香取神宮をうろうろ(33)
 いよいよ本殿の棟上げが行われるが・・・

 さて、浜の大鳥居も立ちそうな気配だし・・・境内内の作業の様子は良くわからないし・・・やや、面白みに欠けてますね。御蔭で関係ないが、興味深いものが充実しちゃいますね。それでは9月です・・・

9月
9月1日惣左衛門が会所へ来た。津宮の鳥居の在所の絵図は丹波が提出したものだった。津宮の町中より鳥居の在所まで何間と距離が書きつけられていた。津宮の年寄に判を押してもらようにとのことで、昼過ぎに津宮へ行って、距離を入れた書付に判を取って帰る。この日、図書江戸より帰る。
2日惣左衛門会所までやってくる。図書が顔を出して、遷宮の日にちを聞いた。職人たちには21日と言っているけれども、御普請は完成させなければならないので、15日には遷宮ができるとのこと。
この日十左衛門の忌中が終わり、津宮へ丹波と図書で連立って顔を出してきた。
・請け方の者が町中のために井戸を掘って寄進するとの事で、大祢宜屋敷前に井戸を掘り始めた。

 どうやら、津宮の鳥居の位置が厳密でなくて、距離を入れる事になったようです。これって何故?土地の所有権の問題でもあるんですかね?河岸というのはどんな権利関係で成立しているやら?鹿島神宮の外港に当たる大船津などは船着き場の権利が色々あって・・・水死人などを上げるのは公有の船着き場が使われたとか・・・津宮の鳥居河岸は・・・どうなってるんでしょうね?とにかく、正確な場所が決定されて鳥居も立つのでしょう。そして図書が江戸から戻ってきて、正遷宮の話になったようです。職人たちには21日と言ってあるが・・・なんと15日には正遷宮ができるという話になっています。

 棟上が遅れているのに・・・棟上から1か月も経たないうちに正遷宮?確かに、内内陣・内陣が完成すれば正遷宮ができるという話でしたから、そこまで完成させて正遷宮、そして残工事を行うという事なのでしょうか?本殿の屋根って結構大きいですが・・・棟上、屋根の下地を作って屋根を葺いて行くのでしょうが・・・もの凄く作業が速いのでは?まあ、この時代の最高の技術集団がやっているからできる事なのかもしれませんが・・・

 あれ?井戸がというわけです・・・境内に掘った井戸は埋め戻しという話でしたが・・・大祢宜家の前に井戸を掘ることになったという事のようです。水か・・・普請の人たちも、水には苦労したのかもしれませんがね。じゃあ、この井戸は現存するのか?気になりますね。町中の人たちのためと言うなら、それなりに入り込みやすい場所なんでしょうが・・・気になるのは、要石への道の脇にあった看板ですね。香取の森とかに「落葉に埋もれた古道や古井戸は往時の景観をしのばせている。」という一文があるのですが・・・古井戸・・・何だろうというわけです。

 一応、右の写真の看板がそうなんですがね。さて、古井戸ねえ・・・ただ、氷室井とかそういった井の話だとちょっと事情が変わりますが、なかなか分からないものです。まあ、ロールプレイングゲーム感覚ですから・・・どうなってるのやら?次は何が出てくるやら?ワクワクしますが・・・何も知らない馬鹿に見えるのが難点ですね。先読みをすれば賢く見えますがそれでは面白くない。あれ?GoogleBooksの表示が変?どうやら閲覧制限があるようですね。ログインしていないでだから・・・こりゃクッキーをリセットする必要がありそうですね?さて・・・続きです。

3日十左衛門会所へ来ていた。惣左衛門は鹿島神宮へ参詣とのこと。
この日津宮の名主3人やって来て、鳥居の道の普請をしたい。新嶋九ヶ村に頼みたいとので、指示を出してほしいとのことであった。また、御釜社を作りたいので、用材を貰いたいとのことだった。
9月4日両奉行たちは会所へ来て監督していた。
この日津宮の鳥居道の普請に島々へ廻状を出した。その文は次のようなものである。
廻状
津宮一の鳥居、近日中に建立される。それについて鳥居の場所を神事のために使う道の分だけ広げるので、津宮はそのようにすることになったが、津宮は御用に人足を出しているため、人足が不足している。大変だとは思うが、以下の村々に人足を連れて津村々の人足へ差し添えて、この普請に助力をするように。土取り場は掘割川の川尻の天地でくれ切る。船1艘に人足を2人ずつ鍬・簣を持ってきて欲しい。この通り御神事の道で祈祷があるので、忌服の者は出ないように。委細はその場所に出たときに告げる。以上
9月4日 大宮司香取丹波守 香取図書
明5日 中須村 扇島村 加藤洲村 磯山村 年寄衆中
6日 長嶋村 八筋川村 大嶋村 三嶋村 堺嶋村 年寄衆中
右両日共に津宮人足と合流して行う。

表絵図の通り、以前にあった鳥居の在所に相違ありません以上
元禄十三年八月二十九日 津宮村 藤右衛門 惣右衛門 太郎右衛門 次郎右衛門

 鳥居が新しくできるのに合わせて、道普請を新嶋九ヶ村に頼むという話です。香取神宮は、この新嶋九ヶ村に対して、労務の徴発権を持っているようです。労務の提供を・・・これって国衙の権限ですね。香取神領を調べる必要がありますね・・・史料は手元にありますが・・・建物に関するものですから・・・そのうち気が向いたらですね。御釜社は不明・・・竈神社なら吉原ですね・・・何かを新しくすると、別の物も新しくしたくなるという事のようです。ふむ、町内ではなく街はずれから東社まで80間って書いてありますから・・・150mほどですかね?土を入れる?でも、この道は香取神宮へ造替のための荷物を運んだ道ですかね?それとも、材木河岸があって途中まで水路か?色々と考えてしまいますね。石車で運んでいますから・・・もし、佐原の大祭の山車がその石車の末裔であれば道幅は少なくとも4m程度は欲しいですから・・・大坂の下あたりまで舟で運んだのか?気になりますね。残念ながら、これに関する史料は今のところ見てませんね・・・

 とにかく土を入れるという話ですね。土取り場は掘割川の川尻の天地でくれ切る?掘割川って・・・神栖?の河口だって?こりゃ遠いのでは?砂利を息栖から運んだりしているようですが2日間で運ぶのか?どれだけ動員するのかによりますが・・・気になるのは津宮には2つの河岸があるような話があったような?董橋の所の水路が気になりますね。董橋あたりで荷揚げしてそこから石車を使って運んだから・・・鳥居河岸から町中の道は整備されていたが、そこから田圃の中の道はしょぼかった。董橋からは道は良いのだが・・・その間が良くなかったら?それなりにカッコ悪いという事なのかもしれません。董橋につながる水路を掘割と言っている?ちょっと気になるのは、董橋のあたりの水路の曲がり方が気に入りませんね。成田線の工事で水路が付け替えられているのか?案外、董橋の位置も変わってるかも?成田線は昭和6年に笹川まで伸び、さらに昭和8年に松岸で総武線に接続するようになりますね。これ以前の地形図はあるか?利根川の第一期改修工事の書類があれば・・・直轄工事ですね・・・近代デジタルライブラリー - 検索結果 直轄工事年報 もっとも古いのを見ると・・・残念、2期以降の地図しかない・・・大縮尺で読みとれないですね。

 ん・・・直轄工事年報. 大正13年度 附録図面の12コマにありますね。鉄道が敷設される前の様子ですね。津宮から香取神宮への道はあります。そして、それと交差する例の水路が書かれていますが・・・現在のようなクネクネ感は描かれていませんが・・・

 この地図でははっきりとはしませんね。こりゃなかなかチェックしきれないですね。史料の探し方は上手くなってきましたが・・・無いものは探せないですがね。

 でも、郡ごとの切図ぐらいあっても良さそうな気がしますね。そうだ・・・香取参詣記の図があったような?香取群書集成1ですね。房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第8巻 紀行及日記には残念ながら図が入っていませんから・・・

 左の図が香取参詣記の挿絵ですが・・・ふむ、津宮の雰囲気は前回再利用して掲載した写真に似てますね。


 また、使いましょう!ほらね。左右に建物があって浜の鳥居の先に常夜灯があって・・・そのまま道が続いているのでしょう。水路はかなり広く描かれていますね。妙なクネクネはなくて左上のが董橋のようですね。ゾウリヌギバシと書かれているから当たりですね!左の方は湿地が広がっているようです。東宮から1丁の距離にある記されていますから・・・成田線の踏切のあたりになるのですから・・・やはり、董橋のたもとの石碑を見に行かないといけないようです。

 でも・・・絵図と比べると・・・なんとなく、董橋の位置が微妙に違うような?東に80m程度の所にあったのでは?でも、距離の記載がちょっと違ってくるし・・・この絵図の道の曲がり具合と水路の関係を見るとそんなきもするしね。

 陸地測量部の地図でも・・・佐原の発行は昭和の初期で五万分の一のようです。古いものはなさそうな感じです。なんだか、資料集めの方が長くかかっているな・・・

 道普請の場所だけは判りましたから良しとしましょう。これ以上の推測は困難ですから、そのうち資料が出てくることに期待しましょう。続きと行きましょう・・・

9月5日両奉行衆会所へ来ていたので、顔を出すと、遷宮の刻限はいつかと聞かれた。この日津宮の普請場へ丹波が出かけた。
6日両奉行が会所に出ていた。この日津宮の普請場へ図書が顔を出す。この日御遷宮について、村々へ廻状を回す。
7日両奉行が会所に出ていた。鰹木についての調査があった。この日、本殿の鬼板が上がった。この日、津宮の普請場に丹波が出かけた。
8日両奉行会所へ出ていた。津宮の普請場へ図書が出ていた。
9日重陽の節句の祝儀、津宮へ両奉行へ図書が出た。帰りに手代の所へ顔を出す。この日両奉行会所へ出ていた。
10日両奉行会所へ出ていた。

 日記を仕方なしに付けているような感じ・・・鰹木に関する調査ね・・・そして、鬼板が上がった。千木・鰹木・鬼板って右のようなやつですね。近代デジタルライブラリー - 検索結果 工匠図解 : 改撰雛形 この中に色々とありますね。右の図は下の21コマ目です。

 という事は、ほぼ屋根工事も終わりに近づいているという事なんでしょう。そうなると、大宮司や大祢宜などは定型業務をこなす事を考えるだけですから・・・工事など気にしていないという状態・・・浜の鳥居が仕上げって行くのを眺めるとか・・・祭式の組み立てをどうするか?道が広くなったら何ができるかとかですかね?

 廻状をまわしているのですが、この廻状の文面が記載されていません。これはどういった事なんでしょうか?真夜中の神事ですから、正遷宮が行われるという知らせだけとか?外遷宮では廻状は廻らなかったでしたね。

 正遷宮では、幕は縫わないでしょうが、仮設の屋根をつけた通路は作ることになるのか?それとも、渡り廊下のような物ができているのか?気になりますね。正遷宮は外遷宮の逆の作業だから、定例業務の範囲内でしょうね。

 正遷宮まで予定では5日間・・・棟上のような延期が無いか気になりますね。さて、続きは次回としましょう。

2013.08.04

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 検索結果 大日本沿海実測録 伊能忠敬は自宅の近所を測量してませんかね?隠居する前に多少そういったこともやっていたようですが・・・
  
 

 

  










inserted by FC2 system