香取神宮をうろうろ(21)
 建物が建ち始めて・・・

 なんだか、良くわからなくなってきました・・・なんとなく、本殿は南東に向いているような感じになってきましたね。そう、最初の方で古図との兼ね合いで作った図に近くなってきたような気がします。

 右のやつですね。日記の中に現れませんが、本殿の向きを南東から南へと変えているのなら、話は合うような気がしますね。

 しかし、1700年ごろで何故、本殿の向きが真南から少し東へ振れているのか?これも気になりますね。伊能忠敬が生まれるまで、後50年近くありますが方位の測定ぐらいきちんとできても良さそうな気がしますがね。

 この時代の、方位磁針を使わなかったのか?方位磁針の示す北磁極との偏差にしては差が大きいような気がします。関東地方だと西偏8度程度?しかし、16度ぐらいのずれがありますね。どうやって南を出した?気合か?それとも、美的センス?こいつはちょっと分かりませんね。

 しかし・・・私の頭の中に入っている香取神宮の建物群の周りの道がぶれる部分があります。それは香取文庫の裏のあたりなんです。なんとなく頭の中では香取文庫のすぐ裏あたりに道があったような記憶があるんです。社務所などの裏を通って香雲閣へ行く道が、違うような?気のせいですかね・・・まあ、いいやってね、半分投げてますが・・・自分の記憶が当てにならない・・・って

 さて、とにかく読み進むとしましょう。

24日愛染堂胴築終わる。拝殿の穴築、楼門の穴築、御供所の屋根と造作が行われている。この日花塚次兵衛がやってきた。親しくなった。
25日朝食前から神領の人足を出して、参籠所の予定地の地業を行った。楼門の穴築も続いている。
祢宜に小次郎が宮之助に願いどおりになって任命状が来たことを知らせた。この書付は大宮司宅にある・・・前大宮司息子が大禰宜になって、前大禰宜が大宮司に入れ替わるんですかね?・・・そういった内容があります。
18日惣持院・金剛寶寺知行の件について、丹波と図書両人が口上書を取りそろえた。この口上書には、金剛寶寺の後ろ隣の屋敷である妙塔院が支配いたして来る。この度金剛寶寺が願っていた通り、口上書を作った。もっとも寄合が終わっても居たので、料理など御馳走になった。それから、播磨守・飛騨守・丹後守へお礼に行った。
この日の晩方、丹後守より丹波の所へ宮之助と一緒に明日の朝に来るようにとのこと、28日朝ハッの予定だったが、昨日の口上書の件で聞くことがあり書き換えて版を押せとのこと書き直して直ぐに終わらせてきた。この日伊賀守へ昨日のお礼をしてきた。この日の夕方、丹後守から志摩守のことで丹波に、29日に来るようにと知らせがあった。丹波が出かけて行って。金剛寶寺・妙塔院合わせ絵図申しつけて、丹波図書両人で確認して間違いないようにとのこと。この日、出羽守の役人の所へ行って来た。晦日に帰る。

 愛染堂の胴築が終わる・・・ああ、旧愛染堂はどうなった?何日かの記録の紛失でこういった事が分からなくなってしまうんですね。拝殿の穴築?穴築って初見かな・・・穴を掘って土台を築くなら・・・そうそう、関係ない奴で見たっけ・・・右の図のようなやつかな?穴を掘って割栗を入れて突き固めて、その上に土台の石を入れているようですから・・・本殿と拝殿では土台の作り方が違うのか?ちょっと気になります。

 右の図は前回の 日本建築雛形新撰吹き寄せ集 からですね。意外と役に立つ・・・さて、御供所の完成を急いでいる感じがしますね。何しろ、これが先行していますから。という事は、旧御供所を仮殿にするのではなく、新御供所の裏に神輿を置くスペースを作るという事なのでしょうか?

 ちょっと、備忘・・・御供所は、昭和15年の改修より少し前に既に存在していないようです。案外、明治28年頃からの改修で、社務所に包摂された?しかし・・・昭和9年ごろまで残っていたか?昭和9年頃に、楼門前の馬場が改修されていますから、この頃あたりから皇紀2600年事業が動きはじめたとか?神餞のために、御供所は存続し続けなければなりませんから・・・でも、食べるのは人ですけど・・・神様は、捧げられることだけで満足できるようですから。それから、明治の改修で、手水舎が楼門前の現手水舎の向かいあたりに移転していそうです。

 さて、参籠所の地業がはじまったと・・・多分、旧神饌所ですね。参籠所が名を変えたと思われる場所ですが・・・現神札授与所のあたりでしょう。そして、役職の変更があります。大禰宜は大宮司になり、前大宮司の息子は宮之助に、職替えの話になっています。そして、もう一件のよくわからない話・・・惣持寺と金剛寶寺が、丹波と図書って言うから前大禰宜と言うか次の大宮司と図書は宮之助になる前大宮司の息子の小次郎ですかね・・・それが、訴えの書状を作ることになるわけです。寄合の後で、食事が出て・・・あちこちお礼って・・・これは江戸での話ですかね?28日に出向く予定が、翌日の呼び出しになって・・・再び29日に出向く羽目になって、さらに図面の作成確認までする事になって・・・6月の末に江戸を発ったという事のようです。

 このあたりは、香取大禰宜家日記 1 - Google ブックスには含まれていないので、図書館を利用してきました。幸い、車で10分ちょっとの所の図書館に本があるからいいものの・・・ちょっと前までは役職で書いていたものが、役職が変わったので、人名にしたけど・・・それで、やや私は混乱してます・・・人事系の話は面白くないし・・・先に進めましょう。

7月
7月1日丹波・図書・金剛寶寺、江戸から帰って来た。
この日、十左衛門が参詣にやってきた。図書が出迎えて、外遷宮を急ぎたいと告げた。吉日を選んで、丹波と相談の上、書類にして判を押して夕方に出すようにとのこ。今度の9日に下遷宮の書付を作り判を押して、夕方図書が津宮の宿舎へ届けに行った。このとき、蔵人・権祢宜も一緒に行っていた。この日、御本社の亀腹石をはめで、板を削った。御供所の内装はまだ続いている。
7月2日十左衛門が会所へやってきた。公儀より申し渡したいことがある、社家に徹底するようにと文書が来た。総州香取社の修復に関して、請負人たちがこの地に入っていて、色々な物は当所の値段で売買するように。それと、宿代なども相応なものとするように。人が色々入っているから、値段が上がるようなことになるから注意するように。
もう一件あって、物価の値上げを抑制するように指示を出してきた。

 外遷宮の話が出てきました。いよいよ、古い本殿の解体が現実のものになるわけです。(7+9)÷6=2・・・4だから先負かな?どうやら六曜は関係ないような感じです。何を基準に良い日なのか?ちょっと気になります・・・奇数か?3×3で奇数を重ねた日とか・・・御本殿は亀腹石だから、土台はかまぼこの様な形の石をびっしりと並べてその上に材を渡して立ちあがっていく形式でしょう。御供所の内装が終わりそうな日を選んだだけなのか?

 大きな普請なので、方々から人が入って地域経済が混乱することに対して幕府から指令が出るわけですが・・・これは何のため?造営費用が膨らむからか?江戸時代も経済政策はちゃんと行われているし・・・そういえば、麻生藩なども子供手当や妊産婦の医療補助とかやってたっけ・・・江戸時代が前近代的なろくでもない時代だったわけではないのであります。

 さて、続きを・・・

2日返田社の外遷宮のため、内膳が務め、副之祝・大神主・四郎神主・田所・幣所・一ノ神夫・返田神主が潔斎塩垢離を鶏が鳴く頃に外遷宮を務めてきた。2日の夕方に出かけて3日の朝に帰る。
7月3日側高外遷宮のため、返田と同じように、内膳が出かけて務める事になった。そのほかのメンバーも同じで、3日の晩方に出かけて4日の朝に戻ってきた。神宮のお偉いさんの職が色々と変わるので、側高から寄り道することなく大祢宜の家に戻る。
7月4日丹波が大宮司家へ、図書大祢宜家へ、小次郎は宮之助家へ移る。
この日、社家の者が残らずお祝いの挨拶にやってくる。御普請奉行の役人たちも、請負の職人たちも祝儀にやってくる。町内の者だけでなく、近在の名主や年寄連中も祝儀にやってきた。
7月5日金剛寶寺の堂塔の様子を示した絵図について、丹波と図書が立ち会いの下で絵図が完成した。
この日。平岡十左衛門がやってきた、堂塔の在所一覧持出来た。御普請の方では塗装も始まった。

 外遷宮が続きますね。返田・側高と続けて外遷宮・・・本殿の修理が本格化するという事です。当然のことながら、沢山ある末社・摂社の新築及び修理も進んでいますから、短期集中の効率の良い作業を行っていることになるのでしょう。さすが、江戸時代の日本人もやるものです。7月で鶏の鳴く頃って、午前2時ぐらいですか?香取の神様は日の出とともに移動なんでしょうか?神様に聞くわけにもいかないし・・・

 そして、丹波・・・旧大禰宜が大宮司になり、図書が大禰宜に、小次郎が宮之助になるわけです・・・役宅なんですね。皆、ぞろぞろ家移りをするわけです。こういった、神宮の職制や遷宮などの儀式以外に、香取神領では土地境界の争いをやってるんです・・・ここで出てくる金剛寶寺の絵図なんですが、ちょっと先に妙塔院との土地争いが幕府に提起されているのです。何を今更、金剛寶寺の絵図なんだ?金剛寶寺の古い堂塔は解体されつつあるだろ?ってね。なんだか複雑・・・思考強化剤Bでは駄目でJが必要です。御普請の方は塗装も始まったようですが・・・完成しているのは何?って感じです。

 日記の中には、この後金剛寶寺と妙塔院の訴訟沙汰の書付が入っています。内容が分かる程度にいい加減に意味を取ると・・・

・金剛寶寺・妙塔院出入りの書付   申し上げたいことを文書にしました
下総の国香取明神の塔の支配のことで、金剛寶寺が訴訟していることについて、よくよく調べて決めてください。私どもの寺院の境は、双方が差しだした絵図に間違いありません私どもが、最善に出した絵図は間違いがありました。立ち会いで作った図面で明らかなように、相違ありません。地蔵堂は、敷地外へ引っ込めることは、事は最前に出した絵図のようにします。地蔵堂は早速引っ込めます。私は在所で閉門して、必ず蟄居いたしますのでこのように取り決めます。

 こんな感じの詫び状を出して結審という事のようです。これでは内容が分からないだろうからと、注釈が次のようについています。

これは、金剛寶寺裏通りの妙塔院の管理している堂が境内が狭いので、以前から、金剛寶寺の土地へかかって、観音の土地を狭めていたので、観音の土地を元の広さにしたいという訴えであった。裏通りの件は、堂は地内に引き入れる事になったようで、絵図を調べた上で、金剛寶寺の願いどおりになった。

 こんな感じですね。どうやら、金剛寶寺は妙塔院に接しているようですが・・・妙塔院って何?地蔵堂があることは判ったが・・・香取参詣記には右のような図が出ていて別当の大神宮寺=金剛寶寺、三重塔と本堂・方丈・鐘楼・山門がある大寺ですね。この山門の階段の先には不断所があって、妙幡院と法塔院があるようです・・・妙塔院って・・・妙幡院と法塔院を足して2で割ったか?寺院の合併?それとも別の寺院?

 ふむ・・・この図の位置関係が正しいとすると・・・方丈の位置に今の祖霊社があって、手水舎の位置は変わっていなくて、山門のあたりを掘削して旧参道が作られ、手水舎の所へ階段が伸びている事になるのか・・・旧金剛寶寺の本殿は、旧参道の上に浮いていることになる?鐘楼は、消防団の機材倉庫のあたりか?妙幡院・法塔院は大駐車場わきの尾方木材の北の旧参道側あたりになるのか?

 確か、旧参道を登っていくと、途中に右へ上がる細い道があったっけ・・・それの先が妙幡院・法塔院などのあった場所か?航空写真で見ると家が建っている所が、この件で話題になっている地蔵堂の位置?金剛寶寺の敷地をほぼ正方形とすると、この家の位置が金剛寶寺の敷地に食い込む形になるとか?

 こりゃ、このあたりの土地宝典を探すしかないか・・・香取市の中央図書館に行くしかないか・・・いかん、思考強化剤Jが利きすぎて来たWにして寝るか・・・段々、書く文が変になってる・・・意味を取り違える・・・妄想の世界に入りそうだ・・・しかし、香取神宮の森は凄いね、羽黒山みたいに堂塔が立ち並んでいたんだと思うわけです。これなら、かなり強力な観光地だぞ!って・・・でも、諸神塚=雨乞塚なんって見て瞬時に別の所ではなく・・・この場所は、かつては香取神宮参拝者の立ち止まるところで、大坂を上がると右には三重塔と、香取の本地仏である大きな十一面観音像を納めた本地堂がありました。左に進むと香取神宮の境内になります。正面には不断所があって、ここで香取神道流の流祖が籠り、香取神の導きにより一流を開くことができました。不断所の道の先には、香取神の荒魂を祀る奥宮があります。って指を差しながら解説したら・・・さらに、右に見える消防団の機材庫のあたりが金剛寶寺の鐘楼のあったあたりで、この旧参道が開削される前には、あのあたりに本堂があり、三重塔が機材庫の先に聳えていました。今では、その面影は祖霊社の階段を上ったところにある手水舎の水盤があるだけです。・・・この場所は、重要な場所で、このあたりの土地の所有権をめぐって、金剛寶寺と、今はありませんが、三重塔の脇のあたりに妙塔院の地蔵堂が金剛寶寺の敷地内に入っていると言って、江戸幕府が裁く訴訟になり、さらに、この雨乞塚から、表参道の大鳥居に続く道に大きくせり出した店のことで、金剛寶寺と不断所の間でも幕府が裁く訴訟になりました。元禄13年の造営で、香取神宮も金剛寶寺も一新しますが、その際、この大坂を登る荷車の通路になるため、この不断所の前の鍛冶屋であった伝の母親の小屋が立ち退くこととなりました。このとき、津宮から運ぶ資材を乗せた石車が、佐原のお祭りの山車の原型になったようです・・・とか、ガイドに喋らせると・・・15分は持つ観光地に化ける・・・さあ、そろそろ寝よう・・・思考強化剤は止めですね。しかし、かつてはこういった場所だったんですね。

 なんだか、観光ガイドのマニュアルみたいになって来てる・・・と、朝起きて眺めて笑っています・・・さて続きは・・・本社の外遷宮の話につながるやつになりますから稿をかえる事にしましょう。

2013.07.17

関係ないが、興味深いもの












inserted by FC2 system