香取神宮をうろうろ(19)
 資材が搬入され・・・

 重量物の運搬に関しては、佐原のお祭りまで見に行ってしまいましたが、興味深いものです。関連して重量物運搬を調べると・・・近代デジタルライブラリー - 神宮遷宮史. 明治42年 巨石を運搬するのにコロの上に載せたフレームの上に巨石を載せて引くというのが出ていますね。

 佐原の大祭へ行って来てちょっとお祭り気分が抜けなくて・・・佐原囃子のCDを買ってきたので、そればかり流していて・・・調子のよいメロディーですが・・・やるべきことは進まず・・・原稿依頼も来ましたが・・・

 造営作業は、それぞれの部門を請け負った人々がやって来て準備が始まっているようです。そして6月に入ると建設資材が津宮に入ってくるようになります。それでは、その様子を・・・・

6月2日石船が津宮に到着し始める。
6月3日新市場の人足、御本社千本築に加わりたいとの申し出があって働きはじめる。もっとも千本築は津宮之者が請け負っているが、毎日村々から人足が来て大勢で御普請をしている。この日は玉造村・山の辺村より人足が来て、神楽所予定地の土木工事を行った。
4日本社千本築は続いている。この日、与倉村より人足が来て、宮下登り口の土木工事を行う。
この日、宮下登り口へ小屋が作られた。
この日、鈴木文蔵・稲毛庄兵衛が津宮から御普請場へ見廻りに来る。本社地行について、周りの方へは砂利を定量入れ、中の方へは少しだけ入れているのを見て、二人は役人に砂利を周りに定量入れるだけでは心許ないから、全体にきちんと入れるようにと言っていた。なるほどと思った。その日から、砂利を全体にたくさん入れるようになって、千本突で固めた。
この日、仮殿が津宮に船で着いた。ただし、仮殿は御供所である。後に下屋を下げ神輿を遷して仮殿にした。遷宮以後下屋を取り払って焼き捨て、跡を御供所に用いた。
6月5日粟村より人足が来て宮下上り口の土木工事を行う。貝塚の人足が来て、参籠所の前の土木工事を行う。この日仮殿の梁が1本上がった。
6日御本殿の千本築は続いている。御供所の道具が上がってくる。御宮の前に小屋が作られた。この日、津宮まで拝殿の道具が船で運ばれてきた。
7日御本殿の千本築は相変わらず続いている。石が上がってきた。御供所の資材が上がって来て、同等の小屋掛けがはじまった。
8日千本築が続く。石が上がってきた、御供所の道具もだ。幣殿・拝殿の材木が上がり始める。毎日津宮より宮中まで車は絶え間なく往復している。車が通るごとに木遣で大勢の人足が引き上げている。賑やかなことである。
この日、楼門の予定地を3尺掘り下げて、10日から千本築が始まる。これは話があって、入札で津宮藤右衛門が請け負う事になった。14日に千本築が終わった。

 なんとなく・・・神宮側の人間が傍観者のような感じになっているような?幕府との造営交渉の様子とはなんとなく違った感じの記述のような気がしてきました。造営交渉は、主務者という感じでしたが、造営作業が始まると・・・神宮の人間との交渉がなくなり、事は勝手に進んでいるような感じです。請け負った人間たちは、造営にやって来て、自分の仕事をどんどん進めているという感じ・・・神官達は、基本的に宮中のあたりの狭い範囲を眺めているという感じですね。

 造営の本陣は、どうやら津宮にあって、そこから指示が飛んでいるような感じ・・・鈴木文蔵・稲毛庄兵衛が津宮から御普請場へ見廻りに来る・・・多分、陸揚げされた資材と作業の進行具合から、砂利の消費が少ない割に、作業の進捗度が大きいのでチェックしに来ているという感じです。結果は、案の定、砂利の使用量が少ないという事になったような感じです。結構、きちんとした工程管理がなされているのかもしれません・・・でも、やや読み取りが不安なんですがね・・・まあ、本気の研究者じゃないんで大体で良いでしょう・・・面白ければ・・・言い訳・・・本心はきちんと読み取りたいのですがね。その努力が・・・足りないことも知っていますが・・・とりあえずですから、好奇心が先行しているので少しでも早く・・・先へと・・・

 宮下上り口での地業なんですが・・・これって現在の総門の下の空間ですかね?宮下は神徳館や総門下の広場から、氷室坂の上の道が二股になる当たりまでを言いますから・・・そして、その場所に小屋が直ぐに掛けられていきます。そして、仮殿の資材が津宮に到着します。逆算すると、6月を期して本所から出荷された資材が、江戸川を遡り、関宿から利根川に入り、津宮へというコースをたどって運ばれてきたという事なのでしょう。

 ここでまた余計な事を考えてしまいました・・・本所からの初荷・・・暦を見てよい日を選んだのでしょうから・・・元禄13年の暦が見たくなって・・・貞享の改暦が1685年ですから復元することも可能か・・・とか思うわけなんですが・・・貴重資料-NAOJ Library こんなのまで手を広げると泥沼に・・・というか、六曜とかの流行は・・・戦後だし・・・ちなみに旧暦の6月1日は赤口、2日は先勝、3日は友引、4日は先負、5日は仏滅、6日は大安、7日は赤口・・・ですね。この頃の、暦は無いのか・・・とそのうち探す事にしましょう。

 石船が到着し始めるのは2日か・・・この石はどこから?気になりますね・・・明治期なら大手石材問屋といえば九段坂下俎橋際の鍋島彦七郎の開発した筑波山のあたりの稲田石ですが・・・明治の鉄道輸送が始まってから・・・それ以前は・・・瀬戸内産の石材ですかね?明治大正期の産地から推測してみると・・・大谷石・須賀川石・新小松石・本小松石・白丁場石・花崗岩なら稲田石・筑波石・・・花崗岩は鉄道の時代の物なので、凝灰岩の系統は大谷石だから該当しない、須賀川石・新小松石・本小松石・白丁場石この安山岩系の石ですね。須賀川石は福島県須賀川、本小松石は真鶴あたり、新小松石は真鶴の半島部の産、白丁場石は湯河原・・・須賀川石は阿武隈川で運ばれ海上を銚子から利根川か・・・いずれにせよ木場の脇の古石場当たりに江戸城築城の頃から石材置き場があったようですから・・・

 しかし・・・香取神宮の江戸時代の石組はどの部分なんでしょう?かなり気になります。楼門の前の部分は江戸の石組は昭和15年ごろに改変されているようですし・・・桜馬場のあたりは、江戸時代の整備と、明治時代の整備で良くわからない・・・確実な石としては、桜馬場に入る道の脇に、水盤がありますね。元禄13年に造営されたときのものです。これは高級な石が使われているのでは?高級な石だとしたら・・・本小松石かもしれませんね。

 右の物が元禄13年に加工された石の水盤ですが・・・はたして産地は?新鮮な断面を見るわけにもいきませんし・・・破壊行為は駄目ですから・・・きれいに苔生していますからこれを剥がすのも・・・問題ですね。ちなみに、在りし日のこの水盤は楼門の内側にあったのです。

 左の写真の右にある手水舎に置かれていたものですね。多分、写真の位置は元禄の造営の位置のままではないかと思います。近代デジタルライブラリー - 日本之名勝 の写真からです。このアングルからの拝殿の写真は少ないです。この写真は多分、明治29年の修復以降のものではないかと思われます。

 特に旧拝殿の正面からの写真はほとんどないような感じです。庭上での儀式の関係で、清浄に保つためか拝殿前は垣で閉ざされた空間になっているような感じですね。

 石材については読み進めばヒントが出てくるかもしれませんから、石材については保留として先へ進むとしましょう。

 さて・・・仮殿の話が出てきますが・・・仮殿が津宮に船で着いた。ただし、仮殿は御供所である。後に下屋を下げ神輿を遷して仮殿にした。遷宮以後下屋を取り払って焼き捨て、跡を御供所に用いた。とありますが・・・意味不明?仮殿の道具・拝殿の道具が上がる、幣殿・拝殿の木材が上がる・・・こういった表現と違うので、仮殿が津宮に着くとは何?完成品として到着?

 となると、仮殿=神輿?仮殿に充てるのは名目として御供所で、その後に下屋を作って神輿を置いて仮殿とした。遷宮後は、下屋を取り払って焼き捨て・・・その跡を御供所にした・・・ってか?なんだか納得できたようなできないような?仮殿の道具、御供所の道具、拝殿の道具・・・この道具というものの意味がうまく理解できない、備え付けられるべき器具・道具か?調度品、それとも彫刻された部材?骨組みとなる木材とは違うし・・・建設用の道具とも思えない・・・読解力の限界だな。これも先送り・・・

 さて、毎日津宮より宮中まで車は絶え間なく往復している。車が通るごとに木遣で大勢の人足が引き上げている。賑やかなことである。ずいぶんと軽い扱いだが・・・私は、このときに使われた車が知りたい・・・しかし、神官連中は車については興味がないような感じです。

 また例によって悪い病気が・・・石が気になって・・・滑川の観音様へ出かけてしまいました。まあ、通り道とも言えなくもないのでね。そこで、石の数々を眺めてきました。滑川の観音様には色々な石が集まっていることには以前から気付いていましたからね。ただ、写真がそれほどなくて・・・ちょっと、寄り道をして写真を撮ってきたというわけです。

 まずは、仁王門につながる参道の石ですね。これは判りやすい石です。銚子石でしょうね。柔らかい砂岩で、犬吠砂岩とか言われるものです。この銚子石は、犬吠埼の灯台の下で昭和の初めごろまで採掘されていたそうです。中生代白亜紀の地層でしょう。この砂岩は柔らかいので細かな細工ができますが、比較的簡単に崩れてしまいます。

 銚子では、この砂岩の他に、古銅輝石安山岩やチャートや、琥珀などを含む地層があるようです。琥珀は海が荒れた後の海岸に出ると拾えたりします。昔々、小さなかけらを拾った記憶がありますが、その琥珀は何処へ行ったやら?泥岩やカンラン石安山岩とか・・・とにかく銚子は色々な石が出ますが、大量に切りだされたのは砂岩のようです。

 銚子石は様々な彫刻が施されて、神社仏閣などでよく見かけますが、細工の細かなものは大抵は壊れていてかわいそうな状態になっている物が多いですね。狛犬などは、前足が折れてるとか、顎が落ちてるとか・・・加工性が良いが耐久性に欠ける・・・という事になります。

 滑川の観音様で銚子石のオブジェといえば・・・右の宝篋印塔群ですね。

 この写真の手前の方の白っぽく見えるのが銚子石です。文字などは判読が困難になりつつあります。

 多分、冬になると吸収した水分が凍結して表面がはがれて行くということでぼろぼろになっていくのではないかと思いますが・・・そして、遠くにある色味の違うのが小松石の類・・・安山岩でできた宝篋印塔ですね。

 この安山岩製の宝篋印塔の製作年代は寛永11年のがあったっけ?記憶が・・・その他の岩石だと・・・

 仁王門の礎石に使われているのは種字が掘られた黒雲母片麻岩ですかね。

 多分この石は、古墳の石室に使われていたのが、中世に種字を掘られ板碑に化け、さらに土台石へと転身しているのではないかと思います。

 他には・・・

興味深いのは、木造建造物の中に組み込まれているかのように見える土台石?柱の下にある丸く成形された安山岩質の石です。小松石の類ですね。この御堂は何かな?

 なかなかかわいい形の石です。

 右の写真は御堂の前の石畳です。これは安山岩質の石ですから、小松石でしょう。御堂の材料とともに江戸から運ばれてきたのでしょうね。


御堂の周りを取り巻いている石は何種類かあるようです。白っぽいのは銚子石で砂岩ですね。この切り石は・・・間知石って石垣などを作るときに使われる四角錐の様な形をした一定の規格で作られた石のようです。

 右は一見するとコンクリートのようにも見える集塊岩だな・・・多分、房州石?でもちょっと礫が大きすぎるか?

 左の写真が銚子石の間知石でしょう。木の根元の所に2つ転がっていました。

 他にも色々とありましたが・・・花崗岩は稲田石のようですから、これは明治の末にならないと出回らないのではというわけで割愛です。

 このあたりで江戸期に流通している石は、基本的に地元の工人の手になる場合は銚子石、江戸の幕府系の工人だと小松石か房州石になるのではないかと思われます。

 滑川の観音で大きな石というと、右の水盤石ですね。これには安永9年の銘が入っています。1780年に奉納されたものです。多分安山岩ですね。

 この後、銚子の石切り場の跡でも眺めるか・・・と思ったのですが・・・残念ながら、仕事の電話が・・・なかなか遊んではいられません。困ったものです。

 そうだ、隣町に歌手の裕子と弥生でお世話になった石屋さんがいましたっけ。そのうち連絡を取って石についてご教授願うかな・・・

2013.07.15












inserted by FC2 system