香取神宮をうろうろ(22)
 外遷宮があって・・・

 しかし、なんで造営の最中に訴訟なんかやってるのやら?まあ、忙しい時に余計な物もついでにやると早く片がつくものですが・・・この地蔵堂はどうなったやら?今のペースで本を読んでいると、先日チェックした香取市の図書館蔵書だと古文書類の刊本が十数冊はあるようですから3年ぐらいは遊べるかな・・・でも、和歌や俳句から何かを読み取るのも悪くないが・・・飽きそうな感じで・・・とにかく、この日記を素早く片付ける事にしましょう。まだまだ予備調査みたいなものですから・・・研究ノートの様なものですね。朝飯を準備しながら、続きを眺めるとしましょう。

7月6日嶋辺やその他の者が思い思いに、職替わりの祝儀にやってきた。大勢来ていたので、御普請場へは出なかった。この日、金剛寶寺へ十左衛門がやって来て塔の土台を掘り、千本築するための土を取るべき場所の見分を行った。
この日、外遷宮に使う幕を、丹波の方でも図書方の方でも、老女たちを集めて縫わせていた。
7月7日節句のため普請は休みである。8日に十左衛門が図書の所へ立ち寄っていった。
7月9日外遷宮の支度で、仮殿の外陣は奉行方で掃除が行われ、内陣の方は神宮の者が8人で行わせた。拝殿から仮殿迄の仮の屋根を掛けて、両側に幕を張って、一間ごとに1つずつ灯し油で明かりをともした。荒薦を敷いて、きれいに掃除して、塩垢離で潔斎し夜の九ッ時分に大禰宜図書の倅の内膳仮殿へ奉仕し遷座する。権祢宜と神宮の者8人がこれを手伝った。庭上には大宮司丹波の倅蔵人とすべての神官が残らず出ていて、神事は滞りなく御神輿が渡るときには、御普請の役人たちも皆出ていた。

 さて、いよいよ本殿の外遷宮です。7月6日はお祝いの客の接待で御普請場へ出ていない、進展があったのは金剛寶寺の方だったわけですね。塔の土台の工事ってどんなものだったのやら?三重の塔だって、当時の高層建築ですからね、どのぐらい掘って地盤改良を行ったのか気になるのですが・・・土取り場を話題にしていますから、千本築に必要な土というのは・・・大津壁に使われる伏見の稲荷山黄土とかですかね?壁土に使えるような土か・・・火番所近くに出るやつか?

 外遷宮に使う幕を縫うか・・・どんな幕?紅白の幕か?鹿島神宮だと右の写真のような幕を使っていましたね・・・これは提灯待ちの時のものですが・・・これって、外遷宮?御旅所ですから・・・9月1日に本殿から20時ごろ出て神幸祭、そして翌2日午前10時行宮で一夜を明かした神様を行宮祭で祀り、本殿へ午後3時に御帰りになって還幸祭となる。

 香取神宮だと、これに相当する祭りは・・・4月15日の神幸祭か?どんな幕の色なのか気になりますね。そういえば、皇室の祝典の際は確か、黒白の鯨幕が使われていましたっけ・・・右の写真も鯨幕・・・

 神社が古くから使っているのは浅黄幕ですね。濃いめの水色と白の斑幕ですね。

 2種類の色の反物を交互に縫い合わせるか・・・白一色の幕かもしれませんが・・・かなりの作業ですね。6日から縫い始めた?9日の昼までに縫い上がっている必要があるから・・・どのくらいの長さの幕を縫ったのやら?現拝殿の前から、想定される御供所までは35mほどあるでしょう。御神木の北西にあるとすれば15mぐらいの距離・・・まあ、幕の高さによりますが・・・並幅の36cm12.6mの物で縫い代を1cmとすると1.8mの高さの幕を作ると1反で7枚の布が取れて(36-1)×7+1=246、1反で2.4〜2.5mの幕が作れる。15mで6反、35mで14反ね・・・これを両家でそれぞれ縫わせているわけですね。1間ごとに油を使った灯をつけるか・・・灯明皿はどんな風に保持している?地面に置くのか?三脚か?行燈か?気になりますね・・・薦で道を作るわけだから・・・どんな幅の道?仮設の屋根も付けて・・・結構大がかりであることが分かりますが・・・詳細は不明、誰かが書きとめた備忘録でも出てくるかもしれませんが深く追求するのは後回しですね。とにかく外遷宮は終わりました・・・

 和漢三才図会 近代デジタルライブラリー - 和漢三才図会. 巻第2 62コマ を見ていれば・・・出てますね。幕が・・・仮設の屋根のついたものを覆うなら、左の図のようになるようです。これだと、反物を切らなくてよい・・・それとも、一番上の段だけあるやつ・・・帷 かたびら か 幄 あけはり の様なものでしょうね。まあ、色々とあるようですが、このあたりが無難な線かな?なんで、和漢三才図会に気付かなかったか・・・弓具に関しても気付いたし、色々と修正しなくちゃいけなくなる・・・ここでちょっと三才図会をざっと眺めておくことにします!
九州大学 和漢三才図会 こっちの方が画像が良いや。 さて、続きは・・・

10日いつものように普請が行われていた。
11日御本社の屋根が解体された。新御本社の柱が津宮から車に乗せられて上がってきた。花園社・馬場殿の屋根が葺かれた。愛染堂の土台が据えられた。御本社の亀腹石が切り揃った。井戸が掘られていく。この日十左衛門が丹波の所へ立ち寄っている間に、集まった人たちは酒盃を進めていた。
12日十左衛門からようがあるから丹波・図書宛てに手紙が来る。2人で津宮の宿舎まで来るように。遊女や野郎が大勢入り込んでいるようだとのこと。これについて調査して追い払うが、津宮・佐原については十左衛門が担当するが、その他の神領に関しては二人が担当するようにとのこと。これにより、両町の年寄達には指示を出してある。宮下には玄蕃・文左衛門、他は馬を用意して清右衛門に指示して神領を調査させた。
この日、本殿の解体が始まった。脇高・返田のそれぞれの祝が来て拝殿を板葺にして欲しいと願い出てきた。これは図書方へ頼んだ。
13日本殿の解体が行われている。この日、返田社の下奉行青山六右衛門が落馬して怪我をしたとのこと。大工の八兵衛が怪我をしたとのこと。その実は、返田から悪所へ出かけて、喧嘩をして大分叩かれて、傷だらけになって追い出されてきたという事である。
この日、遊女・野郎に宿を取らせてはいけないという旨の証文を百姓より役人などにも取らせた。宮下にも同じようにした。
7月14日から16日まで普請はお盆休み。

 外遷宮が終わった時で、新本殿の地業は終わり、土台石の細工も進んでいるようです・・・しかし、なぜ、特に旧本殿が邪魔でないのなら作業を進めないのか?旧本殿所在地には参籠所がかかるのか?御本殿の亀腹石がそろったという事は、土台石はすべてそろったことになるのでしょう。井戸掘りも開始ですね。この日の酒宴は何なのでしょうか?ちょっと気になります。

 遊女野郎か・・・普請場につきものの連中ですね。トラブルのもとになるという事ですね。既に、大工の八兵衛が袋叩きにあっていますから、そろそろ問題になって来ているのでしょう。物価が高騰し、遊女野郎が入り、次は博打ですね。このあたりの胴元は・・・笹川繁蔵が1810年生まれですから、あと100年以上の年月が必要です。一応、繁蔵親分は香取郡須賀山村大木戸の生まれですから・・・でも、小見川と東庄町の境ですね、そういえば、初代松本幸四郎の方が近いか・・・1700年ごろは江戸で活躍していたのでは?博徒ではないですがね。佐原の侠客は・・・佐原 喜三郎が有名ですが、この人も1800年代前半に暴れた人ですから・・・近代デジタルライブラリー - 日本侠客銘々伝 関東取締役が出てくるのは1800年代ですから、この時代には、それほど大がかりな博徒集団は存在しないのかな?これも、ちょっと気になります。おっと、また変な方へ進みそうだ・・・

 拝殿を板葺にしろか・・・板葺にするという事は、現状は萱葺ですかね?本殿の解体が始まると、ちゃんと事件が起こっていますね。青山さんは落馬して怪我するし、大工も怪我・・・袋叩きで放り出されたという事ですがね。お盆休み前に、女郎野郎の追放を行うという事です。さて、続きは・・・

16日十左衛門から丹波・図書方へ御宝物の見分に仏師のこうじゅんという者がやってくる。金剛寶寺の仏像も見るようにと、このほか宝物を見分する物も明日17日にやってくるとのことである。その見分には十左衛門も同席すると、先に仏像の見分は言われていたので、図書が立ち会って仏像を見せた。
17日坂本屋弥七・折戸小左衛門という者の手代がやって来て宝物の見分を行った。この宝物は、16日の晩のうちに、内院の者に言って手元に持ってこさせてあったもである。
17日十左衛門がやって来て、宝物見分の手代たちに見分の内容を書きつけにするように指示した。金剛寶寺の宝物の方も書き出して、詳細な仕様帳が出来上がった。

 宝物の見分です。この仕様帳が見たいものですね。寺社奉行が管理していた書類が残っていると面白そうなんですがね。どうなったのやら?でも、膨大な資料があったら・・・何だ〜そうだったんだで終わってしまいますからね。それでは面白くない・・・さて、続きは・・・

7月18日十左衛門が会所にやって来て、そこへ呼び出された。遷宮の日程が9月20日以降の良い日を選ぶようにと言われた。そこで調べて9月23日24日が良いだろうと、それより後だったらいつがいいとのことだったので28日29日が良いと言ってきた。
・本殿の柱を建てるのは、8月9日10日が吉日であると丹波が告げた。
・返田・側高の拝殿はこけら葺にして欲しいと書類にして十左衛門の手代の半田弥一右衛門へ提出した。
・本社拝殿と楼門の間に両端に石を入れて、その間に割栗石を敷き詰めて欲しいと願った。楼門の左右五十間ほど柵を作って欲しいと願った。幣殿・拝殿・参籠所についても所々願う。小末社五三社こけら葺にして欲しいという願いの書面も弥一右衛門に差し出した。
覚え
幣殿・拝殿・参籠所の配置については神事の都合もあるので考えてもらいたい。
拝殿より楼門の間の土地には庭上の神事で雨が降った時には、神座に苦労するので、両側に石を入れて、その間に割栗石でも砂利でも敷いていただけるとありがたい。
楼門の左右に柵を50間ほど作ってください。用材はこちらで指示して出させますからお願いします。
末社の内五三社萱葺になるようですが、そうなると五三社は数年も持たずに壊れてしまいますので、こけら葺にしていただきたい。

 まだまだ色々な請求をやってますね。茅葺の屋根よりこけら葺が好きなようです。まあ茅で葺けば耐用年数は20年ぐらい、ヨシで葺くと40年ぐらい、こけらでも40年ぐらいですが・・・こけら、つまり板葺の方がカッコイイですから。さらに桧皮葺なども40年程度ですがこちらの方が高級感があるような・・・それから、この時代の祭礼は、基本は庭上のようですね。拝殿内部での儀式というわけではないようです。鹿島神宮もそうですね。良き日か・・・これって何で決定しているのやら?そういえば、香取神宮の神札授与所に、暦が置いてあったような?どんなシステムなのか?六曜は旧暦だと毎年同じだし、旧暦の干支だと60年ごとに同じになるけど・・・何かで干支のやつを見たような・・・そのうち思い出すかもしれない・・・

 ところで、五三社って何?これも初見かな?末社は新しくしたり、修復する末社の数は15社だったかな?まさか5×3=15社?これぐらいしか思いつかない・・・しかし、これは何なんでしょうね?

 とにかく、色々とおねだりしていますね。ん?・・・・今更なんで?

 もし、右の図のように旧本殿が御神木の北西にあったのなら・・・御供所は神木の裏側になります。御供所と本殿の距離が短かったのが、造替によって30mを越えるぐらいの距離になるような感じです。そうなると、神事のパターンが変わるのか?

 幕を縫う老女の会話が聞こえそう・・・今回はずいぶん長くなったね。縫うのが大変だよ、でも次回はこれの3倍から4倍も縫わなきゃいけないよ・・・次回は私たちじゃないとは思うけど・・・

 ついでに神夫の会話も、今回はずいぶん長い屋根を作ったね。以前の御供所なら2間ぐらいだから簡単だったけど、今回でも灯明皿もあちこちから探してきて、荒薦だって何枚敷いた・・・新しい神殿は遥か彼方だよ、俺たちは10人しかいないんだから・・・増員してもらわなきゃ無理だよ。警備だって、今回は矢来もあるし、正面に3人ぐらい棒を持って儀式の庭に入れないようにして、脇に2人、裏にも1人で済むけど・・・新しい神殿のまわりは何処からでも人が入れるから楼門の左右に棒を持って並ぶだけでも10人じゃ足りないよ!

 それから、参籠所が右の図のように神木の南西にあり、中門が存在しているという構成なのが、本殿・幣殿・拝殿-参籠所-御供所というつながりになりますから、これまたずいぶんと人の動きが変わると思われます。

 庭上の儀式がどのくらい変化する?何しろ、元の庭は中門前の神木と参籠所の間の庭ですが、それに比べると遥かに広大な庭になるわけです。神餞の動きと、神職の動きが重なるわけです。ふむ・・・案外、昭和15年の改修で、御供所である神饌殿の位置が三本杉の方、愛染堂のあたりに移動したのは、そういった神餞と神職の動きを古に戻す意図があったのか?なんって、勝手に想像してしまいます。

 まあ、幕府側のデザイナーは壮麗な権現造りを作りたがり、神宮側もそれに乗ったのはよいが、幕や仮設の屋根を作って考え込んでしまったのでは?今までは、1反をそのまま使えばOKだったのに、今度は3・4反をつなぎ合わせて幕を作り、仮設の屋根だって3・4倍の長さ、資材が沢山必要じゃないか!って・・・雨の中だって、前の本殿ならそれほど濡れずに済んだし、ぬかるみを渡るんだって大したことなかったのに、今度は延々と濡れてどろどろの上を歩いて出て祭礼だぞ・・・日にちの決まっている祭礼を、雨天順延にできないし・・・よし!敷石だ!それから、仮設の通路は止めにして恒久的な渡り廊下を作ってもらおう!ってなったのでは?

 結果は、右の写真のように拝殿と参籠所を結ぶ長い渡り廊下では?ついでに、祭式そのものも、庭上から、一部は拝殿での儀式へとシフトしたのではないかと・・・

 そして、以前の小じんまりした空間が、急に広くなり、庭上の儀式に邪魔な部外者の侵入を防ぐためには大人数が必要になる・・・造替の外遷宮では周りに矢来があって、入場者の制限を簡単にすることができたが楼門の左右は開いているし、警備員を雇うか、幕で仕切るとか何かしなきゃ!入場者を制限する柵がなきゃ無理だ!柵を作って頂戴!となったのでは?

 妄想も派手になります。こうなると、古の祭祀の形態も気になってきます。続きは・・・

19日会所で十左衛門が言うには、下役人が来ない間は、神宮と金剛寶寺の方で木戸番の者を出すようにと丹波へ頼んだ。19日の晩から、宮中から1人、宮下から1人、御手洗から1人、金剛寶寺から1人、社家加番から2人の合わせて6人を3カ所の木戸番として2人ずつ配置した。この日愛染堂の柱を建てた。井戸は20尋まで掘って今日水が出る。

 どうやら、警備が手薄な感じなんでしょう・・・多分、物がずいぶんとなくなっているのではないかと・・・なんとなく、このパターンって良くないパターン対策か?人の目をぬすんで、何かをされてしまう場合、目をぬすまれる者の責任を追及すると、何かされてしまわなくなる時があります・・・まさか、そのためか?

 警備の方は、古い話で分かりませんが・・・井戸は凄いですね20尋っていうと35mを越える深さまで掘っていますね。これって・・・周りの田圃のあたりと同じ高さじゃないですかね?基本的には井戸を掘るのが困難な場所で、神宮が創建されてから2300年ぐらいに亘って井戸が無く、神宮の山のふもとの井から水を汲んで上がってくるという生活をしていたとか・・・

 これだけの深さの井戸ですから、どんな風に水を汲み上げていたのかちょっと気になります。まあ、はねつるべは無理ですから・・・そういえば、何かの本でどこかの深井戸の水を横にロープを引いて水をくみ上げているのを見たような・・・

 でも、20尋ってかなりありますね。まあ、水桶を亀甲山の下の井から上げてくることを考えると便利になったと言えるのかもしれません。

 あれ?ふと・・・境内に井戸はないといいますが、水が無ければ生活できない・・・宮下の大宮司邸の水は何処から?これも氷室坂下の井から?宮中の大禰宜邸の水は大阪下から担いで上げていた?これはないでしょうが・・・まあ、普通山の頂上みたいなところはあまり水は出ないことになっていますが・・・しかし、どうなっていたのやら?そういえば・・・鹿島神宮の近くの神野のあたりも高台で井戸が非常に深く、所によっては谷津の下まで降りての水汲みとか・・・結構大変なところだけれどもそういった所に暮らしていますから・・・OKなのか?

 でも、20尋の井戸だと、手漕ぎのポンプでは大気圧による限界によって水は上げられませんね。そうなると、かなり時代が下って動力ポンプの導入でつるべが廃止になったとか?深井戸用の動力ポンプが出回るのはいつごろでしょうか?これも、ちょっと気になりますね。

 しかし、旧参道の大鳥居脇には池があったような感じですし・・・

2013.07.19

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