香取神宮をうろうろ(50)
 香取新誌 (10)

 古い本にも面白いものがあるのですが・・・まあ、小説などは適当に読んで面白がっていればよいのですが、歴史書のようなものだと、一応は内容を吟味しながら読む必要があります。普通に読むなら、ふむふむなるほどで良いのですが、こういう具合に考証を加えながらだろ非常に時間がかかることがわかるし・・・こん畜生!と読んでいる時もあるし・・・なかなか厄介です。唐突に出てくる新しい見たこともない言葉・・・ちょっと前なら、でかい辞典を引っ張り出して調べますが、用例までは調べることは困難でしたが、現在では、ネット上にあるテキストで、それを知ることができるようになってきましたね。これって凄いことだと思うわけです。あと10年も経つと、文献研究の様相がずいぶんと変わるのではないかと・・・ネット上に、定本が置かれ、様々な異本が上げられ、比較研究を行うようになったら・・・ってね。ふと、写真のような銭貨をいじりながら考えると・・・そんなに遠くない将来、検索エンジンの中に、画像比較を行うような物が出てくるかもしれないと思うわけです。提示された写真と同じ系統のものを検索するような、そんな画像検索が・・・そうなると、様々な物品を比較し、同じものだと定めることができるようになるのではないかと・・・文献研究は、文の一致というような物に関しては、データベースの威力を知っていますから・・・古銭を眺めて・・・昔の鋳銑司は大量の砥石を使ったんだろうなと・・・ふとね。こういった古さを感じさせるものも、ときどき鋳造され製品となった時の姿を眺めたくなる時があります。そうなると、酸洗いして砥石にかければ、未使用の状態が再現できますからね。しかし、古銭いじりではそれは邪道なんですが・・・さて、続きを・・・
 近代デジタルライブラリー - 香取新誌 28コマ このあたりを読んでるのでした・・・大社12郷・・・からです。

大社12郷、小社6郷、これは古くからの定めであるに違いない。本社は12郷である事、浅野常陸の介の制札に見られる。大戸社は6郷であることが同札に載せられている。神崎神社が6郷であることは同社の古文書に見られる。王子社が6ヶ郷であることは口碑で知ることができる。その他舟橋神明の社が6ヶ郷であることが同社の古文書に載せられている。安房の大神が洲崎村にある。鎌倉時代に12ヶ村、千町の地であると云う。これらの様子を見なければならない。なお、他にもあるが、驚かしておくものである。


 いきなり何だ?大社12郷小社6郷・・・社格の問題かね。神宮であるのだから、格は関係ないと思うのだが・・・香取神宮が国に認められた凄い経済基盤を持った大社であると言いたいのでしょう。浅野常陸の介・・・だれだ?制札?・・・浅野と木村常陸介の話しか?・・・へいへい、文献にあたりますよ・・・天正18年の春から始まる、秀吉率いる豊臣軍の小田原攻めの別動隊の話ですね。関東には、北條氏系の人間がいて、それがあちこちの城に立て籠もると面倒ですから、戦争に参加させないようにするための確認を取りに浅野長吉と木村常陸介は歩いたようなものです。その制札だか禁制の本文は?・・・調べさせるのかよ・・・まあ、千葉県史料 中世編 香取文書は持ってますから出てきますよ・・・しかしどれだ・・・右のやつですね。神角介って何?・・・何かで見た人物だ・・・

 まあ、いいか・・・内容は・・・
 秀吉が戦争を始めることについてだけど、香取神領の12ヶ村と大戸6ヶ村の警固をかためて置けとの秀吉さんの書状は、神角介の仲介で話は聞いたよ。それで間違いないね。喜んで戦争を始めてね。火の粉が飛んでこないなら、おとなしく眺めているから、上手くやって頂戴・・・5月の末日、香取大禰宜 サイン、謹んで浅野弾正少弼殿・木村常陸介殿 御陣所に連れてこられて・・・

 こんな感じですかね?なんとなく、重武装の武者数人が、大禰宜殿にお会いしたい・・・と言われて出てきて、浅野・木村の陣所に連れてこられて・・・説明を聞かされて、どうする?分かった書けばいいんでしょ・・・私どもは関係ないよね。・・・問題ない、迷惑はかけない・・・書きましたってな感じのような・・・花押ってカッコいいな・・・

 ここに出てくる仲介者の神角介は、何者かね?それらしき人物はネット上に現れますが、不明・・・しかし・・・長吉君の下総・常陸での活躍は知らなかった・・・後の長政君ですね。この年の軍功は奥州仕置だから・・・しかし、事実上この地域の後北條氏系統の勢力を一掃したのですが・・・皆、おとなしく城を明け渡しています。戦わずして・・・これの方が軍功は大きいような気がしますが・・・ですから、余計、この神角介という人物が気になるわけです。

 この時代の日記は・・・近代デジタルライブラリー - 文科大学史誌叢書. 晴豐記 二こんなものかな?この手の文字は苦手だ・・・長吉君の名前も散見されますね。

 戦争って沢山の名誉というものを生み出してくれます。ここで生まれる死による名誉を、私は否定しません。しかし、それよりも、生きていることで生まれる名誉の方を重んじるというだけです。死による名誉は単発の1回だけの名誉ですから。生きて成し遂げられる名誉は、生きている限り、2度目、3度目ががあるからです。でも、私も1回だけの命と引き換えの名誉も欲しくなる時がありますね・・・だって、それくらいしか、名誉ある行いができそうもないですから・・・さて、続きは・・・


神幸神事
3月初巳午の日である神功皇后三韓征伐の有様を模しているに違いない。香取の浦に神輿を出し、御船に乗せ奉って、これより先、丑の日に、御休所に仮殿を造る。寅の日に山に入って、三艘の御船木を取る。それで、この山を御船山という。いま、御船山というのはこれである。巳の日に、神輿を出し、午の日に神幸である。次第、香取志に載っているので、摘高キる。
又国司より警固の人数を出し、非常に備える。永享9年3月3日の注進状の旨によって、その略を記す。また、古代より此の神事の状を詳しく記した図がある。常憲公遥かにこれを聞かれて、それを取り寄せ御覧になった。そして、画工に指示して、この図をうつさせて、下された。いま、大禰宜家の所蔵になっている。世に云う、神幸の絵図がこれである。


 神幸軍陣祭の話ですね。軍神祭という表記が近頃のですかね?まあ、書いてある通りですね。香取志にあるから簡単に書くって・・・やはり、香取志を読んだ上でこの本を読まなければならないのか・・・常憲公ねえ・・・これは徳川綱吉の事ですね。常憲院霊廟なんってのがあって・・・元禄の造替の際に・・・こういった絵図は御神宝類と同じように大切なものだといって資金援助を願って、奉行連中が、知ってる画工が上手いから、それに頼んだらどうだってやり取りがあったものですね。この重要絵巻の運送は飛脚がやったようで・・・大禰宜家の所蔵か・・・大宮司じゃなかったっけ?

 元禄13年に写されたものは、永正13年;1516年の検非違使家の写本の写しでは?元禄13年に写された物の写しが彰考館のを写したとあって・・・大禰宜家のものとは少し違うとか・・・本殿の扉の数が違う・・・例のアサメトノの系譜の本殿・・・私は、単に鹿島神宮としてタケミカヅチを出した影響だと思うのですが・・・まあ、いいか・・・続きは・・・


又詞林采葉抄に神功皇后三韓を責めさせた時、鹿島香取に天の御札が降った。よって、三月初巳日に香取の神門をでて、午の日に鹿島に着いて、両方の神共に起つのである。今の世で、旅の門出を鹿島立と云うのは、この縁でであろう。これ神幸の神事を誤って伝えたものに違いない。このようにして、建久以来、千葉氏国司として、詔を奉って、式年遷宮の神事の用途は都でこれを掌した。常胤5男国分胤通が同郡の矢作城にあって、宗家の命を受けて、毎年親臨して、検察した。当時、これを国司代と称していた。神幸の絵図、祈雨壇の側にあって、警固を為すものがこれである。
又詞林采葉抄も、世間に云われる説をとって記したものであろうから、神功皇后の三韓征伐よりも古い事なのであるに違いない。本宮の典である故に、軍陣祭りの事が残っていて、中古の飯笹長威の始めた刀法を伝えたのだが、本宮へ祈ったからであると云うので、本宮は武事の神で合って、即ち、フツの霊威仰ぐべき事こそである。



 結構大変です・・・詞林采葉抄なんって知らないよ・・・この本メジャーだったんですかね?気になります。詞林采葉抄一通り眺めました。なぜか98コマから先が出てこなくて・・・でも問題なしでした。三韓関連は25コマ、76コマ・・・などにあるようですが・・・明朝体で書いてくれないものかね・・・次のページが現れるまでの間に何度意識が遠のいたやら・・・筑波山が94コマあたりから出てますね。興味深い・・・95コマには霰降る鹿島・・・この項目の97コマに三韓征伐で鹿島・香取に天の御札が降ったと書いてありますね・・・やっと見つかった・・・後の半分はそのうち気が向いたら読みましょう。サーバーの不具合に救われた形だな・・・

 矢作城に国司代が居て、国司代行を行っていたのか・・・火を放ったり、矢を射たり・・・人が死んだ事件がありましたが・・・あの事件の経緯が気になりますね。後の時代ですが浅野長吉君らの動きとそれに対する常総の動きを考えるとなんとなく・・・何か、偶発的な事件を双方で利用しているみたいで・・・なんとなく気になるんです。

 国司や警固の者は右の絵巻のように並んでいるのでしょう。この絵巻には雨乞塚は描かれていませんね。他の絵巻にも雨乞塚が描かれていないので・・・でも、雨乞塚の側に・・・ああ、そうか、廃仏毀釈の影響ですね。この本が書かれたときには、右の神宮寺=金剛寶寺は存在しないのですから。雨乞塚は国司の左の宮之助の背後あたりになるのでしょう。現在、この場所は・・・笹川旅館の西側あたりになるのでしょう。

 まったく、読めもしないような文書を無理やり読むと無茶苦茶時間がかかるし、疲れるし・・・でも、面白いから許せますね。面白いと思わなければ読んだりしませんから・・・

 しかし・・・戦国時代って面白くないというより、意味不明・・・実質的な戦闘などは、あまりやっていない感じ・・・戦の準備から、戦い、戦場掃除、政治的な後始末までの間隔が短すぎるような?そして、庶民の生活に大きな影響を与えるような感じではない・・・政治的なデモンストレーションの時代のような気がします。経済的な大きな発達期のような感じもしますが・・・物資の動員は社会インフラを破壊しない範囲で行われているような感じですし・・・どうせ、戦国時代の総人口は1500万人程度でしょうから普通に戦闘に動員することができる人口は男750万人の30%が労働人口で225万人、そのうち戦闘員は10%の22.5万人程度でしょう・・・このぐらいが限界ですかね?特に、社会インフラが脆弱ですから、労働人口を大きく割く事は国力の低下になりますから・・・だから、この時代の戦記は面白いが、信頼性は低いような・・・長篠の戦の甲斐武田軍1万5000・・・損害は1万2000だったら・・・山梨・長野の明治時代の人口は160万人ぐらいでしょうから・・・1%の人間、しかも壮年の男ばかりを動員して、そのかなりの損失なんって・・・ありえないと思うだけですね。しかも農繁期・・・荒唐無稽・・・とても信じられる数ではないというだけです。兵糧はどれだけ用意する?収穫時期前の6月ですから食料の少ない時期、穀物を根こそぎ動員かね?それとも菜っ葉で戦うのか?・・・往復を考えると、持参した兵糧の3分の1を消費し、残りは残置、当時の騎馬武者は換え馬を連れているでしょうから3000の騎馬武者がいたら1万頭近くの馬が三河にもたらされたら・・・甲斐の優秀な馬の血筋が導入されたに違いないし、この地域に1万振りを越える刀剣類が一時に流入残置・・・文化的にも影響があるに違いないと思うのですが・・・そのような形跡はない・・・馬鹿らしいと思うからなんです。3000丁の火縄銃で大量虐殺か・・・下らない・・・何のために機関銃が考案されたか・・・馬鹿らしいと思うんでね。長篠に新城市の人口の全てが集まって数日イベントをしたらどうなるか?という話です。2時間ぐらいならOK、それを越えたら・・・食料・水・トイレその他・・・人間は生物なのでね。甲斐から1万5千が南下・・・たった1本の道で・・・しかも、梅雨時に・・・どれだけ道が破壊されるか?不可解な事が史実として通っているような・・・私にはまるで理解できないので・・・興味ない時代。社会インフラには非常に興味を持っていますが・・・長吉君の動きは理解できますから、これは合理的なので好きですね。さて、次へ行きましょう・・・


大戸社は、天の鳥船命の荒魂に違いない。大戸社の社伝の祭神と違っているが、その伝えの手力男の命であると伝えているのは、大戸という文字について、岩戸の古事にもとづいているので推当の陋説であるに違いない。いわゆる大戸は大津であって、地勢川尻村に堤のなかったときを推考すると舟船輻輳の地であると考えられる。自然鳥船の命の祀りあるのである。本社は他の末社とは殊異であって、既に香取第一の末社である側高の社であっても、祠人は一人である。然るに香取に次いで祠人も神主、大禰宜以下三十余人あり、又深き縁由のあることであろう。春日の内院にも、別に大戸の祠を建て祭っている。
本宮祭祀に、船木の神事があるのも、鳥船の命にちなむのである。或云、多田村にも高房社があって、同神であるといえど、既に正祀がある、また影祀があるのも、顕神の証であるとするのに足りるであろう。



 篤胤君のような事を言い始めましたね。大戸社の祭神・・・どうやら、天手力男命のようですが、大戸=岩戸・・・天の岩戸をこじ開けた神様というのは全然外れと言いたいわけです。天の鳥船命の和魂は・・・神崎神社ということか?セットにして・・・関連付けるのか?大戸=大津・・・とは思えませんね。気分は・・・神崎が荒海駅、ここから香取神宮まで12km、中間地点に大戸神社がある・・・古くに神崎神社が香取神宮から独立してしまったので、中間地点の大戸の地位が高まったか?神崎神社に対抗できる神職を置いたか・・・

 再び妄想・・・多分、神崎の神社は神崎の高台の麓にあったのでは?そのとき神崎神社は大戸社であった・・・多分、あまりにも香取神宮の勢力が大きすぎた・・・神宮の支配下の香取海の唯一の自由航行権を与えられた場所としての神崎・・・稲敷郷への渡船の権利で牽制・・・駅の設置で大戸社=香取神宮勢力がここから出されて・・・これが600年代中頃で、このとき荒海駅が設置、香取の海の荒海駅+陸上交通の要衝の眞敷+行政の郡ということで経済基盤の確立によるものではないかと・・・そして、荒海の名を忌んで公式の荒波駅の名は通常では使われないで・・・その後、財力が蓄積され・・・800年代に駅の廃止=アウトソーシングの確立なのでは?多分・・・

 駅の設置で、神崎が香取海の西部を押さえる事になったと・・・そして、神崎神社を同じ神を祀り、香取神宮との関係の薄い大浦沼の二つ塚から小松神社を勧進・・・神崎神社として知られるようになる・・・

 本当らしくする論拠は・・・なんとなく、駅は地元権力とは別に設置したような気がするので・・・さもないと、中央の思惑が、地元の思惑に反する場合、通信が不安定になるから・・・親書の開封改竄、または停め置いて、対抗するための指示の先行の後に、遅発・・・というわけで、鹿島・香取神宮対策として、戦略的に置かれた駅では?郡衙も然り・・・香取神宮を中心に考えた場合、香取郡の辺境にあたる神崎の地を駅とし、郡衙を置いた理由・・・

 まあ、勢力関係を考えると、經津主の香取が最初、次に太平洋岸から入り、太平洋岸を押さえた鹿島神宮、既に2大勢力は確立していた・・・中央政府の東国支配・・・神崎-稲敷ラインの確保、大生=鹿島神宮勢力との連合と潮来が鹿島・香取勢力の接点となっていて、中央からのコントロールを外れつつあった潮来駅のアウトソーシング化で800年代初頭に廃止・・・潮来の香取への暗黙の分離、東山道-国府石岡-石岡-曾爾-神崎が中央からのルートとして存続。それで、鹿島・香取は自治的な性格の強い地域になっていく・・・妄想ですけどね。・・・ついでに、海夫注文に、神崎より西の地域が現れてこない理由にもなるのでは・・・なんってね。案外、海夫注文は・・・香取神宮の専用桟橋のある津であるとか・・・たとえば、香取神宮の御用の旗でも立てている船だけが利用できるちょっと立派な桟橋があるとか・・・そうだ、香取神宮って高瀬舟などの命名もやってましたね。つける名前は香取丸ばかりとか・・・香取丸の船印旗幟も香取神宮で書いてもらっているみたいですから、これを掲げている船は利用できるとか・・・航海上の何らかの特権が与えられその対価として上納金のシステムなども想定できますね。・・・御札や御祈祷は利益率が非常に良いとか・・・

 ああ、大昔の考察をしているうちに、オリンピックは東京に決まり、不動産関連の株が上がっている・・・へ〜7月から8月にかけての開催か・・・電力なんてないぞ、火力発電所を3つぐらい新しく作るのかね?原発はうやむやのうちに再稼働となるのかね?さあ、どうなる?観光関連は、節電要求に対応できない業種だよね・・・まさか、オリンピックはすべて夜間のゲームにするのか?誰か、電力需要の計算をしてるのかな?・・・案外、東電の担当者は既に試算して諦めたか?開会式でブラックアウト・・・1週間の広域停電とか・・・その対策でも考えているのか?でも、夜のイベントで都心の大規模停電なんって起こったら凄いだろうと思いますね。新国立競技場か・・・8万人規模のスタジアム、自家発電装置だけで電力が供給できて、イベントを終了させて、スタジアムから人を出す事ができる事を要求されるとか?・・・東京ドームで5万人収容、1イベント5〜6万kW程度か6÷8時間=0.75万kW/hか?・・・0.75万×8/5=1.2 1.2万kW/h・・・これの3倍程度の発電容量が必要ですから3.6万W/h程度ですね。という事は・・・かなり大きな自家発電設備・・・設置できるのかな?あそこは狭いから・・・まあ7年もあるから大丈夫でしょう・・・産業を発展させる基本はエネルギー・水・食料の安定供給ですが・・・現政権のエネルギー政策はちょっとね・・・古代では、情報通信ってのが大きいのかね。エネルギー・水・食料はそれほどいじる技術がないから・・・そして、データ通信は烽火ぐらいですから・・・情報通信の基本は物流システムになる・・・街道を押さえたものが、情報を独占できると考えちゃいますからね・・・これが、私の論拠の根源になるわけです。

 案外、地頭や領主などというのも、基本は社会インフラの上に載っているだけだから運輸通信の地場組織に依存しているから、その地場組織に手を出せない・・・というより、そういった組織があるから地頭や領主で居られるのかも?よって、海夫注文では津の名称が重要で、知行者などは気にする必要がなかったのかもしれません元禄の造営の際の餅の注文の廻状の廻らなかった所からも、餅が来ている・・・それなりの地域通信網が存在する事を意味しますからね。さて、続きは神社が並びますね・・・香取神宮と神社ネットワークかね?

2013.09.06

関係ないが、興味深いもの
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詞林采葉抄 、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての時宗の僧で万葉学者。由阿 弥陀仏の著作か。
国立公文書館アジア歴史資料センター昨18年12月騎連隊編成表被相定以来他兵編成上に改正の義 明治初期の騎兵連隊の編成 
  
参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
  
近いうちにやりたいもの
香取志 
 
 

  










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