香取神宮をうろうろ(16)
 造営へのが決まって・・・

 造営が決定し、造営の入札が行われ、香取神宮から遥か離れた場所で用材の切り出しが行われます。入札結果は4500両ですがこれが余りに下直で・・・安すぎて、調査の対象になったようですが、そのあたりの事情については大禰宜家日記には現れてきませんが気になる所です。確かに、あちこちで社寺の造営が行われた時代で、さまざまな技術革新の上に行われるので、全てに渡って廉価になっているとは思うのですが・・・綱吉が造営の大旦那になったような箱モノ系の事業についても調べても面白いかな?とか思うのが学問ごっこの楽しさなんですかね?次々に知りたいことが出てきます。

 ふと、思うのですが、こういった大きな神社や寺などはそれにぶら下がるさまざまな職人が存在するように思えるわけです。

 さて、3月に入ると、いよいよ地業が始まります。その様子を眺めて行くことにしましょう。
 
大宮司職の願いや御神宝願いを行っています。・・・中略・・・
3月20日御普請小屋へ出かけてみるて、奉行の手代衆と話をすると、明日手斧始めとのこと。
22日江戸を出て23日帰宅

 例によって大宮司職の願いをやっていますが、そういったことは後回しにして普請を中心に拾う事にしました。だって、そっちの方が面白いですからね。3月20日普請小屋へ出かける・・・江戸からですかね?普請小屋はどこ?下妻で用材の切り出しが行われた話はあったような気がしますが・・・本庄の小屋場10600坪を拡張した20000坪の普請小屋?本庄って香取神宮の庄ではなく・・・本庄なのか?てっきり神宮の近くの小屋場なのかと思っていましたが・・・本庄か・・・中山道最大の宿で、利根川水運で商工業が盛んだった場所・・・本庄で建設関連というと・・・秩父セメントの創業者でセメント王なんって言われた諸井恒平なんかが有名ですね。渋沢栄一のお気に入りだったような・・・諸井家なんかも何か関連があるのか?まるで関係ないですが本庄を調べてたら興味深い本 近代デジタルライブラリー - 日本の表情 に出くわしました。こんなものを読むから、戦後の混乱期にも興味がわいてきます。国家警察・自治警察・やくざ・政治の微妙な関係なんってのもね。小屋場の所在については不明ですね。そのうち何か出てくることを期待しましょう。さて、続きを・・・

3月24日御本殿後で杉の木を伐り始める。これは、御宮を後ろへ12間引き下げるためのものである。その場所にある杉の木、周囲1丈ほどあるのを始めとして九尺・八尺あるのを12本、そのほか枯れ木を6本、これを3月24日より切り始めて4月13日までかかって切った。造営に役に立ちそうなものは別にして置いたり、引き割ってあちこちへ片付け、造営に使えない物などは五反田の橋や虚空蔵の堤の橋などに使うために引き割っておいた。

 目通り1丈あまりの杉の木があるんですね。直径1mほどの物・・・今ならブレードの長いチェーンソーでバッサリですが結構時間がかかっていますね。江戸時代の伐採は、基本は斧でしょうね。ただ、盗伐用は鋸ですか・・・伊勢神宮の用材の樹齢300年ほどのヒノキで斧による伐採に1時間ほどか・・・ああ、整地もするから抜根作業も必要ですね。そのために時間がかかっているのでしょう。

 さて橋の話が出てきました。津宮で陸揚げした建築資材は、五反田の橋とか、虚空蔵の堤の橋と言っているわけですから、大坂を登って運びあげる事になるのでしょう。この頃の、これらの橋の構造はどのような物だったのやら?引き割って・・・ですから板橋か?いや、荷車などを通すのですから、普通に土橋となるのか?

 近場の潮来の十二橋の様子は右の様なものですね。これでは少し強度が不足しそうな気がしますが・・・となると、もう少し無骨な感じで・・・輸送を考えた土橋か・・・何か、史料がないと何とも言えない感じです。

 どんな荷車を使ったのかも不明ですね。案外、佐原の八坂神社お祭りの山車の様な構造の物なのか?人力で引くのが基本?牛はこのあたりにいつ頃から入っているのかが気になりますね。

 ああ、水郷だという事を忘れていました・・・畔は田の境を示す程度、歩行が可能な程度の道と、道路は・・・水路で、さっぱ舟や田舟の類を使っているのですから、牛馬耕が行われている可能性は極めて低いという事になりますかね?馬に関しては、伝統的に牧がありますから、飼育されていたことは間違いないでしょうが、牛は?分かりません・・・史料は・・・油田牧・矢作牧の存在・・・これらは乗馬を飼育していたものですから・・・牛馬耕は行われておらず、牛車などは使われなかったのではないかと思われますね。石材を大坂を登って運ぶのは結構大変だったのでは?色々と考えてしまいます。さて、続きは・・・

4月
4月19日三奉行の番頭がやってきた。御本社を12間下げるには、地面が低くなっているから5・6尺、所によっては1丈も土を運んで平らにしなければならない。そのため村々から人足を雇って整地をする必要があるとの話だった。25日から5月1日までの6日間、整地作業を行うので、近在に配状をまわした。配状に注意書きがあって・・・津宮村・中洲村・扇島村・加藤洲村・磯山村に配状がまわります。
4月20日竹村惣左衛門の役人の稲毛庄兵衛に道路整備と、普請の足場用材を大倉の御林で伐採させるために津宮惣衛門の所へ指示に行った。
22日竹村惣左衛門の役人の稲毛庄兵衛は大倉山の見分を行い、帰りに香取神宮を参詣していった。話では、大倉山にて足場用材3000本こくいを打ってその日より伐らせることにしてきたとか。
24日整地作業に、神領内の人足を若い者も年寄りも残らずあつめて、土運びを始める。この日、稲毛庄兵衛・高橋兵右衛門が津宮より香取までの道筋の見分を行った。材木石車にて登ってくるので、その道筋の見分である。その2人は大倉山へも行っていた。

 さて、奉行所の現場監督がやってきたという事のようです。どうやら、本殿を下げるための作業として、木の伐採と抜根までしかしなかったので、きちんと整地するようにという事になったようですね。地面が低い?1.5mから3mを越える土盛りか・・・雨の時に水が流れて深くえぐれたような地形があったのでしょうか?それを彷彿とさせる地形は、本殿うらから桜馬場へ抜ける通路の脇に見られますね。文面の雰囲気からすると・・・整地が終わってないじゃないか!平らにする話だったが終わってないじゃないか!早く人足を手配して土を盛れ!と言われたような感じですね。

 足場用材3000本か・・・かなりの本数ですね。近頃は針葉樹の間伐材の足場材を見なくなりましたね。太い方の胴元で10cm程度、細い方の末口で5cmぐらいの皮を剥いだだけの2丈ぐらいの丸太・・・これの伐採を行う事になるようです。「こくい」って何だ?刻印か・・・印という事だと思うのですが・・・このことから、植林して管理され、ちょうど間伐を行う時期の森林が大倉にあるという事なのでしょう。大倉は・・・香取市大倉ですかね?

 ふと・・・香取神宮領の森林管理って非常に早い時期から行われていたのでは?御船山から切り出された杉材で軍神祭の御船を作るといいますから、同じ場所から定期的に木を切りだすためには伐採と植樹の繰り返しがなければなりませんから・・・多分、フツヌシを奉ずる先進的な造船技術を持った集団が、香取の御船山の杉に目を付けて、この地を根拠とし、竹林だった神宮の周りに杉を植林し、船舶用材の一大産地に香取を育てたとか?この杉による大型の高速船が、小さなイヌガヤ、ムクノキ、クリ、カヤなどで作られた丸木舟に対して大きな優位を持って、霞ヶ浦や利根川の津を支配していたのでしょう。

 また妄想・・・国譲り神話・・・あれと同じようなことが日本各地で行われていたような・・・多分、文化的な侵略がね。

 さて、材料石車にて登る・・・石車ね・・・石車って大石を運ぶ車で大きな重量に耐えられるように車体が低く、幅広の車輪をつけたやつですね。修羅と呼ばれる橇形式のものもありますが・・・車体が低く、幅広の車輪を持つものといえば・・・佐原の山車じゃん・・・案外、元禄の造営の際の払下げ品の石車をベースに山車が形成された?・・・ああ、佐原の山車についての資料も収集しないと・・・ああ、ここにもカーゴカルトがなんって話になりそうな?確かに、石車というそれまで見たこともないような車が多量の物資を積み、神に奉仕する意の榊を上に掲げ、大勢の人の掛け声・唄声で動く様は・・・山車の原型になってもおかしくない・・・

 2軸の幅1丈の石車は右の図のようなものでしょう・・・こりゃ、現物を見てこないといけないかな?ネットだけの資料ではちょっと不足・・・しかし、今の頭で祭を眺めると・・・山車の飾りが、材木や石材の山に見える可能性が高くて・・・と思うのですが・・・あれ?明日から、佐原の大祭じゃないか・・・こりゃ呼ばれているような?

 まあ、秀吉の大坂城の築城の際の地車がだんじりなどで使われるし・・・どうやら、大勢の人数を同時に力を合わせた作業をするときには・・・お囃子なども付きもので・・・それが、華やかな祭へと引き継がれていくのかな?まずい・・・また、興味の対象が増えてしまった・・・しかし、香取神宮の様な大社は、周りへの波及効果が大きいので、どんなことが出てくるやら?こりゃ、半年ぐらいは香取神宮関連で学問ごっこを楽しめるかもしれない・・・憲法や北朝鮮も面白いが・・・近場の研究ごっこは楽しい・・・

 とにかく、24日には土運びが始まります。流石、神領、津宮村・中洲村・扇島村・加藤洲村・磯山村に配状・・・動員力がありますね。ちょっと、気になるのが配状が回るのが新興の村々のような気がします。香取・鹿嶋の浦の埋め立て地にある村々・・・陰暦の4月か、今の5月の末・・・これって農繁期、旧村に配状を出しにくい事情が存在していたか?香取神宮が資本投下している新興の村々というわけではないかとふと思うわけです。新興の開拓村って基本的に、住民の年齢構成は若いし、そういった意味でも柔軟性が高いとか?それとも、水運などで働く農業人口以外の人間がいるとか?動員しやすいところから動員をかけるのが一般的なやり方だと思うからですけどね。再び、あまり根拠のない話ですけど・・・

 唐突に・・・

 ちょっと気になって・・・定期的な往復があるので・・・例の滑川の観音堂・・・龍正院 滑河観音を眺めてきました。色彩は赤・黒・白が基本です。残念ながら胡粉ベースの白の上に差されたと思われる彩色はほとんどなくなっているような感じです。

 右がその観音堂です。立派な御堂です。彩色は香取神宮よりやや暗い赤、朱ではなくベンガラですね。多分・・・なんとなく、この色を見ると旧式な赤のさび止めペイントを思い起こしてしまいます。まあ、成分的には同じようなものですからね。

 ざっと眺めた感じでは、それほど塗り替えた感じはしないので、雨の当たらない部分の色彩は案外、江戸時代そのままなのかもしれません。

 そもそもベンガラの成分は赤鉄鉱の粉末ですから酸化鉄IIIとか酸化第二鉄ですから・・・しまった、酸化第二鉄って磁性体だよ・・・爪を伸ばして・・・じゃなくて、使っていないウォークマンタイプのカセットテープレコーダーのヘッドとアンプを外して微小磁気検知のできる装置を作れば、ベンガラかそれ以外の朱や鉛丹と区別ができるじゃん・・・別段蛍光X線分析とか高度なことをしなくても・・・

 とにかく、赤と黒の色彩については確認しました。ここでちょっと気になったのは・・・右の写真なんです。これって、香取神宮の中で似たものを見たような気がして・・・

 なんとなく、気になった物は写真に撮って置いて考える癖があるので・・・美しい黒と赤と白・・・

 しかし、なんで江戸時代の建造物には象の意匠があるのやら?

 江戸時代に日本にゾウがやってきたのは・・・有名なのは・・・8代将軍の徳川吉宗が発注して、2年の歳月を要して日本にやってきたベトナム生まれのゾウ2頭で長崎に到着したのは1728年享保13年 6月13日の事で・・・唐人屋敷で飼育されメスのゾウは早くに死に、享保14年3月にオスのゾウが江戸に向けて出発・・・5月に江戸到着・・・というやつですね。このちょっと前・・・その前にゾウが日本にやってきたのは・・・

 どうやら最初にやってきたのは、1408年応永15年足利義持の時代で、次が1574年天正2年明船が博多に、1575年天正3年豊後の大友義鎮へ、1602年慶長7年徳川家康へ・・・その次のが吉宗の時代となるようです・・・ですから一応、象が意匠として現れてもおかしくはないというわけです。

 で・・・香取神宮でもこれに似た象の意匠を見たような・・・の続きですが・・・帰りというか何というか・・・香取神宮へ行ってしまってきょろきょろ・・・といっても探す場所は1か所、旧拝殿の建物の同じ場所です。別に、撮った写真の中から探せばよいのですが結果は・・・

 右の写真のようにビンゴでした。細かな部分に違いがありますが、高い類似性にややびっくり。

 どちらも、創建当時のものであれば・・・滑川の観音堂の物は当初の物ではないかと思われます。しかし、香取神宮の拝殿の物は・・・ちょっと前に神木に沿っていた槇の木が倒れて屋根が損傷しましたがこのあたりは無事だったか?基本デザインは似ていることに気付きます。

 この2つの建物の建設は数年しか差がありませんから、こういったデザインがこの時代の標準であったのかもしれません。

 そのため、香取神宮の造営に関してもかなり詳細な積算によって、寺社奉行側が驚く破格の4500両の見積もりが出たのではないかと思われます。

 滑川の観音堂と、香取神宮の旧拝殿を比較すると、観音堂の規模は遥かに大きなものであり、銅板棒葺の屋根などは遥かに高価な建物に見えますから・・・単に、古そうに見えるからか?

 でも、この建物も将軍綱吉が大旦那になって元禄11年に造営されたものですから、そして香取神宮の社殿も元禄13年に造営されたものですから、それなりに比較の対象にしてもよさそうな気がします。

 屋根の勾配などもなんとなく似ているような?元禄の時代精神というものを意匠を通じて知ることもできるかも?まずい・・・こんなに手を広げたら資料を集めるだけでおおごとになりますね。

 ああ、佐原の大祭の山車にも興味がわいてきたし、元禄年間の建造物にも・・・

 さて、それでは続きは次回へと・・・
2013.07.11












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