香取神宮をうろうろ(43)
 香取新誌 (3)

 なんだか、対抗意識を丸出しにした本のような感じですね。ふと、今まで香取神宮の社殿の外見的なものについて調べてきましたが、急にあからさまな香取神宮と鹿島神宮の比較へと入ってしまったような・・・ちょうど、生物学の御勉強を始めて動物や植物について知り、その生理なども理解し、生態系を学び始めると・・・科学らしくなくなり、ほとんど政治学的な内容へと変わるのを見るような・・・個々の生物の働きなどは普通に科学できるわけですが・・・個々の生物群の関わり、その生物群の中の個体のレベルまで考えると、完全に自然科学ではなく、社会科学の手法を用いないと解析が困難になります。植物政治学とか生物政治学、ある原野における生物政治学とか・・・なんとなくね。香取神宮の日記を眺め・・・ただ、年代を追ってどのような事実があるのかではなく、神宮を取り巻く感情の領域が、この本の中に読みとれます。大禰宜の日記とは全然違ったものです。先に眺めた日記とは読んでいて疲れ方が違うのでね。ふと、商人上がりの現実的な伊能頴則が、中央進出して明治天皇に令義解の進講を行い・・・香取に戻ってくるのはなんとなくわからないでもない・・・実務家肌で温厚優雅にして俗気なし、天孫降臨時人と呼ばれる・・・まわりの過激な連中とは一線を画していたのでしょう。・・・清宮秀堅君は厄介だったのかもしれませんが・・・楽しんでいたのかね?・・・明治ってかなり過激な人間が沢山いたのでしょう。

 なんとなく、気分は文久銭だな・・・文久3年2月;1863年2月から慶応3年;1867年まで製造され、4文として通用した銭貨ですね。この貨幣昭和28年まで法的には通用し・・・15厘程度の価値でしたっけね。ああ・・・1銭5厘か・・・召集令状、はがきの値段、今なら50円相当ですかね?

 さて、近代デジタルライブラリー - 香取新誌の続きですが・・・意味が取りにくい文があって・・・文久銭を眺めていたという感じ・・・気を取り直して・・・


 鹿島・香取は大利根を挟んで南北にある。中古之時代でも慶安の頃を中心に海夫文書が数通ある。海夫は海部であって、本宮に統属せし名残なのであろう。上古でも風や魚の警戒は重要視されていたと思われ、常陸の那珂湊の南に大洗磯崎・北には酒列磯崎などの神社も那珂川を挟んで対になって建っている。


 日本語は主語を省略して書くのでわかりにくい・・・困ったものです。それを漢文調で書かれると・・・多分、こんなところなのです。風魚の警を重んずなんって言い回しは見たこと無かった・・・海夫がらみの話なので、風待ちや漁労に関する警戒と考えましたが・・・分かりませんね。通行料や入漁料でも徴収していたのかも?とにかく、香取神宮の山の上からの見晴らしは良く、それを補う神崎や側高とのネットワーク+海軍力があれば、香取の海を制圧していたことは間違いないと思いますね。どうも清宮君の文章は読みにくいというか・・・私の語彙を越える部分が多いのか、サラッと読むのは良いのですが、きちんと読みこなそうという意図で読むと、なんかイラつきます。話がかなり飛躍したり・・・投げ出したい気分・・・さて、続きは・・・


 六所の社、本宮の北の方にあり。
 六所の社の事を推考するに、下総のみならず、常陸・相模・武蔵等も、みな景行天皇40年の頃に祀られたという事である。景行天皇の東国に入ったのは、ただ単に愛児の日本武尊のたどった跡を見て歩いただけではなく、分国の思し召しがあったのだろう。経界を定めようという下心があったに違いない。それで成務天皇が即位した最初の年に、突然国を郡・縣・邑に分かつという制度が行われたのは、先帝の遺意を継いだものであろう。祭神の事も種々であるが、とりあえず下総について考えると、正殿は大已貴の命は日隈の宮に潜み、素戔嗚の命は根の国に遣られ、伊弉諾命は黄泉の国へ行き、瓊瓊杵の尊は皇孫で地祇である。大宮の賣とは宇受賣の命の事で、瓊瓊杵の命を翼成した神である。ある伝えでは、大宮賣といっても、当時の権勢が当時もあった事を考えるべきである。布留の御魂は大已貴の命の剣であったので、共に地祇であって、国府に有縁の顕神であるから、六所といって、国々にあって、孝徳天皇の時に、国府に祭られてていた。このことは崇神天皇の時、天神天照大神を大和の笠縫の邑に祀られ、景行天皇の志を継いで、この地祇の六所の神を各国に祀られたの違いない。これ以後、本宮にも影祭されたのであろう。王子社のあたりに小貝野というむらがある。ここにも六所という社がある。これは海上国造であって、府中の六所を影祭した名残であろう。中村にも六所という所がある。この郷での影祭なのであろう。なお所々にあるようだ。


 今度は六所神社の話ですね。景行天皇40年か・・・近代デジタルライブラリー - 古事記・祝詞・風土記 常陸風土記に景行天皇が浮島に行ったことが書かれていますね。景行天皇40年というと日本武尊が蝦夷征討を撃つ頃ですね。そして53年に東国を廻った時のことが、常陸風土記に書かれているわけです。再び唐突に様々な神の変な所へ出かける話が並びます・・・この神々は何?

 ああ、下総についてですから・・・下総の六所の社の話ですから・・・下総国総社の千葉県市川市須和田にある六所神社で、その祭神が大己貴尊、伊弉諾尊、素盞嗚尊、大宮売尊 、布留之御魂、彦火瓊々杵尊であることからですね。これをうつしたものが六所神社であるという事ですかね?香取神宮の現在の六所神社の祭神は・・・須佐之男命、大国主命、岐神、雷神二座・・・国司が、国の一の宮から順に廻って礼拝するのが面倒なので、総社として1か所に集めたものですね。

 確か常陸国の総社の祭神は、常陸国内の神々と一致が見られないような?一応チェックすると・・・伊弉諾尊、大国主尊、素戔嗚尊、瓊々杵尊、大宮比売尊、布留大神ですから・・・案外、国家戦略で作られた総社がやがて土俗化する中で祭神に変化が出たとか?常陸国の場合には布留大神という事は無いと思うのですが・・・この神は経津主命の荒魂とか言われることがありますから・・・常陸と下総の総社の祭神はほぼ一致・・・この2国の類似点は・・・一の宮が国府の近辺にない・・・武蔵国の場合は中殿に大国主尊そして、一の宮から・・・六宮までを置いてますね。相模だと、国府の地元の柳田大明神、祭神は櫛稲田姫命・須佐之男命・大己貴尊、そして一宮から五宮格までが祀られる・・・

 こんな風に眺めると、とりあえず祭神は大己貴尊=大国主を中心に配神されているような感じですね。常陸や下総のパターンが標準型で、名のある神社が国府の近くにあればそれを配神するとか?再び根拠の無い説を・・・さて、続きは・・・延喜式4巻だ・・・何で・・・伊勢神宮の項目かね?


 伊勢大神宮は延喜式に神郡神戸。調庸田租者。依國司所移之調文租帳等。宮司勘納。其勘納之状。附國司移送主計主税二寮。又神郡校班損不堪佃、及計帳疫死等政、宮司與國宰共行之。又神郡神社 溝池 堰 驛家 官舎 若致破損 及桑漆等不催殖者 拘宮司解由。


 くそ、何で延喜式なんだよ近代デジタルライブラリー - 延喜式 校訂. 上巻 95コマ・・・税金は国司の所の台帳をもとに、宮司が行いその証明書をだせ・・・とにかく宮司が行政を行うことになってると言いたいですね。それでこの延喜式の引用の後に


 香取に南廳(神祇官に擬す)、北廳(太政官に擬す)がある。今、本郡郡村は、昔は香取郡の郡家があって、その廳屋と郡家で郡務を取り扱っていた名残である。


 延喜式で伊勢神宮に自治権のような物が与えられていて、香取にもそういった権限を行使するために南廳と北廳ってのがあると言いたいのでしょう。香取神宮の南廳に神官が全員整列して行う行事の司召ってのがありますね。朝廷で行う、国司などの外官を任命する式典で、公卿が清涼田前に集まって、任命に関する審議・評定をおこなう儀式ですね。・・・続きは・・・何だ?神郡の一覧か・・・


 又伊勢の国飯野、多気、安房の国安房、下総の国香取、常陸の国鹿島、出雲の国意宇、紀伊の国名草、筑前の国宗形など神郡にする。
 常陸風土記に云う。孝徳天皇の世、大化5年巳酉、大乙の上 中臣の□子、大乙下 中臣部鬼子らが、惣領 高向大夫に請願して、下総の海上の国造の領内の軽野より南の一里とか・・・これにちなんで郡の名が付いた。



 特別な神社であると言いたいのでしょうね。唐突な引用だと何を言い出すのか気になるし・・・まあ、慣れたから香取神郡もその頃に設置されたと言いたいのでしょう。


 鹿島郡の成立は、大化5年であるなら、香取郡もその頃に違いない。


 ほい、当たりですね。大化5年;649年に当たりますね。官位十九階を制定か・・・神郡制度もこの年のものですね。しかし、鹿島神宮に対する対抗意識は何?日本書紀みたいな・・・武甕槌神が進み出て、「どうして、經津主命だけが、一人ますらおであって、私がますらおではないのか?わたしじゃ駄目なのか!」と強弁するので、經津主命に副えて葦原中國の平定に向かわせた・・・まあ、立場が逆ですが・・・

香取郷
名義、香取は(かとり・ケン)であって、糸にちなむものである。近くに麻績という郷がある。今は小見という。これもその関係であるとの説は、よくできているように思えるが、却ってそうではないであろう。やはり香取は楫取の事であろう。旧事紀の天神本紀によれば、天照太神は、豊葦原の瑞穂の国は、我が御子に・・・と言って命令を発した。高皇産霊尊が三十二人に命じて、葦原の中国を平定して治めるように。天孫と共に供奉して降りるようにの項目の中に(意を取って文を程よくした)、船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えしたということがある。これが証明している。海夫、船子という村も、楫取の多義であろう。大禰宜家の分家に、かいとりと云う祠人あり、文字を楫取と書くという話である。これらも、因みあることであろう。亀甲山は、亀が四足を伸ばしているような形なので、名付けられたというが、これは、近江の国の香取の地に亀の岡云う字がある。これから取った名であろう。亀の岡は即ち神の岡の意味であろう。万葉集の神の岳も即ち神の岡に違いない。


 途中を省略するなよ・・・そりゃ、教養人なら旧事紀の天神本紀などの内容は判っているだろうから、云々で良いかもしれないけれども、こちらはそういった古典的な教養は無いんだから・・・近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第7巻 天神本紀 800年代に書かれた偽書か・・・内容からして物部氏系の人間が拵えたとか・・・別に、この書は実在するし序文の推古天皇が聖徳太子と蘇我馬子の共同執筆と書かれている以外は問題ないような気がするが・・・800年ごろにはこんな風に考えられていたというだけで・・・偽書は目的を持って書かれたものだから、その目的の扱いに関しては本物ですから・・・偽書はそれなりに面白い・・・が・・・意取節文だって?何だ・・・意を汲み取って程よく整えた文だって?・・・私の得意技じゃん・・・あまりまじめに読みたくない時にやるやつ・・・天神本紀に続きがあって、舩長跡部首等祖天津羽原 楫取阿刀造等祖天麻良 舩子倭鍛師等祖天津真浦 笠縫等祖天津麻占 曽曽笠縫等祖天都赤麻良 為奈部等祖天都赤星などの名前が上がっていますね。この人たちを祀る社は延喜式の神名帳にもあるから・・・近江の国の香取に亀の岡があるって・・・こっちが本家かね?亀甲山の亀を神に変えるのは困難では?気持はわかりますが・・・やや強引だな・・・続きは次回ですね。


2013.08.24

関係ないが、興味深いもの

近代デジタルライブラリー - 匝瑳郡誌 匝瑳郡の老尾神社は39コマに出てますね。
近代デジタルライブラリー - 古代日本遺物遺跡の研究
 
 
 
 
 
 
 
 
 

  










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