香取神宮をうろうろ(47)
 香取新誌 (7)

 さて、海夫文書の途中で切っちゃった・・・どうも、集中力が続かなくて直ぐに脇道で遊んでしまいます。沙石集も面白かったし・・・柳田國男全集も読み返したくなったし・・・実体物としての古銭などを眺めて遊んでいますが。この銭・・・価値について2つの側面を持っていますからなかなか厄介です。一つは通貨としての名目の価値・・・つまり1文という単位が現わしているものと、それが持つ銅地金の価値ですかね。交換媒体としてならば、別に銅という金属の価値を考える必要はありません。価値はそれを発行して管理している政府の信用ですから・・・そういえば、我が国の政府の信用は1ドルが70円程度から100円前後に下落しましたね。すると、政府の信用より実際の生産活動を担っている会社の信用が相対的に上昇して、株価が上昇・・・今や、政府の信用は落ちたまま、会社の信用も落ちて株価が下落かね?とか妙な事を考えてしまいます。政府も企業も信用を失くしたら・・・何しろ、紙幣は信用なくしては只の紙切れですから・・・銭貨は銅としての価値を持っていますから政府の信用が無くなっても鋳潰して銅を回収すればOK・・・米国の1セント貨は銅貨だったのが今や、亜鉛に分厚い銅メッキですかね?右の写真のは私の持っている一番古い1961年の1セント、比較のために置いたのは、寛永通宝の鉄銭で裏に千って入ってますが、出来が悪い・・・まさか密鋳銭かね?銭貨も良いが、やはり金貨がいいね。さすがに、貧乏だから金貨は持ってないですね。そうだ、金貨チョコってまだ売ってるかな?

 近代デジタルライブラリー - 香取新誌 20コマ このあたりを読んでるのでした・・・海夫文書の続きです。

海夫の役は段々に無くなっていき、その雇銭のみを何ほどと定めて取立てた名残であろう。
同書に見られる村々は、利根川の上流は神崎より下は銚江を限り、西は北浦上の方、南は木原の辺の船子村より北は札村より。鹿島の地は羽崎まで。香取のまわりに広がっていたと思われる。かつ西浦南の木原村には楯縫神社がある。楯縫神社は經津主神の影祀りである。北の方の小高村に側高神社がある。風土記のいわゆる香取の御子の神社である。その他にもまだあるだろう。これらは皆、船子達を指揮していたな語呂であろう。神崎村にも鹿島・香取の影祀りあり、他も海夫に関係のある場所は皆そうであると考えられる。



 さて、海夫の役か・・・労役を課したんですかね?それが銭で納入・・・形骸化していくのか・・・?労役に価値があった時代から、とりあえず金を集めて、金で人を使うのも同じことですから・・・金の威力の問題ですね。とにかく海夫注文に挙げられている津をこの時代の香取神宮の勢力範囲としてとらえているような感じですね。利根川の上流は神崎・・・下流は銚子、西岸は北浦の北のはずれまでということかね?南は木原の脇の船子村から・・・原文の意味が取れない?木原の脇の船子とあとから出てくる西浦南の木原の楯縫ってこのあたりにも船子がある。何か変?もしかしたら、木原ではなく水原か?水原でも、船子は・・・麻生藩領ですが、船子は旧行方村で北浦沿いではない・・・水原の誤植で船子は紛れ込んだか?それとも延方・大生・釜谷のつもりか?東岸は札村より鹿島の地は羽崎・・・札村の白鳥から波崎の日川あたりまでの話ですかね?よく見る海夫注文の地図の白鳥の位置が気に入りませんね。札より南じゃないか?なんってね。

 西浦の南の木原村の楯縫神社は明確ですね。土浦から国道125号線の旧道を進んで木原から台地を上がった左でしたね。土浦の手前までが領域だったのか?それとも、ここにも監視哨を置いていたとか?香取からの距離を考えると、烽火などで通信する限界の距離ですかね?そして、小高の側高神社、行方の郡衙は何処だろうとあるいた時に行きましたね。ここの本殿構造が以前気になったのです。鹿行をうろうろ 049 これね。郡衙の方は・・・ここしかないと思う場所を見出しましたが。結局のところは不明です。ずっと以前に買い込もうと入札までした土地の隣・・・そのうち開発の手が伸びて明らかになるかもしれませんがね。このあたり、過疎地みたいですから・・・発掘は遠い未来でしょう。香取神社や經津主命を祀る社を調べるのも良いかもしれませんね。

 楯縫ね・・・我が国は個人戦闘で盾を使うというのは少ないような?まあ、スパルタの盾だって基本的には集団戦で矢などの投擲兵器から身を守るために使われています。そういえば、我が国の鎧も基本的には矢から身を守るものですね。矢はその質量が小さいため比較的薄いアーマーで防ぐことができます。我が国の弓では重装甲を破ることは不可能ですね。日本の場合は弩などの強力な弓を導入する機会はあり、実際に導入されましたが・・・残念ながら、広く導入されることはなく消えて行きます。騎馬武者が弓を使うって・・・さすがに馬上では刀では切り結ぶことができないですから、しかし弓での戦闘も流鏑馬などで見られるような距離での近接戦闘が基本なのでしょう。従って、盾の重要性は低く、日本刀は片手で振り回す事が困難な重量なので、盾は装備できない・・・ってことは、日本の戦闘は基本的には歩兵はいない?ということですかね?それとも、盾と棒を持った歩兵によって囲まれた戦場の中で、弓を持った馬上の武将が追いかけっこしてたとか?この場合の盾は・・・間違って飛んでくる矢を防ぐのと、馬が近づくのを防ぐためですかね?長い棒を持ち、地上に立てられた畳くらいの板の後に隠れた歩兵の列を抜くことのできる馬上の武者など考えにくいですから・・・従って、盾が使われた時代は、短い剣や矛を装備した歩兵が主流の時代となりますかね?

 あれ?私の知識に関して欠けている部分が1つ見つかりました。中世の合戦の際の武器の使用に関するものです。基本武装は弓・太刀・脇差ですかね?論理的に考えると太刀は3尺近くあり分厚い装甲を破るはまぐり刃の重量感のあるものです。これを片手で振り回す。このとき弓はどうする?となると、矢玉が尽きるまで戦場を走り回って矢で射殺して行くのでしょうか?矢が尽きたら弓を捨てて、太刀を抜き、片手で太刀を振りまわす?長くても1mか・・・これで何回切り結ぶことができる?結構重いと思うのですが・・・元寇によって、太刀は大きく変化・・・元軍は革の鎧を着ていて、分厚い装甲を破るための刃では、この革鎧を切り裂くことが困難だったようです。近代デジタルライブラリー - 刀剣鑑定秘話 本阿弥光遜 著者は信頼できると思いますが・・・これによればです。そのため、刃は薄く鋭利になったとか・・・

 合戦絵巻を眺めると、どうやら、武士道=弓馬の道というように、切り結ぶのではなく矢合戦のような感じですね。矢が尽きれば、矢を取りに戻るのかね?とにかく、馬上の武士が太刀を振りかざしているような絵巻を見たことがないような・・・

 この左の絵の状況下でも弓を手放していない・・・となると、馬から降りたときから太刀が活躍するのか?そう考えるのが合理的ですかね?まあ、弓なら両手で扱っても、重心位置の変動はほとんどありませんが、太刀を振りまわすのは、かなり大きな重心位置の変化があるでしょうし・・・

 参考となる文献は・・・近代デジタルライブラリー - 日本武道史 45コマ このあたりに書かれていますね。私の推測に近いです。この本によれば、剣道が本邦武道の中心となるに至ったのは、近世の事で、上代から鎌倉時代にかけては、戦闘の主力は弓馬であった。とのこと・・・

 ということは・・・盾や矛・短剣で武装したものから、馬上の弓を持ったものの時代へ、馬上の弓を持った者に対抗する薙刀や長巻が歩兵の主力兵器・・・そして、馬に乗らない雑兵が主力になるにつれて剣術が発達するということですかね。おっと、また関係ない方へ行ってる・・・続きは、再び清宮君の感情が・・・


常陸風土記に、天地草昧の以前・・・その後崇神天皇の世に、太刀、鋒、鉄弓、鉄箭、胡ろ、枚鉄、練鉄、馬鞍、鏡、あしぎぬ、神戸65烟を幣として奉納した。天智天皇の神宮の造営を初めて行った。これ以来、修理が絶えることはなかった。毎年7月に舟を作って神官が奉納している。倭武命の時代に、奇異があった。新たに舟を三隻作った。各々の長さは2丈あまり、初めてこれを献ずると。風土記、取意節文

鹿島・香取は何事も大概は同じであるから、鹿島の事を記してあることから推測すれば、香取の事も知ることができるから、風土記の大意を節録し、また崇神天皇の世に鹿島へ太刀以下の種々の物を寄せられたのであれば、本宮にも寄せられたことがわかる。神戸も65烟とあれば、本宮にもそうであるはずだ。風土記の細注に、もと8戸、仁徳天皇の御世に60戸を加えて、天武天皇の御世に9戸を加えて67戸であるけど、持統天皇の朱雀4年に2戸を減じて65戸としたとある。この加戸の事を見ると、仁徳・天武天皇の両御世に、他の造営などもあったのであろう。舟の事も、香島にも廃されなかったとみえて、毎年7月に、新たに三隻を作っている。ただし、その長さは2丈余りとあるが、わずかに3間半ほどの舟のようだ。船材は、いわゆる石楠舟であって、丸木彫の舟である。風土記に、毎年4月10日に祭りを設けているとあれば、鹿島の祭日は4月10日であると思われる。香取に5日遅れている。或曰、新抄格勅符に鹿島の神105戸、常六国、神賤戸50烟、課685人不課2676人延暦5年・・・香取神70戸、下総の国。或曰枚鉄は朴鉄の誤りであろう。



 常陸風土記の引用ですね。天地草昧の・・・省略していますが、古事記の内容なので省略したかったのか?香島の神が高天原から降りてきて・・・香取の神は書いていない・・・で省略ですかね。崇神天皇の世に香取神宮は様々な幣物をもらっています。そして、宮が作られ造替が行われるようになった。そして、舟の話・・・鹿島の神様は、巨狭山命におまえの舟で私に仕えるようにと命じます。丁寧に分かりましたと答えるのでしたが・・・あまりその気がなかったのか?翌日巨狭山命に舟は海の上に置いたと言います。海に行くとそこには舟はなく、探すとそれは丘の上にありました。翌日は、岡の上に舟はあるというので、岡に行くと、今度は昨日と違って岡に舟はなく、海に舟がありました。こんな風に、舟を自在に扱う神に対して巨狭山命畏敬の念を持ち、新たに3丈余りの長さの舟を三隻造らせて神に奉納した。こんな話ですね。微妙に省略してくるな・・・さて、こういった前振りの後にやらかしてくれるんです。清宮君は・・・

 鹿島・香取は何事も大概同じであるから・・・ときましたか・・・まあ、それほど大きな違いはないと思いますがね。鹿島神宮が貰ったのなら、香取神宮も貰っていないはずはないか・・・風土記の細注に元は8戸で・・・計算が会っていないな?どこかで史料が間違っているのか?誤植があるのか?ああ、ありました。元は8戸そのあと50戸ですね。これなら数が合う・・・感情的に書いたのかね?だから校正をしくじったか?こういった加戸の原因は、造営などがあって、その結果として、それを維持するための経費がかかることと考えたのか?そして、舟のこと・・・現在も毎年7月に舟を作っている、しかし、それはたった3間半ほどの大きさでしかない・・・いいじゃん別に・・・昔の1丈がこの当時の1丈より短いかもしれませんからね。・・・鹿島の祭りは4月10日・・・香取の祭りは4月5日って御田植神事かね?香取の方が早いって?比較するようなものかね?新抄格勅符の記述は何を言いたいのか?何か比較しているつもりですね。新抄格勅符自体の史料が少なくて・・・近代デジタルライブラリー - 書目解題. (一) 16コマ から概略は分かりますが・・・朴鉄も分からん・・・?ネットでは朴鉄は検索しにくい・・・閔妃関連で出てくる人名ですから・・・諦めるか・・・とにかく先へ・・・


御船山
元は海上郡の舟木郷にあったと思われる。その後世の中が変わって、手近なところへその址ばかりを羊存し、御船山ということになったのだと思う。
今、海上郡の小船木村に大杉という社がある。地元の人は何の謂れがあるのか知らないというけれども、この祠は必ず香取社の影祀か、神子の社の影祀であろう。常陸の国の河内郡安波の大杉神社も、これもまた香取の社の影祀か鹿島の社の影祀であろう。地元の人の伝えでは、常陸坊海存であるというのは、何か変化してしまったのであろう。木原にも大杉という社がある。これもまた鹿島か香取の影祀であるに違いない。常陸風土記、信太郡の高久の里の條に、普都大神云々は、平田篤胤の説には、香取の影祠であるとのことである。この辺にも船子村がある。船子村は今も、香取・鹿嶋の影祀がある。証すべし。



 御船山ね・・・軍神祭の舟の用材を切りだす山ですね。もともと、海上郡の舟木郷にあった・・・ちょっとここは離れすぎじゃないですかね?銚子市ですね。多分、香取神宮の直轄だったのは、基本的に香取郡ではないかと思いますが・・・海岸沿いは別の文化圏では?とか思ってしまいますが・・・右の地図は近代デジタルライブラリー - 千葉縣要覽のものです。

 御船山の位置は変わってないと思いますね。この山で造替の際の用材を切りだす山口祭が行われたりしますからね。こういった山の支配ってのは国行事の職掌でしょうから・・・香取神宮はこの職掌を有していた?下総の守護の千葉氏はこれが欲しかった・・・船舶用材を支配するものが水運を支配すると考えるのは飛躍しすぎかな?

 これに対して、鹿島神宮は国行事の職掌に当たるものは国衙の大掾氏のようですから・・・詳しくは知りませんがね・・・そのうち・・・

 手近なところにその址を羊存し・・・う・・・論語か?いけにえの羊が残っていれば、その羊で名は滅びす、そこから復興できる・・・何を考えて、この語を使ったのか?ちょっと気になります・・・香取神領の復活?清宮君の論法だと、船の字がつくようなところはすべて香取神宮関連の場所になりかねないですから・・・大杉神社もか・・・

 常陸風土記の信太郡の高久の里の普都大神・・・これって阿彌神社の話ですかね?平田篤胤の説にはとあるけど何が出典?篤胤君の本はあまり好きではない・・・今の世に篤胤君が生きたなら・・・PCの前で毎日文書を綴っていることでしょうな・・・質札の山をかたわらに・・・なんとなくね。

2013.09.02

関係ないが、興味深いもの
県内神社紹介 茨城県神社庁の神社の紹介です。
近代デジタルライブラリー - 東洋文化の研究 大陸での鉄の黎明期の様子を調べてたんですが・・・玄奘も興味深い。
まるで関係ないのですが、ちょっと気になるものとして右の写真・・・本居宣長の収集品の鬼面鈴として知られている物ですが・・・近代デジタルライブラリー - 集古十種 銅器. 銅器 三 常陸国鹿島郡正等寺蔵駅鈴図 との関連が気になります。同様のものが香取神宮の近くの東光山総持院に天竺鈴というのが伝わっているはずなんで近代デジタルライブラリー - 香取郡誌 247コマ 出どころは奥州相馬長明寺・・・宣長君のはどこで収集したのか不明とのこと。 
近代デジタルライブラリー - 千葉縣要覽 後でざっと眺めよう・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 平田篤胤 古史伝 
近代デジタルライブラリー - 検索結果 平田篤胤 古史成文 
国立国会図書館デジタル化資料 - 天石笛之記 
 
 
 

  










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