香取神宮をうろうろ(38)
 元禄の造営で新しくなった社塔は・・・

 経蔵なんって引くから、考えることが多くなってしまう・・・どうも、江戸時代の絵図とか実見に基づいて描かれていないような感じがするのもあるし・・・古来からこういう風に伝えられているから・・・とか、そういったもののバイアスがかかって描かれたりしているような物があるような?まあ、分からないから遊べるわけで・・・そして、日記文というのは難物だという事だけは判りますね。書いている本人には当たり前のことが、こちらでは分かっていない事が沢山ありますから・・・あれがそこへ移動したで本人は良いでしょうが・・・私にはさっぱりってのがね。さて、本文の続きです・・・


10月24日先日井垣にするために貰った残木を受け取って池之端に重ねて置いておいたら、ずいぶんと紛失していた。残りは、大宮司の方で引き取っていたが、こちらは無事だった。
・江戸より丹波・図書が連絡してきたことによると、修理金として150両を十左衛門が借りているとのことで、私どもに役人達に渡してほしいとの書状が来た。蔵人・内膳から150両を渡したというので、次の証文を取った。

合わせて金150両 但小判なり
これは、香取社塔御修覆御用金で、当地の請け負い方に支払う金で取交した。確かに受け取った。平岡平岡十左衛門方より丹波・図書へ返却があったら、この手形を返すように。以上
竹村惣左衛門 平岡十左衛門 役人
辰10月24日 吉田彦六 鈴木文蔵 服部千右衛門
香取蔵人殿 香取内膳殿
右手形、幸い飛脚が戻るので、江戸へ差しやった。
この日、八龍神が完成した。


 井垣は自普請になったのですかね?とりあえず用材の確保をして、池之端だから・・・矢来の外に積んでおいたら、かなり盗まれてしまったという事のようです。大宮司邸の方に運んだ分は無事だったという事なんですかね?1700年ごろって、製材した木材はまだ高価だったのでしょう。そのため、普請場に入る人間を管理するために、長々と矢来を設け、普請場を24時間の管理態勢で固めていたという事なんでしょうね。

 そして、再び興味深いお金の話ですね。現場で働いている下請け業者に支払う代金の決済に関するものです。江戸で金を受け取るから、そちらで金を払って欲しい、金を払ったらその旨を連絡してくれれば、手形を返却して取引終了となるという感じですね。

 ちょっと気になるのは、この覚書の書き出しの部分ですね。金150両ですが・・・わざわざ、小判と但し書きがあります。銭だと100文をまとめると4文増えるし、包銀になっていると0.2匁ほど多くなるとかルールが複雑です。150両か・・・1500万円か、大金ですね。ふむ、150両の金の準備が無かったら?・・・なるほど、それで御修理料金はどのぐらい準備しているかとの御尋ねに対して450〜460両ぐらいあると答えた。その旨を書いて判を押して来たというやつにつながるのか・・・お前の所には400両はあるはずだから、立替えられるだろ!ってか・・・何のために、御修理金の積み立てがあるのか確認しているのか分かりませんでしたが・・・だって、建てるのは幕府で、基本的には神宮側には持ち出し金は無いはずだと思っていたのでね。変なことに妙に納得してしまいます。

 1500万円の送金の話しか・・・支払依頼書・領収書を飛脚に運ばせるんだ・・・現金ではないですが、こういった重要書類も飛脚に任せられるというのは大した通信システムであったような・・・やはり、日本はこういった金融及び通信・物流システムに関しては超先進国だったから、明治維新で、西欧風に名を換えるだけで欧風化してしまたのでは?そういったインフラが整っていなかった朝鮮半島では苦労し、反感を買ったのか?なんってね。朝鮮総督府の本も読みたいし・・・日本は本当に封建制社会だったのか?気になっていますから・・・

 そして、八龍神が完成・・・これって修復+新造でしたっけ・・・これは幣殿に納められることになるのでしょう。でも、もともとの置き場とは違う場所になるのでしょうが・・・さて、続きは・・・


10月25日井垣子の材木を受け取ったという証文を書いて出した。
26日祓い殿・鹿嶋の社を立てる場所を決めた。この日、大宮司方で、下奉行達に振舞があった。
27日大祢宜方でも下奉行達に振舞を行った。
竹村惣左衛門の役人
服部千右衛門 鈴木文蔵 小原兵内 川田岡右衛門 稲毛庄兵衛 喜多嶋儀兵衛 石井長右衛門
平岡十左衛門の役人
吉田彦六 半田弥一右衛門 花束治兵衛 高田源助 青木藤蔵 高橋兵右衛門 川野庄左衛門 矢野佐左衛門
このうち江戸へずいぶんと帰って行った。残った人に振舞を行った。
10月28日段々小屋を取り壊し、矢来もとり去って行く。この日千右衛門が言うには、舞良戸の隙間については、地元の大工に直すように手配してくれというので、又見の大工の惣右衛門に頼んだ。この日参籠所のいろりを切る場所を相談して決めた。夜になって、いつもの通り神事を行った。
29日掃除普請が行われている。この日、丹波方で下役人に振舞があった。夜に入って御神事がいつものように行われた。


 井垣の板を受け取った証文を提出か・・・祓い殿って?これは初見か?車の御祓いは確か、総門下でやっていたような?祓い殿は・・・分からないですね・・・困った。鹿島神宮だと、神事に先立っての御祓いの空間が仮殿の前に存在しますね。右の写真の仮殿の前に柱が立っていてそこに注連縄が張られた空間ですね。

 香取神宮にはこれに類似の空間は存在しない・・・鹿島神宮で車の修祓は楼門の外のお稲荷さんの所ですね。

 ああ、あった・・・これって現櫻大刀自神社の位置ですね。かつては・・・勢至殿だった・・・祓い殿か・・・しかし、微妙に違うか?明治初期の文献では勢至殿とは別の廃絶した社になっていますから・・・本社から艮の方へ5歩あまり・・・つまり北東に15mほどで榊でその跡が示されているらしいですから・・・桜馬場の通路を塞ぐような形かね?元禄13年から桜馬場が整備されるあたりまでの期間存続した?しかし、左の図には勢至殿が無いから、祓い殿が勢至殿として移転したとか?

 なんだか、ちゃんと整理しないと覚えきれない・・・とにかく、地区を決めて、その場所に集中して完成させようとしていることだけは判りますね。祓い殿と鹿嶋か・・・そして、11月の人事異動の内示が行われ、送別の宴が開かれるようになるわけです。と言っても、この時期は大饗祭の期間ですから都合が良かったのかな?28日29日の夜の神事ですから。相撲祭とかやってるはずですから・・・

 楼門前の馬場や宮下の小屋は取り壊され、矢来も取り払われていくわけですね。

 舞良戸の隙間か・・・こういった小直しをする大工はいないのか?手が足りないのか?それとも、残りの仕事は加工済みの部材に対して単なる組み立てが中心なのか?指物系の職人は既にいない?

 舞良戸は・・・多分、拝殿のものですかね?神社の社殿は基本的には倉庫みたいなものですから、人がいる場所で・・・雨戸みたいなものがつくのは、参籠所か?そういえば、現在の香取神宮にはあまり舞良戸は見かけませんね。記憶では・・・香雲閣の玄関が舞良戸の仲間でしたっけ・・・吹寄せ舞良戸ですかね?とにかく、近頃はガラス障子の類いに入れ替えられていますから、舞良戸は不要なのか?

 そして、参籠所に囲炉裏を切るだって・・・参籠所は解体して組み立てるだけではなかったのか?という事は囲炉裏が無かったが、今回新設するという事ですかね?床板を切ることになるのですから・・・でも、囲炉裏を切ることができるという事は、天井板が入っていない?という事ですかね?参籠所は、板敷きの天井板の無い殺風景な建物であった?冬は寒く参籠者泣かせの建物とか?火桶で指先を温めるだけとか・・・

さて、とにかく続きを・・・


11月
11月1日舞良戸を直す。この日下役人図書方で振舞。夜に入って御神事はいつも通り行われた。
振舞にあった下役人は足軽格の者で、両奉行が普請に出る時は、杖をついて、諸事の世話をするし、木戸番も勤める。会所では数人と一緒に昼夜詰めて、読み書き勘定の役をしていた。
この日は前夜の神事の御供を、惣役人達や請負人たちにも出す。
2日丹波方でも、請負の町人に振舞を行う。
御宮の掃き掃除作業はいつも通りに行われた。
3日丹波・図書御目見を首尾よく終わらせて帰宅した。この日請負人に図書方で振舞を行う。請負人は、吉野屋又三郎・永澤市右衛門、大工請負棟梁権八郎・十郎右衛門・安さ衛門・長右衛門、その他下請け藤両・木挽きの藤両など大勢に振舞った。
4日・5日掃除普請、毎度の通り。
6日御普請は終了した。御道具諸品は完成した。証文と照合して問題なければ、役人達に言って7日に確認し合って8日に受け渡しを行う事になった。
8日高田源助・花束治兵衛・川田岡左衛門・喜多嶋儀兵衛が帰って行った。この世、鈴木文蔵・吉田彦六が帰って行った。いずれも暇乞いをする。この日、伏見屋源蔵が帰った。
9日服部千右衛門が逗留していた。あちこちの塗などを良くないところを直させて、御普請完了となる。10日千右衛門が帰った。この日長澤屋長四郎・吉野屋又三郎が帰った。御宮のあちこちを拭き掃除する。
11日掃除が同じように続いた。


 11月に入って・・・作業はほとんど清掃作業となります。11月1日の記事はちょっと興味深い・・・ある特定の個人について触れています。足軽格の取るに足らない人物なのですが・・・ちょっとだけ感慨深げに語っていますね。日記には名前も現れることが無い下役人・・・かなり、言葉を交わしたのではないかと・・・XXはいつ頃始まる?XXはいつ頃終わる?とか・・・あれは、どんな具合になりそうだ?とか・・・非公式の情報源だった人物では?

 完成検査、そして、仕様書と照合して8日受け渡し・・・9日最終的な点検、塗装の不具合をチェックして・・・普請完了!これで、静かな神宮に戻るというわけです。そして、神宮側の掃除がはじまり・・・お礼と、江戸での引き渡し調印ですかね。続きは、その引き渡しリストです。


11月13日三人で江戸に上る。御修復が済み、成就した事のお礼をしてきた。

・本殿・拝殿・瑞籬をそれぞれ新造 一か所
 附けたり 向拝前四半石、同所より楼門まで横八尺、左右縁石、中通敷き砂利あり。
・一の鳥居・二の鳥居・浜の鳥居 三か所
 附けたり 一・二の鳥居前石階段新造 二か所
・楼門・廻廊ならびに、左右塀柵共に 新造 一か所
・神楽所 新造 一か所
・愛染堂 宮殿とも 新造 一か所
・御手洗石壇 新造 一か所
・水屋 新造 一か所
・御供所 新造 一か所
・社内井戸 新造 一か所
・参籠所 修覆 一か所
・諸神塚の角矢来 新造 一か所
・末社 十五か所
 内 鹿嶋社・側高社・匝瑳殿・六社相殿・弧座山・奥之宮・印宮 7社新造
  日御子社・市神社・馬場殿・花園社・優波山社・佐山社・祓殿・天降 8社修覆
・側高村側高社拝殿共 修覆 一か所
 附けたり 瑞籬・鳥居共新造
・返田明神社 修覆 一か所
 附けたり 拝殿・瑞籬・鳥居共に新造
・又見社 修覆 一か所
 附けたり 鳥居新造
・西宮 東宮 修覆 二か所
・本地堂 新造 一か所
 附けたり 堂後ヶ輪石岩岐 一か所 新造 ならびに 向拝前より門まで九尺縁敷き砂利あり
・同所門 修覆 一か所
 附けたり 左右塀ならびに門前、石階段共新造
・三重塔 新造 一か所
 附けたり、向拝石階段 一か所 新造
・鐘つき堂 新造 一か所
右の通りこの度の社塔新造ならびに御修覆されたものについて、それぞれ引き渡しを受けました。以上
辰10月 金剛寶寺 香取図書 香取丹波
 竹村惣左衛門殿 平岡十左衛門殿


 建設系の新造・修復物のリストです。なんとなく、まともなものはほとんどなかったような感じです。多分、楼門なども存在しなかったのでは?なんって・・・何しろ大風のためか、数日分の記録が紛失していて、記載されていない解体物件があるかもしれないのですがね。石造物はほとんど無くて、石階段の類はこの時に新造されているようです。気になるのは、現在の総門の所の石段はいつ作られたのか?御神井道の石段も・・・

 新しくなった部分、手を加えられた部分・・・それは明瞭になりましたが、結局わからないものだらけですね。ああ、終わっちゃいましたね。現在見る姿とは少し違いますが・・・それ以前の姿とはまるで違う空間が現れたことに間違いないですね。変化として大きいのは何か?やはり・・・2つの井戸ですかね・・・人が継続的に生活することが困難な場所に何のために・・・このあたりの最大の水源地は御手洗です。古代においては・・・この水場は非常に大きな富であることは判ります。何しろ、霞ヶ浦は塩水ですから・・・そして、このあたりの水場はどうやら鹿島神宮の御手洗と、香取神宮の御手洗、そして、息栖神社の忍潮井、そして貧弱な丸木舟では沿岸航行しかできない・・・何しろ、明治時代だって、動力船か帆船でなければ霞ヶ浦を自由に航行することは困難で、竿や櫂で航行する船は竿がさせないような場所は航行しなかったようですから・・・何で読んだっけ・・・現在の淡水化された霞ヶ浦とは別物ですからね。

 それにしても、水の無い高台を維持することという目的は?1つしか思いつきませんね。それは・・・監視所、伝承によると斥候杉ですね。しかし、斥候杉は単なる伝承に過ぎないでしょう。なぜなら、香取神宮の力の源は多分・・・水源と強力な船と、標高50mの高台ですね。案外、古い物見やぐらの跡が見出せるかもしれませんね。この場所と、側高・神崎に監視所と艦隊を置いていたら・・・神崎には、かつて水上の関所があったようですからね。これは何で読んだっけ・・・

 Googlearthでこの高台からの眺めはなかなかですね。土浦の方は見えませんが、霞ヶ浦の全域、竜ヶ崎あたりまで監視できますね。そして、神崎神社からの視界と側高神社からの視界を考えると、広大な水面が監視下に入っていた・・・30kmの範囲が高速な船を持っていたら、確実に勢力圏内に入っていたと思えるわけです。

 対馬藩の持っていた密貿易対策の八丁櫓の高速船だと・・・10ノット程度の速力が出るはずだから・・・こういった高速船を保有してたとしたら?2時間以内で勢力圏内の船を捕捉することが可能・・・丸木舟の速力ではかなわない・・・これが文化の力でしょうね。ちょっと、話し合って・・・海夫注文か・・・鎌倉時代には残念ながら、一般の技術水準が上がり、津の支配権闘争が厳しくなり・・・江戸には神領支配だけに・・・明治維新で神領支配も無くなってしまった・・・香取神宮の森の標高の高くなっている所の発掘調査などはないでしょうね・・・香取神宮は、一筆の土地ですから分割されることもなさそうですし、鹿島神宮のように大規模な造成を行って何かする場所は・・・アクセスの楽な佐久・押手・要害など広い空間があるので、その意味でも本殿の北西側の開発行為は無いでしょうから・・・旧参道沿いは再開発するのか?ちょっと気になりますが・・・

 本殿北西のあたりから出た遺物は・・・明治大正期の、素姓のよくわからない物でしか知ることしかできないのでしょう。成田の旅館の太古遺物展示などはどうなっているのやら?

 太古遺物の収集ってのが流行った時代がありましたからね。大野屋は現在も存続しています。さすがに日本太古遺物研究会は存続していないと思いますが・・・右のが近代デジタルライブラリー - 旅館要録. 明治44年後期に出ている大野屋の紹介ですね。天明元年から続く老舗旅館・・・現在は旅館としての営業は無いようです。この大野市平氏は色々なことをやっていますね。出版も・・・近代デジタルライブラリー - 碇引とかありますね。

 昔は、こういった文化貢献ってのが盛んに行われていたような感じです。

 近代デジタルライブラリー - 千葉県共進会香取鹿島成田宗吾案内こういった本の中の広告って好きなんです。

 おっと、余計な事を・・・続きは、神宝や道具類のリストがありますね。さっさと眺めて、新しいことを始めなきゃ!

2013.08.17

関係ないが、興味深いもの

近代デジタルライブラリー - 海の二千六百年史 元気のよい本です。
近代デジタルライブラリー - 検索結果 江見水蔭 この人の著作は興味深い・・・
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