所謂、安房の太玉の命の影祀であるに違いない。または御子神であろう。沼に印旛と云うのも、インバはイミベであって、忌部の訛りに違いない。忌部氏の人が居住していたための地名と思われる。拾遺に、天富の命、は更に沃壌を求めるとは、良き麻だけではなく、田畑も含まれているに違いない。麻賀多は田を求めることであって、社号もまた因みがある事に違いない。地元の人はマカタと清音で言っている。船方をオキツというのは、蓋し槨つぎ宮であろうか。祠の傍らに石槨があることが、これを証している。抄の印旛の郷とは、この公津の事であるに違いない。公津は神津で、神崎村の事であると考えるべきである。
安房には下立松原神社がある。その地を牧田といった。牧田は即ち求田(マキタ)であって、因みある事に違いない。



 印旛郡の麻賀多神社、現在の御祭神はワカムスビノミコト稚産霊命だそうです。一応、台方にあるのが全部で18社ある麻賀多神社の総社であるとのこと・・・しかし、もともとは船形の麻賀多神社が・・・応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命がここに社殿を造営し、鏡を神体として稚日霊命を祀ったのですが・・・伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せて祀った・・・7つの珠は古墳の石室から拾い出したのですかね?宗吾霊堂の近くにある神社です。古語拾遺か・・・天太玉命の孫である天富命が阿波忌部を率いて、房総半島に上陸したとのことからですかね・・・印旛=忌部という事なんですが・・・あとは、安房国朝夷郡 下立松原神社・・・これは、清宮君は牧田を考えていますから、千倉の方の神社ですかね?白浜の方には牧田がないので・・・ただ、どちらも良い場所にあるので・・・航路を開いた時に、同時に置かれて、管理者も一緒だったとか?その場合、識別のために、何か違いがなければね・・・それで、白浜の方は一般に瀧口大明神として知られていた・・・そうなると、本店は千倉と考えるべきか?近代デジタルライブラリー - 阿波国に於ける忌部族調査史料. 第1輯 83コマ 安房郡関連がちょっと・・・それから天太玉命の説明があるね・・・房州は牛の生産が盛んだったような?将軍徳川吉宗は享保12年にインド産白牛雌雄3頭を輸入して嶺岡牧場で放牧して繁殖を試みるたようです。牛乳から白牛酪というものを作り薬用にしたらしい・・・近代デジタルライブラリー - 安房郡産牛案内興味深いね・・・鎖国下の江戸時代でも色々と輸入しているものだ・・・忌部氏は麻以外に何を持ちこんだのか気になりますね。

 右の図の黄色が船形の麻賀多神社、赤色が台方の麻賀多神社の位置ですね。公津は赤丸の湾の奥だろうと思います。その先にはニュータウンが広がっています。このあたりは印旛郡八代郷のようです。近代デジタルライブラリー - 千葉県印旛郡誌.  巻1 巻2 126コマ

 まだ、荒海にこだわっていますが、右の図であれば、成田市荒海の対岸の津は多分、新利根町辺りではないかと思います。ここと神崎の間の海域が荒海だと思うのですが・・・潮流の様子はどうなるのか?海底がわからないと駄目か・・・模型を作って潮汐を・・・とかは・・・お金も気力もないし、コンピュータ上で・・・は技術がない・・・まあ、波崎のあたりの砂洲がどんな具合かによっても、このあたりの潮流には大きな影響が出そうで・・・少なくとも、奈良時代には、この図の右端の方では潮汐による流れが顕著であったようですから・・・

 細かなところは再現できないにせよ、ビジュアル化すると、なんとなく、それらしく見えるのが良いですね。成田の荒海が律令の駅の場所であるなら・・・確かに艦隊を置くのにふさわしい場所の様な気がしますが・・・どんな勢力?荒海近くの神社は須賀神社か・・・そのうち見に行って来なければ・・・荒海・磯辺・西大須賀・滑川・・・このあたり、ちょっと気になる場所なんで・・・まさか、磯辺は・・・ただ、香取神領拡張型の思考なら、ここまで拡張しても良さそうな気がしますけど・・・近代デジタルライブラリー - 千葉県印旛郡誌.  巻1 巻2 127コマ う・・・荒海などを含む磯辺郷が香取郡から編入とか・・・公津の勢力が大きくなったのかね?海夫注文に神崎以西の地がないから・・・この荒海を含む長沼の入り江は香取神宮の支配下から早くに離れていたというか、香取神宮の支配の及ばない場所だったのか?

 公津か・・・麻賀多神社の北に広がる半島は・・・竜角寺周辺の古墳群を造った連中の支配下になるが・・・これより前に栄えたのが公津あたりに古墳を作った連中ですかね。竜角寺周辺は、古墳時代から続き、竜角寺の建立によって古墳を捨てた場所みたいな感じですからね。印旛の中心勢力が、公津-竜角寺の半島にあった?東の長沼の入り江と西の印旛の入り江を支配・・・荒海を含む磯辺郷を香取郡から印旛郡へ編入・・・近代デジタルライブラリー - 新撰佐倉風土記 11コマ にこのあたりの地図がありますね。左の図です。上の図の中央部分を切り出しています。なんとなく、街道で繋がる集落が見えてくるような気がしますね。海夫注文以外に、香取神宮と周辺諸郷の関係が見えるものって・・・造営諸役注文事か・・・まあ、そのうち・・・そういえば、佐倉って鹿島氏が押さえていましたっけ・・・香取神宮包囲網が鹿島三支配-千葉氏ラインで構築されたとか?なんとなく、清宮君が感情的なんで・・・竜角寺については近代デジタルライブラリー - 新撰佐倉風土記 42コマにありますね。おっと、もっと良いのが・・・近代デジタルライブラリー - 下総国竜角寺の新研究 印旛郡というと、私の関心はもうひとつあって・・・金売り吉次ですね。平安時代末期の奥州栗原郡金成郷の大商人・・・砂金の大元締め・・・この人物の墓が印旛郡にあるとのこと・・・まあ、この人の墓はあちこちにあるので、真偽のほどは不明ですね。あとは、印旛の辺りは国造本紀に書かれていないから、経営規模のきわめて小さな開発領主が疎らに存在していただけとか?国造本紀の信頼性は疑問ですが、伝承の一種ですから・・・それなりに扱えば良いかね。とにかく、竜角寺のあたりが古墳時代末期ですから常総の中海へ進出する時期は遅かったのかね?それとも、2つの海上郡をつなぐ地域だから・・・成田が問題かね?成田は水運が発達し・・・成田というとどうも内陸のイメージがあって、水運は・・・?

 成田の認識が間違ってた・・・成田山新勝寺は右の図では黄色の丸、赤丸が公津、そしてオレンジの丸が竜角寺・・・縄文海進の頃は右のような感じで・・・公津の入り江が埋まっても、新勝寺の辺りはほとんど変化なし・・・そうなれば、公津は放棄され、竜角寺の方へ津は移動という事ですかね?成田イオンの辺りが陸地になったのはいつごろなんだろう?私の頭の中の地図がかなり違っていることが判明・・・成田ニュータウンは車であまり走ったことがないのです。なぜか迷うのでね・・・

 成田のイオンはちょくちょく行くのに、佐倉だって・・・なぜ?佐倉に出るのと成田へ行く道が大きく異なるからか?国道464号線を使うことがないからか・・・でも宗吾霊堂へ行くこともあるけど・・・頭の中で成田と佐倉が非常に離れている・・・分かった・・・境田から瀬戸の464号線が頭の中に存在しないことが判明・・・木下の竹袋から入るときの464号線と将藍川沿いの356号線小林から入った時の464号線が完全に別のものと認識していたようです。・・・464号線なんって名称を気にしていなかっただけかも?そして、成田イオンへは安食成田バイパスだからか・・・成田・酒々井・佐倉がバラバラ・・・51号線で鹿嶋方面から成田より先にはほとんど行かないから、成田・酒々井・佐倉の3つが繋がらない事になった分けか・・・どうやら私の車での移動は・・・相馬郡郡衙正倉を出発点とした古代からの街道を走りまわっていたのかも知れない・・・木下からも色々と直線に近い街道が伸びているし・・・房総半島南東部のどこへ出かけても迷わず帰れるのは・・・北東に走れば利根川か国道16号線にぶつかるから、それで帰ればOKという事のようです。

 あ・・・・荒海駅は神崎ではない・・・異常に長い単調なコースを思い出しました。成田の南から国道409号線を南下したときの事を東金街道に入らず、やや強引に南下、128号線に沿った旧道?で茂原へ途中で128号線に合流、茂原の役所の先を直進・・・国道297号線で、途中県道82号線に入って、途中南へ折れて鵜原に到着というのを・・・この道って事実上鵜原から、稲敷まで、ただ南北に延びる最短ルートでは?そうなると、成田の荒海が荒海駅である可能性が高い・・・・が・・・なんとなく納得できない・・・日本後紀に「廃下総国印旛郡鳥取駅。埴生郡山方駅。香取郡眞敷。荒海等駅、以不要也」だよな。

 ん?稲敷の安房だね・・・さっきの南北に延びる道は・・・神崎経由なら・・・大杉神社の所まで・・・鵜原に大杉神社がある・・・でも、600年ほど前の建立か・・・とにかく安房から安房へ南北に伸びる道・・・なんとなく妄想ネタになりそうな・・・そう、房総半島には対になったものがあるような?海上郡が上と下、埴生郡も上と下・・・両地点を結ぶ交通路を押さえているとか?

 ちょっと駅に関する基本知識の確認をしておかなければ・・・養老令も原本は無し、ただし令義解で復元可能だったね。自宅に文庫本があった気が・・・近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第12巻 ここに令義解がありますね。厩牧令が・・・ありますね近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第12巻 142コマ 

凡・・・で始まって・・・駅は30里だから16kmごとに置く。もし、道が険かったり、水や草がない場所であるなら、30里にこだわらず適宜に設置、馬具や蓑傘は馬の数に合わせて備えておく事。

凡・・・で始まって・・・駅には駅長を一人置く。駅戸のうちの家口で裕福で頑健なものをこれに選ぶ。一度置いたら、長く続けさせ、死ぬか、老いるか、病か、貧困で仕事に堪えなくなったら交代させる。交代の日には、備品が欠けているようであれば、前任者から徴収する事。辺境で、蕃賊の強奪に対抗できないのなら、この令は適用しない。

凡・・・で始まって・・・それぞれの道に駅馬を駅に置くが、大路には20疋、中路には10疋、小路には5疋である。使いが稀な場所では、国司の裁量で置く、すべてが充足している必要はない。馬は筋骨強健なものを選んで充てる。馬ごとに、各々の駅戸の中の戸に飼育させる。もし、馬を失くした場合は、直ぐに駅稲で買い替えよ。伝馬の定数は郡ごとに5で、どれも官の馬をを使え。もしなければ、その郡の官物で買い充てる事。働き手の沢山いる富裕な家を選んで飼育させ、送迎に供させよ。

凡・・・で始まって・・・水駅で馬を置かない所では駅ごとに閑繁を考えて、船4隻以下、2隻以上を置き、船に丁を配置せよ。駅長は陸路に准じて置く事。

 まあ、こんなところかな・・・駅で馬は必ず乗り換えろとか、馬がなかったら仕方ないからそのまま行けとか・・・結構細かな規定があります。

 駅長も終身雇用でも、半ば強制ではないですか・・・そして、金持ちは特権としてなのか?馬を飼うはめになる・・・ただ、この馬は調教のためなら、許可を得て5kmほどの範囲ならOKとか・・・私用に使えるという事かね?


 気になるのは水駅です。これと陸駅が併置される時は水駅の駅長と、陸駅の駅長が存在するのかということ・・・基本的には駅の財政基盤を示したもののような感じがしますから・・・それぞれは独立した駅であるような気がします。つまり、陸駅の末端が、水駅の始点であると・・・そして、伝馬の定数の話があるのが気になるのです・・・基本的には郡衙が中央政府の直轄する末端でしょう。ここに官馬5を定数とすることは、事実上、小路の末端が郡衙であるという事ですかね。ですから、郡衙から最寄りの駅まで16kmということになる・・・多分・・・いや、この馬は官馬で駅馬ではないから、乗り換えず往復の用に・・・なら、最寄りの駅まで8km以内になるのかね?成田市の荒海が水駅の荒海駅で陸駅の眞敷ということになると、香取郡の郡衙が神崎町の郡であるとすれば、確かに8km以内になる・・・

 馬の常歩は時速7km程度、速足で時速14km程度でしょう・・・駅間は馬で2時間、歩いて4時間程度かね?

 もうひとつ気になるのは・・・水運との兼ね合いですね。たとえば、潮来から石岡方面に伸びる直線に近い街道・・・開拓道路なんって言われますが、これって古代から使われ続けている街道ですね。内陸の台地の真ん中を通り抜ける県道50号線。潮来からは水運の便が石岡からあったはずです。航路を補完するのではなく、航路とは別に馬で駆け抜けるために路が作られているわけですが・・・このあたりが気になるわけです。一駅2時間の距離と定めれば、駅を数えれば到達時間がわかるとか・・・夜はどうしたのかね?

 駅との兼ね合いで気になるのが烽火ですね。どちらも通信システムですが、駅は30里、烽火は40里単位で設置されますから、駅と烽火は別のシステムです。近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第12巻 108コマ 軍防令 烽火 そして、応答がない場合、脚力で通信の確認に行かなければならない・・・40里って20kmあまり・・・烽火台の周囲2里で火や煙を出してはいけない・・・さあ、この条件で考えると、烽火台と烽火台の間は道がついていなければならない、官道の周りには集落や駅があって火を使うから煙も出る・・・この意味でも別のシステム。烽火のためだけに道をつけるのは不合理・・・烽火台が目視確認でき、烽火以外の火や煙が明確に見分けられるような場所って・・・海岸でしょうね。特に砂浜とか岬の先端部そこに、24時間体制で4人が輪番・・・郡衙間の通信システムか?それとも、国府間か・・・近くで火を使ってはいけないから、官舎と烽火台は1kmほど離れていて、烽火台と燃料置き場も50m近く離さなければならないし・・・ああ、注記にある・・・国司に報告という事は、国府間の連絡用ですね。すると、国府の近く1kmほどの所の見通しの良い場所に烽火台は存在する・・・海岸の締まった砂の上なら20kmを走って最短1時間かね?

 あとは、郡衙との兼ね合いで倉庫令が気になります。そして、鹿島郡の正倉はかつての入り江の上の台地にあるし、相馬郡の正倉も似たような雰囲気の場所にあります。近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第12巻 137コマ 倉庫令 設置基準がありますからね。正倉は郡衙の近くにあると思うのですが・・・倉庫令では150m程度は他の建物と正倉区画とは離すように指示があります。そして、高く乾いた場所に設置・・・荷物は水運でしょうから、津の近くにあるはずで・・・鹿島郡の正倉は・・・右の図の黄色の丸です。鹿島神宮は青の丸、鹿島城が赤丸、そして東宮司家が白丸・・・まあ、この海面の時には、鹿島城はまだなさそうですね。こんな感じの場所ですから、郡衙は津を保有していてもおかしくない、というより津が必須なのではないかと・・・

左の図が相馬郡の正倉があった場所です。現在は千葉県立湖北高校が建っていて、黄色の丸の左側の低地の部分はグランドとして埋められた部分でしたから、多分、ここにも手賀沼の水が入っていたと思われます。天然の良港に恵まれている場所って思えるわけです。

 こんなのを眺めていると、物流は水運・・・一定時間内に到達しなければならない指令用に街道と駅のシステム。そして、緊急時の非常警報に烽火のシステムとなるのでしょう。古代の郡衙は地域の倉庫・運送業者みたいな・・・物流ステーションって感じですね。広大な敷地に多数の倉庫が立ち並ぶ・・・中世にもこういった倉庫群ってあったのかね?さらに近世では?・・・気になります。

 なんとなく、倉庫群って言うと・・・江戸なら分かりますね。蔵屋敷があったり、河岸に倉庫群があったり・・・右のが伊勢屋河岸の米蔵ですね。明らかに、船から蔵へ運びこむというシステムです。

 こういった風景は、人力による搬送ではスタイルの変えようがないですから、古代に置いても同じような光景が・・・倉庫令からするともうちょっと長い距離を荷物を背負って歩かされた事になるでしょうが・・・

 多分、地方でもそれなりの倉庫群があったはずですが・・・古代や中世の水運の様子がわからない・・・何か史料はないのか?

 ふと・・・高台の倉庫群から水際の倉庫群へとの変遷は?東大寺の正倉院のような板倉や校倉から土蔵への変化なんでしょうが・・・漆喰を使った土蔵が現れるのはいつ?ああ、知らないことが沢山ある・・・租税が銭で支払えるようになると、農家の蔵に米は納まったままになるから・・・役所に徴税のための米蔵は必要なくなる。銭は為替で送金すれば良いから、銭蔵から銭は動かない・・・そこそこの準備額があれば、額面通りの銭が無くてもOK・・・今や、ネット上で金融商品の取引を行うから、数字が動くだけ・・・現金なんか見たこと無いという状態に近い・・・ネット通販でも、現金を使わないから・・・なんだか、考えれば考えるほど馬鹿になるような気がしてきた・・・しまった、香取新誌を読んでるんだった・・・次回は真面目に・・・

2013.09.24

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 匝瑳郡誌 たらたら読み始めました・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 印旛郡 印旛郡の史料も結構ありますね。
近代デジタルライブラリー - 阿波国に於ける忌部族調査史料. 第1輯 印旛については不明・・・
近代デジタルライブラリー - 工業原料用鉱物調査報告. 第13号 42コマ 浮石砂か・・・精米する時に使った砂は、この砂で精白率が飛躍的に上がり、後には使用禁止になったっけ?房州産とは知らなかった・・・ 
近代デジタルライブラリー - 新撰佐倉風土記 何で漢文で書くかね・・・
近代デジタルライブラリー - 日本伝説叢書. 下総の巻 興味深いものです。伝説にも一片の真実があるかも・・・
 
 

参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
近代デジタルライブラリー - 検索結果 明治神社誌料
 近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 千葉県 534コマ
 近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 茨城県 592コマ
近代デジタルライブラリー - 検索結果 日本地理志料 
国立国会図書館デジタル化資料 - 和名類聚抄 20巻 
大日本海志編纂資料 資料分類
近代デジタルライブラリー - 大日本神名辞書
茨城県遺跡リポジトリ
近代デジタルライブラリー - 仮名日本書紀. 上巻 204コマ 景行天皇


近いうちにやりたいもの
香取志 
古文書(冊子・一紙・巻子・絵図) 日本銀行貨幣博物館 これって面白そう・・・特に、社会関係史料が・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 徳川時代商業叢書
近代デジタルライブラリー - 検索結果 日本財政経済史料



  










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