香取神宮をうろうろ(29)
 建物が建ち始め、いよいよ本殿の棟上げが・・・

 さて、いよいよ本殿の棟上げが近づいてきました。どうやら、本殿を最後に完成させて、その直後に正遷宮を行って終了させるような感じですね。私なんかだと、その逆になってしまって・・・こまごましたものが積み残しになって終わってしまいますが・・・なかなかうまくやっているという感じですね。私も計画性のあるやり方をするか・・・どちらかというと出たとこ勝負が好きなんでね。この日記も、効率的な読み方は知っています。日記なんってのは後から読めば分かりやすいし、おかしな読み方をしなくて済むことも知っていますが・・・それでは面白くないのでね。ただ、残りのページ数がどのくらいあるかと、完成したときに形は知っていますが、それだけで良いでしょう。読み間違いに気づいて驚くのも面白いですから・・・既に何度かやってますけどね。さてさて、続きです・・・

8月7日江戸の丹波方から飛脚が来た。髪結吉三郎について飛騨守に尋ねたところ。探し出して江戸へ連れてくるようにとのこと。というわけで、兵左衛門・久次郎・太郎左衛門を付けて江戸につれてくるように。縄や手錠などを十分にして、取り逃がさないようにしてくること。
この日惣左衛門が会所までやって来て、内膳に来るように言ってきた。棟上げの日が近づいてきたから、江戸にその旨を告げるように。丹波・図書両人が留守では、棟上げは大丈夫か?との話、江戸に使いを出した。この日図書方よりの連絡は、御神宝の太刀を江戸で借りる事になった。先に遷宮の御用を整えるので、大神輿も遅れて完成でも問題ないと、惣左衛門によろしく申しておいてください。
8日雨のため、御普請はいつもより進まなかった。
9日御普請は、前日と同じようで、御本社・拝殿・幣殿・楼門・末社堂塔が次第に形を為してきた。

 例の髪結吉三郎の件が出てきましたね。役人に相談すると、定法の通りに行えになりますから、捕まえて江戸へ護送せよ!という事になるのでしょう。江戸時代の行政が賄賂行政でむちゃくちゃだったと言われたりしますが、実の所がそうではなく、そりゃ公然と賄賂というか付け届けが一般に行われていますが、その機会も均等で、特にそれで事が決するわけでもなかったようで、付け届けと、実際の行政に関しては、基本的には御定法に沿って行われていたようですね。

 髪結吉三郎君は手錠に腰縄という恰好ですかね?確かに、江戸時代はこういった具合に隣近所、仕事場などからの出奔がチェックされていましたからかなり厳しいとも言えますね。まあ、田舎などでは人通りが少ないので、誰がどこへ行くとか無意識のうちにチェックしているような感じ・・・人の動きは一般的に気になりますから・・・海岸の小屋にいても、この間の宇都宮ナンバーの赤い車は?とか話が出たりしますからね・・・あの1000番の車は・・・とか、無関心ではないのは判りますが、いろいろと面倒なこともありますね。

 棟上げの儀式については申し送りがあるんでしょうね。だから大丈夫と!言っているのでしょう。案外、普通の家屋の棟上げと神殿の棟上げも同じ儀式とか?何しろ、この状態では一般家屋との差はないですし・・・神様は仮住まいですからね。丹波・図書は江戸で精力的に正遷宮の準備を行っているようです。造営の進捗状況はどんな具合に管理していたのやら?こういったことも気になりますね。

 ふと・・・候文って、中世以降の公用や手紙文・証文などの基本文体ですが・・・学校では習わなかったような気がするな・・・戦前教育ではかなり重点が置かれたような感じだが・・・昭和30年代には、絶滅状態でしたかね。さて、続きは・・・・

10日御普請は、相変わらずのペースだった。御手洗普請の土取り場の指図をして欲しいと役人から言って来たので、田所与右衛門を連れて、内膳が見分して土を取らせることになった。それは御手洗を埋めるための土だという事で、土を取る場所の印を立ててきた。
この日惣左衛門、棟上げに丹波と図書が留守でも問題ないかと問い合わせてきた。留守であっても問題ないことの口上書きをした。
11日図書江戸より帰宅、それで、書いた口上書きは不要になった。惣左衛門には、棟上げの良い日は13日が良いだろうと告げ、それであるなら近村に棟上げの餅の奉納をしたいものがあるようだから、その回状を出した。その文は次のようなものである。
・来る13日は当社御棟上げの御祝儀がある。それについて、棟上げの餅を献上したいものがあるのならば、13日の9ッ時に持参するように。そのように心がけている者があると聞き及んでいるので、これを知らしめる。
・餅を献上しようとするものは、良く水火を清めて穢気があったり不浄である者手伝って作るようなことがないように注意するように。
8月11日香取宮中
津宮村 磯山村 加藤洲村 扇島村 中須村 長嶋村
 右村名主衆中

 山崎村 丁子村 吉原村 大倉村 多田村 小野村 織幡村 幡鋒村 油田村

 篠原村 佐原村 岩ヶア村 森戸村 大戸川村

 新市場村 返田村 牧野村 大根村 大崎村 与倉村 神生村 鳥羽村 福田村 伊地山村 本矢作村 長山村
 右の通り4通認め遣わす

 棟上げの準備が進んでいるようです。御手洗も形を成してきたような感じです。石組を直したのか新設したのか分かりませんが今までと形が変化したのではないかと思われます。その結果、土が必要になったようです。現在の池とどのあたりが違うのかが分かりませんね。
 ちょっと気になるのは、この御手洗の北側かな・・・土手が作られているのか土手だったのか?左の写真の土のマウンドがね。大きく拡張した際に出た土なのか?ここの古くからの地形なのか?御手洗を埋める?って書かれていますから、何のことやら・・・まあ、江戸期の御手洗も四角い形をしていたことは、古図からわかりますから・・・

 右のがその古図の中の御手洗だと思われるものですね。

 石雁木を入れたとありますから、これ以前は石造りの井ではなく、松材とかで囲ったものだったのでしょうか?


 全体像の分かる写真がありました。左のものですね。

 実は、左の写真のマウンドの切れ目は近年の物かと気になったので探したんですが・・・右の写真の時代には既に切れ目があったようです・・・写真には写っていませんが、踏み跡の道がありますからね。この池をきちんと掘って、石を入れて囲い中に石を敷き詰めたら・・・普通だと土がかなり出るはずだが・・・そんな事を気にしちゃいます。

 なんとなく、この池の場所を1mぐらい掘り下げて、その結果が、この写真の左側にあるマウンドになったのではなんって考えてしまいます。雰囲気としては、それに相当するくらいの大きさのマウンドの様な感じですからね。

 案外、御手洗の池を埋めるとは・・・止水のために粘土質の土・・・そうだな、壁土のような物が必要でそういった土を取る場所の話なのかもしれませんね。私も、大きな池を作った時に、止水のためにベントナイトを入れましたね。ベントナイトを100kg程度手に入れるのに・・・猫のトイレ用の砂を買ってきましたっけ。あれは、ばっちりでしたね。砂地で水捌けの良い場所がちょっとした雨の後に一発で池に変わりましたからね。それとも、水を含んだ泥を取り去って、そこに壁土を入れて、割栗石を小端立って、細い方を下にして立てて壁土の止水層に刺すようにして、さらに隙間を埋める砂利を入れたか?池の中に石を敷き詰めて欲しいと願っていますから、それ以前は・・・ただ掘っただけの池か?だから、長威斎の僕が馬を中に入れて馬を洗い濁らせた事が問題になったのか?水を汲んで使うのはOK、中をかき回して濁らせるのは不可とか・・・そういえば、どこかで湧き水で水槽が3つぐらいに仕切られているのを見たことがありますね・・・水が湧きだすところは飲み水を汲む所、次がスイカなど野菜を冷やす所、3つ目が牛馬に水を飲ませたり、器物を洗う所だったかな・・・水場の水船がいくつかに分かれている場合の基本的なパターンですね。逆流防止の段差があるかチェックしないと・・・

 とにかく、現在は2つの部分に分かれていますが、その理由は不明・・・これは、文献資料がないでしょうから・・・聞くしかない・・・でも、人通りのない所だから・・・かなり困難ですね。

 さて、お役人様は、若いものを信用していないのか?しつこく上棟式は両社務不在でも大丈夫かとやっているようです。その覚書を書いて納得してもらう準備をしていると、図書が江戸から戻ってきて、せっかく作った覚書は不要になってしまいます。棟上げの日程は13日が良いという事で、それに向けて準備が行われます。ここで作られる文書がやや気になります。

 なんとなく、餅の催促のような文面に見えなくもないような・・・私の心根が悪いので、そういった読み方をしてしまうのか・・・お前さん、心の中でそうしたいと思ってるよな、私にはその声が聞こえる、餅を献上するのは苦しくない・・・はい、献上したいと思っていました。13日の9ッ時に喜んで餅を持参いたします・・・皆が出すなら1村だけ出さないわけにはいかない・・・元禄期なら、さすがに切餅を出せというわけではないでしょう・・・切餅ていうと、一分銀百枚・・・100÷4=25 25両ですね。これを四角く紙に包んで封をしたやつです・・・白銀10枚なんって話の後なんで、どうも、こういった発想になってしまう。一分銀の発行は天保年間ですから、江戸後期ですね。従って、この時代には存在しませんね。小判の紙で包装したやつは・・・包金ですね。餅じゃないよな・・・50両の包金は重いだろうな・・・およそ850gこいつを贋金にするには・・・劣化ウランとか代用になりそうな・・・金の比重は大きいので、50両の包金の偽物はすぐばれますね。湾岸戦争で劣化ウラン弾がずいぶん使われましたから、ガイガーカウンターでも使ってそれでも拾ってきて50両の包金を、江戸時代の紙を使って作ったら?質量の面ではOKだが、放射線でばれるか・・・江戸時代なら・・・タイムマシンがあれば・・・鉛で作ったら多分、500g程度にしかならないから持ち慣れていれば絶対に騙されませんね。でも劣化ウランなら・・・あれ?また何の話になっている・・・

 タイムマシンがあったら・・・コーラの瓶でも南蛮渡来の・・・いや、アスピリンでも売るか?・・・とにかく何か売りつけに行って、切餅とか包金・・・美術工芸品を持って来て・・・いや、どこかに埋めておいて回収じゃないな、・・・・そうだ、奈良時代あたりに辺境の屋敷を購入そこに立ち並ぶ蔵に色々詰め込んで・・・バブル期に売り払う・・・屋敷も手入れさせておけば千年屋敷とかで売り飛ばせる・・・これを数回繰り返せば・・・正倉院構想も悪くないか・・・千年続く博物館構想ってのが国の富を象徴できる物になるのかもしれません。まあ、その時代の比較的安価な名品を精力的に集めればの話ですが・・・神社も立ち並ぶ蔵とそれなりの奉納品の管理をしていれば、そういった物になるのでしょうが、いかんせん宝蔵が小さいですからね。結局のところ、管理の要らないコンパクトなものが残ることになるのかね?そういえば、佐倉の歴史民俗博物館は拡張性の高い建物として設計されていたような・・・近頃、行ってないですが、充実度が気になりますね。しまった・・・先へ進めないと・・・

 しかし、包銀もそうですし一分銀の切餅もそうですが・・・銀が贈答用か・・・これって何か理由があるのかね?金貨は確かに、大判金とか贈答用ですが・・・銀の方が魅力があるのか?ふと・・・御神宝の神代盾として知られる鉄挺とかが原点では?なんって・・・右がその神代盾なんですが・・・鉄製品で銀色に輝いていたら・・・何しろ、この製品が作られた時代の価値ってもの凄かったのではないかと思われますからね。

 金はきらびやかな装身具として、贈り物は銀が主流になったとか?それとも、金より銀の製錬技術の方が高度なもので、純度の高い銀の方が高価であり、さらに鉄の方が・・・とか?そういえば、金より高価な金属としてナポレオン三世時代に君臨した金属がありましたね・・・アルミニウム・・・安価な製錬法が確立して値下がりしましたが・・・アルミニウムは価値ある金属ですね。あれあれ、直ぐに話が膨らんで長くなってしまいます。まあ、人間の考える事なんってそれほど変わりませんからね。しかし、上の鉄挺は当時の価値だとどの位だったのやら?凄い価値があるなら・・・タイムマシンで・・・と、考えてしまうから駄目なんです。常に動機が不純・・・

 でも、タイムマシンと千年屋敷と呼ばれるようになる屋敷と倉庫群があれば、その時代の名品を集めた蔵を維持する価値がありますね。代々の顔の見えない当主が、その時代の名工たちに千年持つものを作れ!とやり、正倉院で長期間の保存が可能となったああいった木箱にきちんと納め、管理し続ける事ができるならね。まあ、その時代時代、壷に皇朝十二銭を10貫文とか入れて置いとくだけでも良いでしょうし・・・いかん、タイムマシンに取りつかれている・・・

 廻状で、祭礼の餅を集めるという素敵な技があることが分かりました。それから、気になるのは4つのグループに分けられた村々ですね。

発令元が香取宮中
  • 第一グループ 津宮村 磯山村 加藤洲村 扇島村 中須村 長嶋村 右村名主衆中
  • 第二グループ 山崎村 丁子村 吉原村 大倉村 多田村 小野村 織幡村 幡鋒村 油田村
  • 第三グループ 篠原村 佐原村 岩ヶア村 森戸村 大戸川村
  • 第四グループ 新市場村 返田村 牧野村 大根村 大崎村 与倉村 神生村 鳥羽村 福田村 伊地山村 本矢作村 長山村
 発令元が香取宮中なんでね、神宮とか大禰宜とかではないわけです。こういった廻状のルールが気になります。雰囲気は、宮中で上棟の餅を出そうと思っているんだ。そのことで神宮に尋ねると、13日が上棟の予定だから、9ッ時に奉納すれば儀式に間に合うからそれまでに持ってくると良いと言われた。というわけで、宮中だけが抜け駆けするわけにも行かないから、他にも上棟の餅を献上したいと考えているものがあれば、一緒に献上しようという感じなのですかね?

 地域分けも気にはなりますね。第一グループは北部の与田浦の村々ですね。第二グループは、神宮から東、第三グループは神宮の西、第四グループは神宮の南です。第一グループは右村名主衆中と記されていますから、何かちょっと特別なのかもしれません。労務の調達に関しても、このグループはちょっと違った書き方がしてありましたからね。それぞれの村名リストは、廻状の廻る順ですかね?ちょっと気になります。第一グループは与田浦のあたりを反時計回りに回るような感じですね。第二グループは山崎村が不明?だけど、多分神宮の北東の田を隔てた岬のようにも見える場所でしょう。山上に側高神社があるあたりかな?

 多分、廻状の回る順を示しているとすれば、大坂を下り、田圃や川を越えて・・・左の写真の丘のふもとのあたりの集落が山崎なのでしょう。ここを、右へ進めば丁子村、さらに進めば吉原・・・このあたりからちょっと不思議・・・まあ、いいか・・・単に山崎がどこかと思っただけで、たまたま好きな景色がそこに該当しそうだったのでね。

 左の写真の建物って現存しているのでは?かつては、桜馬場から良く見えたのでしょうがね。桜の馬場からの眺望は、この写真でも分かるように非常に遠方まで見渡す事ができますね。

 この写真で空に接している丘陵が潮来でしょうから良い眺めであった事が分かります。

 現在は・・・木が大きく生い茂り視界を妨げているのが残念です。ん十年前にはこれに近い景色が見えたことを記憶していますが・・・今は昔・・・タイムマシンが欲しい・・・さて、続きは次回としましょう。
2013.07.28

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 司法制度沿革図譜 江戸期と同時期の日本と朝鮮の司法の図譜です。なかなか残酷な・・・












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