香取神宮をうろうろ(20)
 建物が建ち始めて・・・

 石の産地を知るのもなかなか難しいし、石の積み方の系統もありますから・・・そのうち、気合を入れて学ばないと、知れば知るほど自分の知識の無さに気付くという事になります。すべてを知るというわけには行かないわけですが・・・好奇心がね。

 しまった、変なところで切ってしまった・・・8日の記事がつながっていることを忘れていました。読み取りが困難な文章が出てくると、どうしても逃げたくなるので・・・というより、時間を空けると、それなりに意味が取れたりするので・・・って言い訳ですね。フィールドワークというか、ぶらぶら眺める方が面白いですし・・・基本的に非真面目な人間なんでね。でも、頭の中では滑川の観音様で見てきた石と、記憶の中の香取神宮の石組を思い起こして、江戸時代の石組の範囲を推定しているんですけどね。古い石組には2系統あることには気づいていますが、細かな石材の違いなどを気にしていなかったので、近いうちに再び香取神宮をうろうろする必要がありそうだとか・・・考えるわけです。とにかく続きは・・・

8日千本築が続く。石が上がってきた、御供所の資材もだ。幣殿・拝殿の材木が上がり始める。毎日津宮より宮中まで車は絶え間なく往復している。車が通るごとに木遣で大勢の人足が引き上げている。賑やかなことである。
この日、楼門の予定地を3尺掘り下げて、10日から千本築が始まる。これは話があって、入札で津宮藤右衛門が請け負う事になった。14日に千本築が終わった。
9日神領の全ての人足を出して、仮殿の地行胴突をはじめる。
この日、矢来を作り始める。二の鳥居の上から大細工屋敷の後、愛染堂・経蔵の後の護摩堂屋敷の境、おかま掘りまで、的場より宮下上り口、市神の後まで竹でぐるりと作って出入りできないようにした。二の鳥居の所に木戸口を1か所、おかまの方は的場の先に1か所木戸口をつけた。もっとも番所があって、両奉行より足軽の2・3人ずつ昼夜番する者を置いた。宮下の上がり口に拝み所を作って、参詣の人に仮殿を拝ませます。この方にも池の脇に番所を建てて、社家の3・4人ずつをかわるがわる昼夜の番をする。
この日、御本殿彫り物はずして江戸へ発送した。

 楼門の土木工事が始まるわけです。ここで良くわからない言葉が・・・是は渡りになり、入札にて・・・渡りって何だ?延期?予定が変わって?8日に3尺掘って10日に千本築がはじまる。ここに渡りがあって・・・何か事件があってその話し合いで・・・入札によって津宮藤右衛門が請け負う・・・とにかく、14日には地固めは終了したわけです。

9日、神領の人夫がでて仮殿の胴突がはじまった・・・仮殿って何?ってなるんでね。仮殿になるのは御供所の仮設の下屋に置く神輿なのでは?そうなると、古い御供所と新しい御供所が並立するという事か?新しい御供所を先に作り、そこの仮設の下屋に神輿?読み進まないと、このあたりは判りませんね。古い御供所と井戸の関係は判っています・・・火の用心のために御供所の前に井戸を掘ってほしい・・・ってやつでね。井戸の位置は多分、現在の神札授与所と宝物館の間だと根拠もなく信じていますから・・・井戸の後に御供所・・・何に対して後?本殿であるのなら、現在の宝物館の位置に旧御供所があって、現在の神札授与所のあたりに参籠所があって、現在の宝物館の前あたりに御供所が作られるのか?
 右の図が、元禄の造営後の様子でしょうから、参籠所の後に井戸があると思われます。その脇だから、現在の宝物館の入口に接するぐらいの所に御供所が作られることになった・・・旧御供所の位置は右の図の神木の後という事になるのでしょう。

 この日は矢来も作り始めます。この時代も工事現場を囲むという考えがあったのですね。でも、多分・・・現在のように安全という事より、建築資材や道具の盗難を避けるためのような気がしますね。なんとなく・・・しかし、部外者を排除するのなら、作業員を識別する手段があってもよさそうです・・・普請場をチェックしている際に、首からかける木札のことを目にしたような?気のせいか・・・人足札だっけ?

 確か・・・焼き印の押してある面と反対は壱人とか記したやつ・・・現物はどこかの郷土資料館で見たような?あれってどういった使い方をするのか?現場に入るときに受け取って、現場を出る時に賃銀と引き換えに返却?壱人って、高度な技術者の場合は2枚とか3枚もらって割増しになるとか?おぼろげな記憶か、我が妄想か不明・・・そのうち、江戸時代の人足運用術でも調べるとしましょう。

 竹矢来が設置された場所が問題ですね。二の鳥居の上から大細工屋敷の後、愛染堂・経蔵の後の護摩堂屋敷の境、おかま掘りまで、的場より宮下上り口、市神の後まで竹でぐるりと作って出入りできないようにした。二の鳥居は旧参道の大鳥居でしょう・・・多分、すると、右の図のようになると思われます。おかま掘りが不明なんですが・・・

 二の鳥居から大細工屋敷が実は不明、多分境内続きの高台ではなく、その下だと思うのですが、現在巨木の置き場になっているあたりか?・・・大細工屋敷と愛染堂・経蔵の間に矢来が伸び、その端が護摩堂屋敷までなのでは?おかま掘りと的場の方がセットで、的場は星塚では?このあたりから、二の鳥居に向かって、宮下上り口を経て、市神の後までなら、右の赤い壁ができると考えられます。

 そして、出入り口は二の鳥居の入口と、的場の先に、それぞれ木戸口を作った・・・という事は・・・現時点での表参道と、古の表参道が開いていることになるのでは?しかし、ここで再びよくわからない仮殿が出てきます。宮下上り口に拝み所を作って仮殿を拝ませる・・・ちょっと御供所と離れている・・・ここの仮殿は仮の拝殿という事なのか?そして池の脇に社家の人が詰める番所が作られます。池のはた・・・多分、現在の旧参道の大鳥居の跡から、総門下へ抜ける道になっている場所あたりに池があったようです。その脇の現在の総門下あたり右上の図では石段下の鳥居が立っている場所の脇あたりの高台ではないかと思います。読み進めば何か分かるかもしれませんが・・・そうそう、的場の位置が星塚の事であるなら、3間25間の小屋の位置は最初の想定よりずっと東の位置、現在の諏訪神社から、総門のあたりまでという事になるのでしょうか?

 いずれにせよ、警戒はかなり厳重です。囲った上に常時8人程度は守衛が居そうですから、そして、参籠所にも誰かいるのでしょうからね。この時代、護摩堂が現在の本殿の後の森の中にあったという事のようです。そして、本殿が後に下がって現在の位置になったため、火の用心のために、護摩堂は移転・・・多分、本殿の北東の方へ・・・よくわかりませんが・・・神宮の中心部分は小字が失われているような感じです。文献資料のなかには「ごまんど」という小字の所に、かつて護摩堂があった・・・そういった書き方をしていますから。

 ちょっと気になるのは・・・上の図の現在の旧参道の石段です。元禄の造営の際にはこの石段があったのか?あったとしても、土で埋めるなりしてスロープにしてやれば、造営の材料の運搬に都合がよさそうです・・・ただ、気になるのは市神の所に門のような物があります。これは・・・多分通用門の様な感じですから・・・金剛寶寺の図の中にも、山門の脇にこれと同じような門のような物が書かれていますから。しかし、石段はあったのか?これも気になるものです。この部分に関して、神宮境内側から見た様子は右上のようなものになります。なんとなく、朱の囲いを取り払うと先の道へうまくつながるような気がします。多分、この先の左に池があり、この右側に市神が祀られていた場所ではないかと思われます。この部分の様子を描いた古図は次の様な感じですね。

 この神池が気になりますが、現在はこの場所よりはるかに南の低い場所に昭和55年に竣工しているようです。こりゃ、先に、現在存在している物のリストと、それはいつ作られたものか明らかにして、1つずつその来歴をチェックしていった方が良いのかもしれません。まあ、遊びの研究だから・・・気が向いたら、後でまとめとして、造営年表のような物を作ると良いかもしれませんね。

 あれ?右の図・・・石段の位置が現状と全然違う・・・これは図が間違っているのか、現状が変わったのかどっちだろう?凄く気になる。現状では、階段の上部が、石垣に接しているのですが、この図では、石段下部が石垣に接している。元禄の造営の時点と、現在の階段は別物なのか?気になりますね。改変があったとするとそれは・・・明治28・29年年ごろの改修と、昭和15年のですかね。明治時代の改修の史料がほぼ皆無なんで、何処がいじられたのか分からないですね。昭和15年の改修で馬場が広くなり、手水舎が楼門の外に出てきたことは判りますがね。

 そして、この日は、本殿の彫刻を外して江戸へ送ったという事ですから、彫り物の類は江戸へ運んで修復することになっているのでしょうか?ちょっと気になります。そういえば、どこぞの山車は、彫刻類は山車から外して箱に入れて保管してましたっけ。それと同じで、彫刻類は建物とは別のものであるのか?道具・・・こういった付属の装飾品の事を言うのか?かなり気になります。

 しかし、御供所はどんな建物だったのやら?それから参籠所は・・・昭和15年以前の案内図には旧神饌所と記されている物が参籠所なのでしょうか?

 右の写真が、旧神饌所、造りからすると古い絵図に出ている参籠所のようは雰囲気を持ったものです。人が生活する建物という感じですね。よく見ると、建物の右に囲いがあって、そこに玉垣のような物があります。案外、これが元禄13年に掘られた井戸なのかもしれませんね。未だにこの場所にあるのなら、ここは・・・宝物館の入口の裏あたりになるのでしょう。違うかな・・・つるべとか上物がないから・・・手漕ぎのポンプ?ここじゃないのかな?もう少し右の方?

 さて、先へ進むとしましょう。

10日本社の千本築は前と同じように続いている。この日、鹿戸村・今泉村・窪谷村・今郡村から人足がやってきた。経蔵脇にも小屋が作られた。御供所の地業も行われている。
11日御宮の後に小屋をかけた。この日御本殿の千本築が完了した。
12日参籠所を解体した。三間の石小屋を作った、石切りも始まり、御供所の胴突は続いている。
13日御本社の亀の甲胴突が行われる。この日御供所の敷石が切り揃った。
14日御本社地業でサイトリ胴築が行われた。この日、御供所の切り石敷設、御供所にかかる杉の枝を宮下八兵衛が登って切った。銚子八左衛門という者が、砂利を四俵寄進してきた。
15日御供所の際の枯れた杉を伐採した。この日、御供所の柱を建てる、拝殿予定地の水平出しを行った。
16日金剛寶寺の建て替え予定の堂塔を解体する。
17・18・19・20・21の書き留めたものを紛失してしまった。ただし、普請は順調に進んで、別段何という事は無かった。
22日大風雨、御本社の小屋・塗り小屋が壊れた。杉の木が3本根こそぎになって倒れた。
23日御供所の屋根をふく、御本社柱石切り揃う。御供所の内装に入る。

 経蔵の脇にも小屋が掛かり、御宮の後にも小屋ができ、本殿の千本築が終了します。そして、参籠所が解体されて・・・ちょっと調べ物をしていたら胴突に関する資料が1つでてきました。右の図です。これは春駒胴突というもので、江戸のタコ胴突に類似のものであるとのこと。

 江戸のタコ胴突の用具は、円筒形の木材に2・3本の柄をつけたものですね。右の用具は4本のロープに1人ずつ、柄を持つ者1名の計5名で操作する胴突です。

 動物の形に見立てての名前ですから、この杵のような形は春駒と言っても良さそうです。そうなると亀は?どんな形が想像できるか?杵の頭が短く太い、それに応じて柄も短く太く、亀の足に見立てる形は?なんとなくイメージできる気がしますが・・・そのうち、図か解説が見つかるかもしれません。これは、近代デジタルライブラリー - 検索結果 駿国雑志 に掲載されているものです。確か8巻かな・・・

 石小屋を作って石の加工がはじまります。この小屋ではどんな作業をしていたんでしょうか?ちょっと気になります。規格部材を切るとかそういった小さな加工でしょうか?

 野面積みの石垣作業は見たことがありますが、切込接なんって高度な技法の作業現場なんって見たことないですから・・・香取神宮の江戸時代の石垣にはこういった高度な技法の物があるようですから気になるというわけです。

 御供所にかかる杉の枝ですが・・・どの杉ですかね?まさか、御神木?可能性はありますね・・・大きな枝を切った跡でもあれば・・・あれが宮下の八兵衛さんが切った場所・・・てことになるかな?近いうちに、密かに眺めて、切った跡があればにんまりしてこなきゃ!

 そして、金剛寶寺の堂塔を解体していますね。こちらも新しい建物に生まれ変わることになるわけです。そして厄介なことが起こりますね。書き留めたものを失くしてくれています。これ困るんだよな・・・この間に解体した建物があると、整合関係が掴めなくなるんでね。しかし、大きな事件は無いとのことなので・・・多分、建物の解体関連の記事はないのではと・・・信じたいですね。多分、台風で書き留めたものが21日の夕方にでも飛ばされて無くなってしまったのでは?そして22日大暴風雨・・・仮設小屋は壊れ、杉の木は倒れ・・・23日には御供所の屋根が葺かれて、御供所は内装へと・・・結構速い作業ですね。

 さて、御供所の地業が終わり、切り石を敷き、御供所の柱が立ちはじめます。拝殿予定地の水盛が行われということは、拝殿予定地には何もないという事ですね。本殿を12間下げるから本殿の位置には何もなくて、木を伐採、地業を行っているので、その前に幣殿と拝殿が作られる・・・すると、旧本殿が撤去される前に拝殿の水盛はできるのか?まさか、このときの本殿の位置は現在の本殿から南東に12間の距離の所にあったのか?それなら拝殿の水盛は可能ですが・・・また、判らないことが出てきました。

 GoogleEarthで12間、約22mの距離の所で旧本殿の位置を探るわけですが、拝殿の水盛が可能で、御供所の推測位置を勘案して・・・該当する場所がない・・・ああ、しまった、現在の拝殿とは規模が違う・・・旧拝殿のサイズで考えると・・・やはり神木の北西の位置しか旧本殿を置けない・・・12間下げたところから建てるのならOKですが・・・でも、本殿を12間引くと書いてありますから・・・円がオレンジの現本殿の中心から12間の距離です。黄色が拝殿の土台の範囲、青が御供所の推定位置、赤の位置にしか旧本殿は置きようがない。黄色の線が現本殿の前から12間の距離、旧本殿から12間下げたところから建てるのなら、位置関係はクリア・・・でも、何故、参籠所を解体した?実は、参籠所は修復なんです・・・まさか、参籠所は新しく作る拝殿の位置にあるとか?・・・そういえば、参籠所の建物って・・・古図では本殿に向かって左側にありますから、右図の白で描いた位置あたり?拝殿の工事の邪魔になるし、移転させるので解体したとか?・・・こういった推測って怖いんです。だって、何かの史料にちゃんと出てたりすると、ただのお馬鹿さんになっちゃいますからね。でも、これはお遊びなんで・・・思考を強化するために・・・思考強化剤Bや思考強化剤J、場合によっては思考強化剤WやGとかの産物だったりしますから・・・Bはビール、Jは日本酒、Wはワイン、Gはジンだな・・・と遊んでるわけですから・・・安上がりなパズルのようなものですね。いや・・・酒代がかさむか・・・

 旧本殿サイズって推測する手段はあるのか?なんって考え始めました・・・本殿の部材で旧部材を使った可能性があるのは・・・江戸に発送された御本殿彫り物ぐらいですかね・・・これが修復されて戻って来ていればサイズのヒントになるかもしれませんが・・・彫り物って、まさか本地仏とか、そういったものだと駄目ですね。これも、保留だな・・・一応、千葉県史料 中世編 香取文書を購入してありますから、こいつも近いうちに読み解いてみないといけないと思うわけです。

 先人の研究も見たいですが・・・妄想の翼をもがれるので・・・なるべく、原資料を中心に遊びたいというわけです。ロールプレイングゲームの攻略本は欲しくない!というわけです。

 しかし・・・本殿のサイズが元禄13年で飛躍的に大きくなってくれていることが確認できればよいのですが・・・手掛かりは江戸に運ばれた彫刻類が、本殿の神座を構成する部材であれば簡単なんですが・・・こういった、調査資料があるかどうかか・・・とにかく、昔は正面扉が2か所ある神殿だったが、扉一つは無くなった・・・多分、タケミカヅチの追放・・・鹿島新宮として出されたとき、それ以来、本殿は小さくなって・・・元禄13年、幕府が見栄を張って大きく造営、旧本殿の神座は修復して完成させたってのはシナリオとして良さそうですね。

 でも・・・神仏習合の下での建設と、神道純化の過程でどんな変化があったやら?こいつもまた興味深い・・・さて、このあたりで一度切るとしましょう。新しい思考強化剤は何にするか・・・たまにはブランディーも良いかも?
2013.07.16
関係ないが、興味深いもの
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