香取神宮をうろうろ(57)
 香取新誌 (17)

 本当に進みが遅くなった・・・どうして香取郡周辺だけに限定してくれないのだろう?新たに読む本は、通読が必要になります。千葉郡も然り・・・しかも地震があって、眠りも妨げられ・・・ネットで確認しながら、貞観地震が気になり・・・無理に寝たんですが、結局は早起き・・・馬鹿みたい。無理に寝た理由は、ちょっと仲間と横浜にバス旅行はあったんでね。近頃、仕事をサボってバス旅行もするんです・・・バス旅行、興味深い旅行の形態・・・
 バス旅行では、売店への興味を増すために、クイズをしたりします・・・クイズで正解者に毛皮会社から賞品が出るとのことで・・・気合が・・・一応、私も先生の端くれ・・・頼られちゃうんです。結果は39人中の正解者の8名の内の3人分を獲得するという栄誉に輝き・・・面目を保ったわけです。
 皮革関係の知識は仲間に佃の出の由緒正しい靴屋の社長がいたので、歴史的な面でも色々と知ることができました。音信不通だな・・・どうも、日本では皮革関係の会社はファッションなどでもあまり表に出てこない感じがしますね。まあ、旧態然としたものが、未だに残っているのか?ちょっと気になりますね。日本には皮革加工の高い技術があるのですが、なかなか表に出てこない・・・そういえば、毛皮に反対する人間が近頃増えてきた気がします。私は肯定論者・・・ただ、観賞用として珍重するだけの虎の皮とかあまり好きじゃないですが、ムートンは良いですね。セーブルやチンチラなど手触りが素晴らしい・・・別に、毛皮反対論者って認めないわけではないですが、多くの毛皮反対論者が菜食主義者でないですから、あの人たちがどのようにそのあたりを心の中で調整しているのか不思議なだけですね。多分、右の写真の様なかわいい品も、あの人たちに取っては人間のおぞましさの象徴になってしまうのかと・・・でも、このミンク製の品は素敵ですね。珍しく、景品で喜んでしまいました。ミンクちゃんとか言ってたかな?
 私は鶏などは自分でつぶす事もあるので・・・人間は生態系の一部であって、他の生き物を殺さなければ生きていけない・・罪深い業をを背負っている事を知っています。自分の手で生き物を殺す・・・だからと言って残虐な人間ではないので・・・ゴキブリや蚊を叩き潰す時も一抹の感傷を持つ人間なんで・・・さやエンドウなどを収穫する時なども、そうですね。未熟で、種子になりさらに芽が出て成長する可能性を奪うわけですから、植物にだって命があります。若い芽を摘み取ってスプラウトとして食べることなども同じだと思うのですが・・・あまり深く考えると、物は食べられなくなりますね。自分の口の中で歯で切り裂かれ擂り潰される食品はすべて命を素材としているわけですから。どんなに綺麗事を並べても・・・ただ、私の歯で切り裂かれ擂り潰される、獣・魚・植物の命に敬意を持ち、無駄にしないことが重要でしょう。身に付ける物にしても然り・・・大事にしたい・・・

 さて、続けるとしましょう。近代デジタルライブラリー - 香取新誌 36コマ このあたりを読んでるのでした・・・老尾の神社・・・からです。


老尾の神社 生尾村にある。匝瑳明神と称するのがこれであるに違いない。生と老は訓が近い。社伝、香取文書共に、香取の御子のナエマスノミコト苗加命であるという。祠官も香取氏である事は、八日市場村福善寺燈識が証している。
松山村の社も、また老尾の分祠であろうか。松山には熊野権現の影祀であるけれど、権現とは云わないで、松山というのは、仔細ある事に違いない。且つ、この山中に老尾台という所があるという。これが気になる。いわゆる、荒魂・和魂なのであろうか。なおよく考える必要がある。


 老尾神社・・・匝瑳郡の神社ですね。現在は匝瑳市・・・どうも、近頃は郡が市になった所が多くなっているような?まあ、市というと、私のイメージは市場とか城壁で囲まれた都市というイメージがあって・・・地域を示す群と、地域の中の城壁で囲まれて特殊な場所としての市というのが矛盾しているような・・・そんな気がするのです。老尾・生尾の言葉の考証は良いのでは・・・多分、「おいお」という地名はあって、その中核となる場所の神社名でもあって、これを漢字表記にする際に老尾としたのでしょう。しかし、老は先行きがないので地域名の漢字表記には使いたくなくて・・・発展性のある生尾を地域名に使ったのでしょう。この神社の創建は、崇神天皇の御世とか・・・古いものです。あれ?近頃の祭神は阿佐比古命を主祭神とし、磐筒男命・磐筒女命・国常立命を配祀するとか?近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 579コマ どうも微妙に祭神が異なるね。そして、大同年間の勧進とか・・・そして、千葉氏の寄進で羽振りが良かった時は匝瑳の総社で匝瑳明神として知られていたが、明治時代になって、旧社号の老尾神社に戻したとか・・・なんだか、香取神宮の匝瑳殿のからみで祭神が定められたりもしているのか?ちょっと気になります。祠官が香取氏か・・・福善寺の燈識・・・なんだ?法燈識?住持とか寺主の事かね・・・が証するとは・・・過去帳かね?

 ふむ、匝瑳郡誌 近代デジタルライブラリー - 匝瑳郡誌 によれば、匝瑳郡は大郡?であったとのこと 香取郡栗源村の北方古の油田牧場のありし所より南は海を限り、東は古の椿海を限り日は栗山川沿岸の地を包含せり、然るに今や県下第一の小郡となれり・・・ だってさ。栗山川流域のかつての内海沿岸を支配していたという事のようです。

 松山村の社が老尾の分祀で・・・熊野権現?松山神社は、大同年間の創建でイザナミノミコト伊弉冊命が創建祭神で・・・近くの熊野権現は・・郷社熊野神社は東陽村大字宮川・・・これは横芝駅南東約1kmの所にある神社ですから、ちょっと位置が遠いかな・・・村社熊野神社が匝瑳村大字宮本にあります。多分、こちらの神社は元、三社権現とか若一王子社と呼ばれていたようです。かつては、十二郷の総鎮守とのこと・・・なんだかよくわからない?松山神社・・・続きは・・・その前に、匝瑳郡誌を眺めていたら、鬼の面が降ったという話を発見、近代デジタルライブラリー - 匝瑳郡誌 116コマ 鬼堂の大杉、どうやら、香取郡や匝瑳郡では、お面が降るようです。

 ちょっと、香取新誌を読みながら、別の作業もしてるんです。香取の海の範囲を探ろうと、数値地図と格闘中なんです。大昔の地形を再現するために、というか、単に現在の低地を水没させた画像を作り出すという作業なんですがね。右がその結果です。標高8mから砂浜、標高12mから上を緑にしてみたのです。黄色の丸が香取神宮の位置です。

 御神井に良い水が出るなら、そこに船着き場があってもおかしくないという事になりますね。これが、香取神宮が創設され、大型の高速船が作られたときの様子ではないかと・・・佐原の市街は水に没していますね。御船山が、杉で作られた大型船の材料供給の森ならば、香取神宮の左上の入り江の脇の砂浜に見える部分・・・香取の交差点を神宮に向かって右へ入った辺りに造船スペースを置きたい気がしますね。気になるのは、弓道場のあたりの小字が・・・御城山、そのとなりは いかつち なんです。その下が御手洗・・・標高データからすると、風土記で述べられた行方の方の人たちが遊んだ洲は潮来の日の出のあたりですかね。基盤地図情報ビューアー・コンバーターは面白いものです。1m単位で色分けしてどこが海水面になるか探ればよいわけですからね。

 なんとなく、イメージが湧いて来たというより、頭の中のイメージを確認したという感じでしょうかね。気になる海上・匝瑳郡の様子はどんな具合か?

 左の画像がそうですね。椿海のあたりは広大な海原になっています。東大社の辺りが香取海への地峡部になるようですね。そして、左下の深く入り込んだ入り江が、栗山川流域に相当します。

 縄文時代はこんな感じだったようですね。

 左の図の栗山川の入り江は、右の昭和20年代の写真の中央上の白く輝いて見える部分に相当するようですから、水田に変わった物の大差ないという事か?とにかく、コンピュータはなかなか良く働いてくれて、私の妄想の手助けになってくれますね。あとは、年代の分かっている貝塚などを利用して、妄想の精度を上げる作業をすればよいのですが・・・お遊び研究では、その気力に欠ける所が問題です。

 概略だけで良いのですから・・・ちなみに銚子の辺りはこんな感じですかね。微妙に現在の銚子市街の所に水道があるようにも見えますが・・・左上の地峡部の東大社の位置が重要であることが、雰囲気でつかめるような気がします。東大社の太平洋側の入り江が陸地になるにつれて、銚子の外川あたりから櫻井への陸上ルートが重要になって行くのが雰囲気としてつかめますね。

 そして、右のような状況になると、東大社の役割は低下することになるのでしょう。ただし、九十九里沿岸航行も困難になりますから、こんな状況になった時に、房総半島を廻る航路の終焉が訪れた事になるのではないかと思います。そして、椿海や栗山川の湖も淡水化することになるのでしょう。興味深いのは、利根川沿いの海岸線の様子があまり変化しません。だから、香取が常総の中海の中でそれなりの地位を持ち続けた事になると言えるのではないかと思うわけです。

 ちょっと、面白いのが、現実のデータをいじっているわけですから・・・それなりに本当らしく見えるようになるのが素敵ですね!あとは、このあたりの隆起のデータなどを放り込むためには、メッシュデータをどのように改竄すれば良いのか考えないといけないのかな?なんって・・・それより気になるのは、九十九里浜の砂の出所ですね。これはどこから出たのだろう?・・・隆起かね?さて、続きは・・・

 次が、印旛郡なんで神崎あたりを作成してみると左のような感じですね。黄色い丸が神崎神社のある神崎で、多分、西の方がこの狭くなった部分を荒海と言い、海の駅である神崎の岬が荒海駅だったのではないかと・・・この神崎の岬は小松の辺りで分離していたのが砂洲で繋がっているような感じです。赤丸が郡・・・多分、郡衙の所在地です。稲敷郷に向かう陸の駅である小松が眞敷と呼ばれていたのではないかと・・・妄想を・・・この時代、浮島は完全に浮いていますね。これでも、砂浜に見える場所の高度を4mにしていますから、椿海は上の図よりかなり狭まっています。ほぼ左半分が湿地になっている状態です。利根川の下流域は川底が海水面より低い位置になると言えるのかと・・・塩害の可能性が存在するわけですね。

 これは、便利・・・25000分の1の地図とにらめっこして、等高線をたどって考えるよりはるかに楽ちん!

 印旛郡誌を眺めはじめると、右のような地図が見つかりました。近代デジタルライブラリー - 千葉県印旛郡誌.  巻1 巻2 の冒頭のものです。荒海の所の沼は長沼となっています。多分、これが、荒海が海跡湖となった名残なのではないかと・・・上の図では左端に下の辺りになると思いますがね。明治時代でも、こういった大きな沼があちこちにあるようです。私のいいかげんな妄想では、鎌倉時代の終わりごろに、この常総の中海は淡水化が進み、それに伴って葦原が広がり、急速に陸地化したのでは?根拠は、鹿島半島の製塩が、北浦側から太平洋岸に分村を作って塩焼きを始めるのが、その頃のようですから・・・そして、江戸に入ると、排水路の整備で、水が抜かれ単なる葦原が新田へと変わる・・・江戸の人口の増加にともなる、幕府の政策によって堤防が作られ、干拓が急速に進む・・・町人が、開発目的で広大な沼沢地を開発・・・椿海の様なパターンで・・・明治時代に入ってもまだ、沼沢地は残っていたが、化学肥料と食糧増産の中で干拓事業が進み・・・現在の地形に落ち着くのが・・・昭和45年頃・・・あとは水田から宅地化の流れで・・・江戸時代の古い干拓地が宅地に・・・今回の地震で液状化・・・こんな流れではないかと・・・塩分濃度がどのくらいになると、葦原に変わるのか?また、私の知識に無いことが出てきたぞ・・・マングローブ研究をしている研究者って・・・葦原研究やってるかね?茨城大あたりでも誰か研究していたようだったが・・・汽水湖における葦原の研究でも誰かしていないか?・・・可能性は低いか・・・浜名湖でも眺めてきたいですね。ここなら塩分濃度が2〜3%程度、川が流れ込む場所をながめて、水をなめてくれば見当がつきますから・・・しかし、浜名湖まで遊びに行く資金が・・・貧乏なのでね。困ったものです。まあ、航空写真からある程度読みとれるし、文献資料もありますから・・・1498年の津波と1499年の暴風雨の結果、かなり塩分濃度の低かった状態から、現在の汽水湖へと変貌したとか・・・知ることができますね。

 歴史屋さんって用語について不思議な事をすると・・・浜名湖は遠津淡海と呼ばれた、だから琵琶湖より遠い所にある淡水湖・・・、淡水門は浦賀水道とか館山湾とか言いますね・・・淡水というものを重要視していないのかね?まあ、常総の中海もそれほど塩分濃度は低いとは思いませんが・・・外洋に比べれば・・・まあ、ご都合主義なんでしょう・・・私もそうですがね。

 気になり始めると・・・また、余計な事を考え始めます。・・・汽水域で葦原が形成されるのは塩分濃度がどれくらいの所までなのかが気になります。・・・塩分濃度の測定・・・手持ちの比重計は・・・何本かありますね・・・人工海水用が1本、ビール用が1本・・・ビール用なら1000〜1060まで測れるからOKかな?何を考えているやら・・・しかし、古東京湾の広がりが気になりますね。何しろ、上総が常陸の先にあたるという表現がね。こうなると、データを作ってみたくなります。・・・山陰の汽水湖でも調べるか・・・なんとなく・・・資料がありそうな気がします・・・ああ、葦原は塩分濃度1%ぐらいまでの様な感じです。海水の3分の1の濃さぐらいですね。という事は、味噌汁ぐらい?近頃は薄目が好まれ・・・確か0.9%程度が目安だったかね?

 つまり、塩辛さを感じない位の濃さの汽水なら葦原が形成されるという事ですかね?塩分か・・・塩分が不足すると、皮膚の色つやが悪くなり、ブツブツが出来るとか・・・海水に含まれる無機塩類の不足によるものでしょう・・・そういえば、海洋深層水はどうした?まあ、普通の海水と大差ないと思いますが・・・少なくとも腐りにくいとは思いますね。海岸で汲んできた海水って腐りますから・・・ずっと以前、海水魚を飼おうと海岸の小屋の水槽に汲んで来た海水を入れて、海水魚を入れたら・・・数日で死にました・・・結論は簡単で、海水に生息するプランクトンが死んでしまうので、急速に水質が悪くなるということですね。潮の香りがしました・・・潮の香りって、海生生物が打ち上げられて腐敗した臭いかね?大洗から北海道へ行くフェリーの上では、海浜の潮の香りとは違ったものですから・・・船旅がしたくなります・・・

 古東京湾が気になって・・・コンピュータに広域の地形図を書かせてみました。標高4mを砂浜に・・・これだと葦原になっている可能性が高いですね。松戸は岬上になっているか・・・更級日記は、東山道経由で上総へ入る事を表現し、常陸より先にある上総なのかね?

 京に上る時は、松戸界隈から豊島の大地へ東京低地を横切っているようですね。東京低地を横断できるようになったのは、更級日記の時代よりそれほど遠くない時期だったとか?武蔵国は771年に東山道から東海道へ変更されていますから・・・東山道は千葉県の北西の端の部分近くを通っていますが・・・更級日記の時代より少し前まで、東山道から陸路なら常陸経由で下総へ入ったか?

 右が、千葉県北西部ですね。かなり微妙な感じ・・・関宿の辺りが島状になっていて、猿島経由で入ってくるのが自然な感じ・・・古河辺りまで行けば・・・????・・・こう考えると、下総の律令の駅は時代的なもので2系統に分かれてしまう・・・武蔵国の東海道への編入前と、編入後で分けて考えないといけなくなるのかね?

 駅の設置に先立って、水運+陸運で、唯一陸路があったのが東山道で、あとは海路か浜を歩くという交通路でしょう。その後、陸路の整備が行われ・・・海退に伴って現れた平地の活用期に入り、代表例としての武蔵国の東海道の編入があって・・・なんとなく、神崎にあった郡衙も、短期間で、今郡の方へ移転してしまったとか?

 意外と、葦原の広がりが早かったのか?なんとなく広大な水面が300年ほどで陸地と化したような感じですからね。これを、精密化するには・・・ボウリング調査結果や遺跡の発掘調査結果を加味しなければならなくて、それによる土地の隆起の補正を加えて・・・マンパワーの必要な作業になりますね・・・よって、私の遊びの領域からかけ離れた領域になるので、このあたりで、地形いじりは・・・ちょっと休止ですね。でも、なかなか良いおもちゃが手に入ったものです。基盤地図情報サイト|国土地理院 ここに、今回使ったデータや関連するデータとソフトウエアはあります。続きは・・・次回だな・・・
2013.09.22

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 匝瑳郡誌 たらたら読み始めました・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 印旛郡 印旛郡の史料も結構ありますね。
 
 
 
参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
近代デジタルライブラリー - 検索結果 明治神社誌料
 近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 千葉県 534コマ
 近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 茨城県 592コマ
近代デジタルライブラリー - 検索結果 日本地理志料 
国立国会図書館デジタル化資料 - 和名類聚抄 20巻 
大日本海志編纂資料 資料分類
近代デジタルライブラリー - 大日本神名辞書
茨城県遺跡リポジトリ
近代デジタルライブラリー - 仮名日本書紀. 上巻 204コマ 景行天皇


近いうちにやりたいもの
香取志 
古文書(冊子・一紙・巻子・絵図) 日本銀行貨幣博物館 これって面白そう・・・特に、社会関係史料が・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 徳川時代商業叢書
近代デジタルライブラリー - 検索結果 日本財政経済史料



  










inserted by FC2 system