香取神宮をうろうろ(45)
 香取新誌 (5)

 さて、気を取り直してという感じですかね?今昔物語集も好きなので良く読んでいたような気がするのですが、香取神宮と関連させて読んだことは無かったので・・・でも、ちょっと読み方が変わっただけで何か、ちょっと得した感じです。清宮君はこの今昔物語の説話をどんな風に読み取っていたのか気になります。ここで、ちょっと気になるのは、東氏ですね・・・鹿島神宮の東宮司家とか・・・東大社とか・・・そういった系統の1000年頃の人物ですね。香取神宮の東宮司家って、物忌関連で鹿島神宮の本殿内部の管理を行うもので、その他、鹿島の事触とか講組織などに関連があったとの情報・・・運輸通信を司っていたのか?なんってね。まあ、今昔物語の説話ですから・・・でも、妄想が膨らみますね。

 また、例によって古銭をいじりながらなんです・・・江戸の銀貨を眺めているんですが・・・小さくて失くしそうな銀貨・・・一朱銀です。この貨幣は16枚で1両になりますから。多分気分は5000円から1万円位のぐらいの威力があったはずですね。マイクロSDサイズですね。近頃の古銭相場では1枚1000円位で販売されているのでは・・・タイムマシンがあれば・・・これとか一分銀・・・2000円ぐらいか・・・4倍の価値があったのに・・・を買い込んで江戸へ遊びに行けばよいかも?両替商で小判に替えて、現代で一分銀に変えて、江戸時代の両替商で替えて・・・数回繰り返せばお金持ちになれるか?とか、余計なことばかり考えてしまいます。さて、続きが厄介で・・・利根川図誌風なんですが、微妙に違う・・・というか清宮君と同時代だね。赤松君は、微妙に清宮君に譲っている部分があるな・・・将門君の事で・・・

 
又、伊勢一櫟氏の天仁二年の文書に、手賀郷の四至を記したものがあって、小河高、衣川と書かれている物は、昔の鬼怒川は小貝川へ合流していたと考えるべきである。ちなみに、大鹿という地は取手の隣にあって、常陸風土記の葦原であって、鹿が獲れたことから、この地であると推定することができる。大堀という地名は、掘割があった名残で、布佐と布川の間は、山を堀割って今でも屹然としている事で知られている。これなどは、利根川を通した跡であろう。地元の人は、昔、掘割したと伝えているが、詳しいことはわからない。


 伊勢一櫟氏の天仁二年の文書か・・・判らんね。こんなものどうやって探せばよい?ネットでは伊勢一櫟氏が見つからない・・・一櫟文書か檜垣兵庫家の・・・この文書はネット上にあるのか?可能性のあるのは手賀郷・・・相馬御厨関係の書類か・・・ビンゴ! 近代デジタルライブラリー - 武家時代之研究. 第1巻 101コマ に発見・・・こんなのは基本的な教養なのかね?ん?このすぐ後に、前回の平忠常と源頼信の話が出てますね。 近代デジタルライブラリー - 武家時代之研究. 第1巻 108コマ 明治大正期に話題になっていた話なのでしょうか?ちょっと気になります。こうなると、この本もざっと読んでおかないといけないかな?全く、無知を曝している気になってきますね・・・清宮君の文章が気に入らないのは、知識が足りなくて、ちょっと読むごとに、かなり本気で調べ物をしなければならないという事なのでしょう。ちょっと調べ物を始めると、軽く1時間は経ちますから・・・とりあえず手賀郷の四至は判りましたよ・・・そして、取手の隣の大鹿か・・・多分、取手の競輪場のあたりですね。多分、布川の大鹿山長禅寺がこのあたりから布川に移転してきたとかそういった関連ですかね?しかし、布川は下総では?常陸ではないし・・・信太郡は取手よりかなり北の方ですから・・・阿見町や美浦村あたりですから・・・ 近代デジタルライブラリー - 古事記・祝詞・風土記 207コマ ちょっと場所が離れているような?・・・出典不明の記憶では・・・確か昭和14年に布川の狭隘部では十分な排水が見込めないので、我孫子市湖北台に掘割を作って、利根川の水を手賀沼経由で、船橋のあたりから東京湾に落とす利根川放水路を作る計画があったとか・・・もっとおぼろげな記憶では、湖北台の八幡神社にその測量のための標柱があったような?・・・ああ、この利根川放水路の計画は土木図書館デジタルアーカイブス 内務省関連書籍にありますね。・・・とにかく、ここが狭いので、その上流側に広大な湿地が形成されていたのですから。また、根拠がないが・・・布川界隈は1,630年ごろに我孫子台地の先を開削されたようですね。どうやら、鬼怒川を小貝川から分離したり、小貝川の流路を変えたり、新利根川を作ったりとかの一連の工事のからみのようですね。これって・・・船を通すための工事ですかね?雰囲気は高速道路の建設に近いような感じですからね。

 とにかく、布川-布佐の狭隘部のおかげで・・・台風などで利根川が柏市の田中調節池の越流堤から溢れると素晴らしい景色が・・・国道6号線から眺めると・・・海だ!って景色が広がりますから・・・素晴らしい景色だなんって、農家の方々すみません・・・でも・・・凄い景色でした。でも、逆に言えば・・・ここが水没するより、小貝川や鬼怒川の氾濫原の方が価値が高かったのか?なんって・・・だって、田中調整池は、稲作を行っていますが・・・でも、遊水地、洪水で水没することが前提になっていますからね。

 ふむ・・新利根川の開削は、寛文2年;1662年に布川より上流の小貝川と利根川が合流する押付あたりから工事が進められ寛文6年;1666年に完成します。総延長およそ30kmが完成・・・困ったことに利根川上流域の水位が下がり上流の水運が困難、新利根川は直線なので流速が上がって船の航行が困難・・・多分、船を陸から綱で引いて遡上する羽目になったのでは?結果は寛文9年には新利根川は押付で締め切り小貝川から水路で水を落として水路として利用となります。近代デジタルライブラリー - 検索結果 利根川 治水 古い史料はこんなものですかね?続きは・・・この本は情報量が少なく、情報へのキーワードに富んでいるので読むのが大変・・・というか、勝手に脇道にそれる私が悪いのか?

 ついでに気になるのは、新利根川に付け替えられた後の、旧利根川はどうなっていたのか?手賀沼や印旛沼からの水が流れたわけですかね?でも、水量はかなり減ったのでは?手賀沼の干拓が話題になるのは・・・享保12年;1727年徳川吉宗が勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永の計画を承認して、下沼の干拓を実施・・・千間堤の決壊で10年ちょっとで新田は水没沙汰やみ・・・ちっとも進まない・・・続きは・・・話が館林へ飛ぶし・・・


或は記す。利根川の堤は古戸村より下5か村に至る18,329間、総計8里17町、高さは1丈5尺から2丈、敷は15間から16・17間、馬踏3・5間 文禄4年築立、奉行荒瀬彦兵衛、石川右衛門、或曰、5か村とは大徳、宮淵、長竿、源清田、生板であると云う。


 こりゃ投げ出すかな・・・敷は15間、馬踏が35間じゃないか・・・3間から5間か・・行が変わるから十は入ってないし・・・疲れてきました。台形の堤防断面の下底が15間、上底が3〜5間、高さ1.5丈か・・・館林城主、榊原康政の時代の文禄4年;1595年に古戸から下流へ築堤がなされたという話ですね。これは何から引いて来たんだろう・・・榊原康政は有名人ですから・・・糸口発見 近代デジタルライブラリー - 利根川治水考 68コマ 以前読んだ本だ・・・出典は邑樂郡町村誌材料だって・・・微妙に数値が違いますが・・・史料の出所に近づいたぞ・・・ 近代デジタルライブラリー - 群馬県邑楽郡誌 邑樂郡町村誌材料がこの本に化けたようです。違った、編纂経過の中に邑樂郡町村誌材料を明治22年に発行したが、これを元に体裁を整え、30年も経ったから新しく作ろうという事になったようです。読むのは後回し・・・ 近代デジタルライブラリー - 群馬県邑楽郡町村誌材料 ほい発見・・・さて、どこに書いてあるのやら?近代デジタルライブラリー - 群馬県邑楽郡町村誌材料 34コマ 堤塘の項目に利根川堤の備考に近いことが書かれていますが、ちょっと違う・・・121、133〜134、146、233、コマにもあるけど、出典は不明・・・群馬県邑樂郡誌の方は、参考文献として利根川治水考が入っているから・・・ちょっと問題・・・清宮君の出典は何?大徳、宮淵、長竿、源清田、生板これって・・・茨城県稲敷郡河内町の地名じゃん?何かコンタミネーションが起こっている?

 そうだ、すっかり忘れていた・・・清宮君は下総国旧事考って本を書いていました。この本にヒントがあるかな?ざっと眺めると、香取神宮つながりの飯沼新田の開発に関するものとか・・・出てきますね。一応下総猿島郡とかですけど・・・近代デジタルライブラリー - 下総国旧事考. 第5本 21コマ 川に関する項目です。漢字を見るのが嫌になりますね。とにかくこういった物の調査過程で手に入れた文書なのでしょう。ずいぶんと本を読ませられた感じです・・・段々遊びの領域を越えてきているような・・・苦行になるかも?

 
 古の鬼怒川は、水海道で小貝川に合流して文間明神の裏手を流れて、田川邊から下利根川に合流していたのを、寛文の頃に、今のようにしたという。金江津村の小沼に絹川という字がある。また、片巻村の小字にも絹川という所があるという。これはその名残であろう。


 いにしえの絹川・衣川ですね・・・さあ困ったぞ・・・文間明神か・・・これって利根町の台地の北東にある神社ですよね。現在はこうもう神社だっけな・・・利根川や小貝川はどんな付け替えをやってるんだ?段々分らなくなってきた・・・小貝川の捷水路を作って、取手台地を開鑿して小貝川を利根川に落とし、このとき、我孫子台地も開鑿して利根川は現在の川筋になった・・・この前の川筋は・・・文間明神の北側、利根町の台地の北側を流れていたのか?そして、この旧利根川というか常陸川の川筋を利用して、霞ヶ浦へ流れる新利根川を作った。そして、一度開削した布佐-布川間を閉め切って、数年後に、ここを開いて、新利根川を締め切ったという事かね?

 地図を眺めて考えているのですが・・文間明神の裏を通って河内町の田川のあたりで小貝川が利根川に合流・・・利根川は布川の北、文間明神の南を流れていた・・・布川の下流の部分は、手賀沼から利根川に流れる川だった部分が、布川-布佐の開削で利根川の本流になったという事かね?

 絹川か・・・河内町片巻はわかるが・・・絹川は?電気工事店があるようだが・・・?不明小字名を取ったか?小字は土地宝典でも見ないと、近頃は厳しいですね。こりゃ、河内町中央公民館の図書室でも眺めてこないといけないかな?そういえば、館林の利根川堤防の話の中で、河内町の地名が並んでいましたが・・・これって何か関連があるのか?気になります。河内町の役場は、前のミニストップを利用する時もあるので知ってる・・・中央公民館は・・・確か・・・408号線の手前を入ったところか・・・近いうちに・・・どうしてこうなるかね?なんとなく、赤松君が泥沼にはまったのと同じようなことをしているような?あちらは2代か・・・この絹川は違うのでは?なんとなく・・・でも・・・鬼怒川に小貝川が合流していたが、鬼怒川の本流が変わり、小貝川が独立して旧鬼怒川を経て利根川に合流なら良いのか・・・その旧鬼怒川の絹川・衣川が地名として残っていると言いたいのでしょうかね。あれ・・・Wikiに大字金江津がありますね。ここに小字一覧があって・・・衣川 (ころもがわ)衣川向 (ころもがわむこう)とありますから・・・「きぬがわ」ではないことになるのか?日本語は厄介だ・・・

 利根川の明治期の改修は史料があるのでわかるが・・・河内町のあたりの付け替えは明治期にはそれほど大きなことはやってない・・・気になるのは、河内町の東半分の旧金江津村はは下総国香取郡に属している。・・・利根川堤防の話で出た五か村の大徳、宮淵、長竿、源清田、生板は旧河内村ですね。なぜ、清宮君はこの地区に関心があったのか?長豊橋を渡るとその先の大境って交差点がありますから、ここらが常陸と下総の境なんでしょが・・・

 明治期の取手から佐原までの13里の利根川の改修工事は布川-布佐の狭隘部の浚渫、取手下流の小屈つまり取手と我孫子の境の古利根沼が本流だったのを切り離す事、安食町の屈曲部の付け替え・・・
近代デジタルライブラリー - 直轄工事年報. 昭和9年度 附図 鬼怒川地図
近代デジタルライブラリー - 直轄工事年報. 昭和9年度 附図 小貝川地図
近代デジタルライブラリー - 直轄工事年報. 昭和9年度 附図 渡良瀬川地図
近代デジタルライブラリー - 直轄工事年報. 昭和9年度 附図 利根川地図 1期改修 このあと3期改修まで続く
 ああ・・・こりゃ、そのうち気合を入れて調べねば・・・本文へ戻らねば・・・続きは次回へ・・・
2013.08.29

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 検索結果 房総叢書 やはり、この本のシリーズは一通り目を通すべきだと・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 武家時代之研究 第1巻と3巻しかありません・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 大森金五郎 あとで、ざっとでも目を通そう・・・ 
近代デジタルライブラリー - 検索結果 榊原康政 治水に関するものはないのか・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 下総国旧事考 一通り目は通しましたが、そのうち精読しなきゃ・・・
近代デジタルライブラリー - 千葉県村名誌 習字. 香取郡 村名一覧です。
 

  










inserted by FC2 system