香取神宮をうろうろ(32)
 いよいよ本殿の棟上げが行われるが・・・

 棟上の記述はがっかりでした。作業がどこまで進んでいるのか不明、私は建物の方に興味があるのですが・・・神宮側の関心は、絵巻物類の修復と装束に関するものへと変わってしまっている感じですね。そして、建物を飾る彫刻やら・・・荘厳具の類ですかね。あとは・・・社殿の位置関係に伴う祭式の変更とか・・・なんとなく、そんな感じです。それでは読み進むことにしましょう・・・

8月22日棟上で村々から奉納されてきた餅の下り餅を、それぞれの村々やその他の所へも送った。それ以外にも神領中の寺院にも出した。
この日八龍神の像を修復のために不断所まで運ぶために、金剛寶寺もやって来た。
23日雨天、御普請はなかった。
24日大絵図・御神幸祭の絵図を持たせて清右衛門を江戸に出す。
同日5ッ過ぎに江戸より飛脚が来た。前々から願いを出していた装束が通った。絵図の件も公儀の許可が出たからには、早々に話をつけて行わねばばらないし、川上伊兵衛より言われているので、絵図を取りに飛脚を出したのだが、行き違いになってしまった。
同日惣左衛門が会所にやってきていたので顔を出したところ、拝殿・幣殿・参籠所について先頃、考えてほしいと願っていたことについて、すべて拭板にするとのことであった。隅々まで敷き詰めても良いか上に窺いを立てなくても、こちらでやることができるとのことで、文蔵と彦六に申しつけるので、両人と相談するようにとのことだった。
 餅はずいぶんと集まっていたような感じですね。適当に撒いて終わりにする予定が、役人の人命を重視した意見で潰れて予定外の事態ですかね。どんな具合に配られたのやら・・・かなり遠くの村からも来ていますから、お返しが大変ですね。神領中の寺院も、餅の配布所に使ったのか?

 八龍神の話が出てきますね。龍神って・・・インドの土俗神が、仏教に帰依して護法の神になったやつですから、仏教色が強いのでしょうか?日本の蛇神ともくっついて日本の神のような感じでもあるし・・・神仏習合なら問題はないのでしょうが・・・龍とか七福神とかかなり微妙な神々のような気がしますね。八龍神・・・八大竜王なんでしょうが法華経に出てくる天竜八部衆の八王ですかね?鹿島神宮の方もかつて八龍神が祀られていて、拝殿の両脇、楼門に4体、大町の参道の左右にと八龍神が祀られていましたが、明治に破却されていますから・・・香取神宮の八龍神も明治時代に引き出されて破却ですかね?

 龍神の扱いってどうなってるのやら?鹿島神宮や香取神宮の八龍神は、仏教の護法の神々の借用でしょうから破却の対象になったのでしょうが・・・諸神塚=雨乞塚などは・・・雨乞と言えば竜神でしょうから・・・分離する際には、どんな線引きを行ったのやら?気になりますね。きっと、神仏分離のガイドラインがあったと推測できますが、実際の作業はどのように行われたのか?

 しかし・・・廃仏棄釈の目的ってのが良くわからない・・・香取神宮の場合は、普通なら別当寺が行う人別とかの管理を行っていますね。寺請制度が香取神領ではちょっと様子が違うが・・・江戸時代の人民支配に関しては寺請制度からの支配と領地の領民としての支配の二重支配ですから・・・身分と納税か・・・しかし、この両方が明治政府によって否定され新たな枠組みが作られていくわけですからね。日本の場合は封建制社会と言っても、ずいぶんと特殊な封建制社会であったような気がします。高度に発達した貨幣経済と相まって・・・通信システムなども、交通機関による制約がありますが、江戸と香取の間を自由に交通・通信しているわけですから・・・村々への通達システムも完璧じゃないですか。幕府とのやり取りも、高度に発達した文書主義だし・・・物資の移送だって、深川あたりから香取神宮の構造物の大半が製品の形で移出されているわけですからね。あの社殿、楼門が土台の上に2か月程度で組み上がっていくのですから・・・・

 廃仏毀釈というやつは、一般に本末寺で組織化されていた寺院システムを幕府が統治機構の一部として民衆管理を行わせ、幕府の出先機関としていたわけですから・・・それを、本来の宗教が失われている、汚職の温床であるとして狂気のような廃仏毀釈を行う・・・幕藩体制・・・地方分権から中央集権体制、人民と租税の一元管理のための破壊と再構築の手段であったのではないかと・・・日本って驚異的なシステムを持った国であったような気がしてきました・・・だって、明治維新で様々な社会システムが再構築されましたが、近代国家に必要な社会システムは幕末にはすべて完備していて、それを西欧風新名称の下に再構築するだけだったような感じですからね。郵便制度だって・・・飛脚のシステムが完備していたわけだし・・・明治政府がやったことは、宗門人別帳と検地帳やそれに付属する書類を新設した役場に置き表紙を取り換え、旧実務担当者をそこに集めただけ?という事になりますかね。それで、近代国家の出来上がり!逆に遡って考えると、日本が初期導入した唐の社会システムを高度に発達させただけとも言えるから・・・中華帝国の考案した律令システムって効率の良いシステムであったと言えるのかもしれませんね。

 普通、養老律令は廃止法令は特に出されなかったので、形式的に明治維新期まで存続したという言い方をしますが、日本の基底にある社会システムとして生き続けていたと思われますからね。鹿島神宮の社務日誌などを眺めると、孝子の制度が引き継がれていて、安政6年の6月に大宮司から80歳以上の老人並びに孝子に物を賜う。老人は18人、孝子は2人ありなんって書いてありますからね。もしかしたら、廃仏毀釈と神社の再編を利用して、新政府のシステムを構築したのか?その謀略に踊らされて神社いじりをやっている間に、必要な書類は新政府の直轄の役所に移転、書類をいじっていた連中も還俗・復飾して下級官吏へ組み込まれる。戸籍法の制定、上知・・・神宮も人員整理されて・・・神領支配は役所の手に移ることになるのか?ふむ・・・誰か賢い人が・・・と妄想に浸りたくなります・・・あれ?龍神の話が飛躍・・・元に戻さねば・・・

 とにかく、飛脚を使って重要美術品を運ばせるつもりですから・・・飛脚制度もしっかりしてしていたのでしょう。 近代デジタルライブラリー - 内国通運株式会社発達史 後で読まなきゃ!明治初期に創設された会社の動向を眺めると明治政府の手口が読めてくるかもしれませんね。それと、江戸の旧体制下のシステムが・・・

 例の、拝殿・幣殿・参籠所の関係についてですね・・・拭板(ぬぐいいた)で敷き詰める・・・平らな板敷きの床で繋ぐか?それとも・・・石の間は板張りで拝殿と等高になるようにしたか?権現造の変形バージョン?こりゃ、このあたりの事を書いた本を探さないといけないか?・・・何も知らないで始めたのが敗因だな・・・しかし・・・それぞれの社殿の床の事じゃないでしょうね・・・フローリングにするって、それでは意味がないしね。やはり、拝殿と参籠所との間の話のような?まあ、先に読み進めば何か分かるかもしれませんね。先へ進みましょう・・・

25日雨のため、御普請は少しだけあった。
26日惣左衛門が会所へやって来たので顔を出した。惣左衛門が言うには、図書の装束の願いはそのまま通ったとのことだった。
・井戸については、役に立たないようだから、つぶしてしまうという話だ。前々から考えてほしいという事についての話があって、楼門の左右のちょっとした柵や、楼門から拝殿までの間の敷石についてもやるという話だった。
27日会所の惣左衛門のところに顔を出した。楼門の左右の柵の場所の見分をするとのことだ。この日、こちらに立ち寄って行った。
28日津宮へ惣左衛門の宿舎へ当日の礼に出る。昨日は立ち寄って頂いてありがとう、今朝はお礼とと告げて帰る。この日惣左衛門が会所へ来た。今朝はお礼していただいてかたじけないとの話。それから惣左衛門は返田へ行くというので、丹波もついていった。
29日惣左衛門に言われて吉田彦六が言うには、津宮の鳥居の場所が確かであるという書付を津宮の年寄達と丹波との相談の上で書くようにとの話だった。そこで昼過ぎから丹波・内膳は津宮へ行って年寄達立ち会いの上で鳥居の位置を絵図にして、絵図の裏に昔からの鳥居の位置は間違いないとの書付を作り、年寄4人が判を押して完成させた。

 なんだか井戸の話は変なことになってますね20尋掘って水が出たが、どうやら十分な湧水量が無かったのか?つぶしてしまう・・・まさか、無いものを私は探したのか?・・・馬鹿さ加減がばれてしまう・・・まあ、いいのです、お遊び研究ですから・・・およそ37mですから、今だと37万円ぐらいかけて掘ったが駄目って感じですかね。この井戸を掘るのに何両投じたのやら?しかし、この井戸は上総掘りで掘ったのか?それとも人が入って掘ったのか?気になりますね。40m近い井戸・・・人が入ったのか?私も簡易な上総掘もどきで6mほどの井戸を掘りましたが・・・香取神宮の井戸は上総掘ではない・・・これは1800年代の開発ですからこの時代には存在しない・・・という事は地下40mに人が入っている・・・けど、役に立たない井戸か・・・

 香取群書集成4・5をざっと眺めているのですが、その中に興味深い一行がありました。5の554ページあたり香取名義考によると、現在の宮中・宮下には慶長以前は人家が無く、祠官の籠る雑舎が所々にあるだけだったとのこと・・・やはり水が無いのが致命的?慶長年間に人が住める条件が生まれたか?

 慶長あたりを境にした技術的なものって・・・刀剣かな?慶長あたりから以降の刀を新刀って言いますが・・・何で読んだっけ?これ以前は鍛冶が砂鉄から地金も作っていたから、地域の差が地金に出ていたが、天正の頃から、大鍛冶が地金生産に入って来るので、地金に差が無くなって、地金の特徴が無くなったとか・・・

 楼門の左右の柵もOK、津宮の鳥居も隠滅していて、その場所を特定させられていますね。後で何かと問題になるのか関係人に相違ないとの証文を取るわけですね。

 右の写真はいつのものやら?少なくとも明治33年から始まった佐原から下流の堤防工事がこの地点まで進んでいない状態ですかね?この工事は、明治42年に竣工していますから、この明治30年代の様子と考えて良さそうです。

 香取神宮の写真もどうやら、明治29年以前のものはほとんどないようなので・・・やはり、明治の改修以前は観光地としても弱かったのかもしれません。明治初期の香取神宮の様子はどうだったのか気になりますね。仏殿風の赤と黒の色彩はこの時期には失われていたような感じですし・・・どんな状態なのか不明です。明治29年以前の文献資料は何種類かありますが、その時期の社殿については話題がありません。今のところ、私は見ていないというだけですが・・・香取群書集成4・5も眺めはじめましたが・・・学識の高さに脱帽・・・ゆっくり目を通します・・・

2013.08.02

関係ないが、興味深いもの
文化遺産オンライン 建造物修復アーカイブ これの充実があると良いですね。
近代デジタルライブラリー - 検索結果 琉球王代文献頒布会 沖縄に行きたくなりますね・・・
近代デジタルライブラリー - 生活民俗図説 なかなか興味深い
近代デジタルライブラリー - 検索結果 江戸名所図会 だらだら読むか・・・
近代デジタルライブラリー - 維新政治宗教史研究 
近代デジタルライブラリー - 金剛石試錐論と上総掘試錐法 
近代デジタルライブラリー - 蔚堂閑話 技術史的な話がちらほら
近代デジタルライブラリー - 検索結果 東京帝国大学工学部日本刀研究室 こういった研究もしてたんだ。興味深いね。
近代デジタルライブラリー - 検索結果 東京帝室博物館講演集 暇があったら読むんだ・・・いつになるやら?
近代デジタルライブラリー - 刀剣鑑定秘話 弁慶は薙刀ではなく長巻を振り上げ・・・興味深い。鈍刀でも切れるか・・・人間は柔らかいからね。鉄にあってはかなわないと思いますね。・・・アマクニの刀とか興味深い・・・
 
 

  










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