香取神宮をうろうろ(15)
 造営へのが決まって・・・

 見分に際して、さまざまな口上を述べるわけです。こりゃ確かに覚えを作っておかないと、後で大変かもしれません。しかし、色々な要求を出しているものです。気になるのは、壊れ方の程度ですね。修復不能ってのがどの程度の物なのか?それが気になります。末社などの小さな木造の祠は造営注文によれば30石程度のようです。三百万円ぐらいと考えればよいか・・・そのぐらいでできそうな気もしますが・・・実際にはどのぐらいの値段なのやら?気になりますね。さて、口上の続きと行きましょう・・・

口上の覚
優波山明神1社と佐山明神1社、この両者は建物はあるのですが、その壊れ方が激しいので、何とか修復してほしい・・・
弧座山の社は建物は既になくなってしまいましたが、境内の森があり、先の2つの社と関連があって、三ッの山と言って1セットと考えているものなので、ぜひ建物を作って欲しいのです・・・

 セットものですね。造営についてあらかじめ提出した書類には無かったのか?ちょっと気になりますね。追加注文が多くて・・・香取太神宮神名記を眺めていたらアサメトノは本殿の艮だって?北西にある?仮殿が色々と動いているのか?元禄の造営についてざっと見終わったら、この香取太神宮神名記を眺める事にしましょう。・・・どうなるか・・・なんで壊れたままにするかね?確かに、世の中が順調であれば、21年で造替って言うわけですが・・・次へ行きましょう。

口上の覚
昨年の見分の際に楼門・廻廊・御供所・神楽所等のお願いをしましたが、神楽所についての話が出てきませんでした。神楽所は御祈祷の際に必要なもので・・・神楽所は現在は形もありませんが、絵図には載せておきました。確かに、どのような長さで何間(寸間も知れない)の建物であるかもわかりませんがぜひ建ててください・・・

これらの書付は9月17日の7ッ時に出立の挨拶の際に津宮まで社家総代の代理が持っていった。
18日に見分の一行は明け7ッ時に江戸へ向けて出発した。
9月23日社家総代が江戸へ来て見分の役人に挨拶へ行った。
25日大禰宜・金剛寶寺が江戸にいるので、社家総代は帰国した。

 う・・・神楽所か・・・神楽所は香取太神宮神名記などには見られないものですね。申請絵図に朱書きしておいたのでしょうが・・・神楽か・・・神楽って基本的には平安中期にはそれなりの形にまとまっていたのでしょうが、神楽を奉納する神楽殿が独立するのはいつなのでしょうか?ふと、香取神宮の中門が鹿島神宮の祖霊社の様な構造であるのなら、こういった場所で奉納すれば良いわけですから・・・神殿造りの庭の仮設の舞台とか・・・そういった物の系統なんでしょうがね。いや・・・そういえば、最古の神楽殿の様式って・・・春日若宮神社の細殿+神楽殿ってやつでは?そういえば・・・右の香取神宮の中門のような感じの建物であったような?

 春日大社なども眺めに行きたいですが・・・ちょっと遠いですね。それが問題です。

 あれ?余り気にしていなかったんで見えなかったか?正神殿の正面の扉が2つあるぞ?これって何?中門の位置は正神殿の中央から外れていて、向かって左側の扉の正面にあるという感じですね。
この図には、御神木が書かれていませんが、この中門の脇にあると思うのですが・・・まさか、右側の扉はダミーで開かないとか?庇の部分もなんとなく変な感じ・・・図が下手なのかそれとも、頑張って書いたけど、遠近法のルールが私のと違うのか?この図は鎌倉から南北朝の絵図とか・・・しかし、現実のものは現在の社殿と同じような、仮殿のアサメトノの系譜の物が作り続けられていたのでは?なにしろ、江戸初期の造営では色がついていなかったようですからね。かつての威容の記憶ではないかと・・・なんとなく、鎌倉期風のではないような作りのものですから・・・平安時代の記憶の産物・・・朱塗りの柱ですから。

 ちょっと、突飛な仮説というか妄想・・・図の左側の扉が、いわゆる正神殿の扉で、右側は不開殿で鹿島神宮の正殿を示し・・・いつの時代か、この扉が無くなって、鹿島新宮が独立した・・・鹿島新宮が独立した時代は、香島神宮が鹿島神宮と漢字を変更した時期から後では?養老7年723年であるとか・・・証明は極めて困難・・・しかし、元は武甕槌命は正殿に鎮座していたが、いつの頃か神託があって、新宮を建てて祭ることになったって言いますから・・・勝手な想像の年代は鹿島神宮が神宮寺を持つようになる頃でもあるから・・・神社と寺院の関係で何かあったのか?新興の仏教文化の受容が・・・・何らかの結果を生み出したとか?旧来的な文化に対して、仏教文化は大きなインパクトがあったに違いありませんからね。

 こういった妄想は、もう少し現実味が出てくるだけの資料を見出してからですね。日記の読みこなしを進めるとしましょう。

なぜか日にちは飛んで11月
11月5日江戸へ出る。8日伊賀守の所へ金剛寶寺と交代する事を届け出て、明日に顔を出す事にした。そのほか三方にこのことを届け出た。
9日伊賀守の寄合に出て、修復のお願いをした。出羽守の所へも願い帳のことで出向いた。
10日実務担当者の所へ行くが、どちらも留守だった。

数日おきにあちこちの挨拶回りをしています。

28日修復用の御用木は下妻で杉の見立て見分を行い、杣取人足の入札を行ったという話を聞いた。

 日記は元禄13年2月に飛びます。どうやら、修復は実施に向けての準備が始まっているという事のようです。冬の間に木を切りだしたり・・・加工したりという事のようです。正式な発表は無いようですが・・・造営準備は香取神宮側とはあまり関係なく進んでいるようです。

元禄13年2月4日江戸へ発つ、5日江戸に着く。
6日金剛寶寺と伊賀守へ宝物の目録を持参。修復を願う。それは既に帳面にあるものだから、何度も願いを出すなという事で受け取ってもらえなかった。
7日阿部飛騨守・青山播磨守へ金剛寶寺の代わりに江戸に詰める事についての届を出した。8日松平志摩守へ火事見舞いに出る。それから、伊賀守へ帳面のことで行く。
9日伊賀守の寄合に出る。重ねての出席要請であった。この日伊賀守へ帳面のことで行く。
2月14日伊賀守より来いとのことで行くと、今度の18日に大禰宜・金剛寶寺へ飛脚を出して、3人で出席するように伝えよとのこと。飛脚を出した。
2月16日晩に大禰宜・金剛寶寺江戸に到着する。17日3人で伊賀守の所へ行って、明日の出席の届をして、明日来ることを約した。
18日寄合に3人で出席する。書面で修復の指示が出た。
金剛寶寺・大禰宜・祢宜(社家総代)に対して、香取の社堂を修復するように仰せつける。
・御修覆担当の久貝因幡守・小幡備中守とよく連絡を取って、修復の時期などよく聞くこと。
・出羽守・御老中右京大夫・若年寄へお礼に行くように。
・宮に付属する神宝や諸道具など、先々の修復の節の物や、公儀が担当したものの分を書きものにして出すように。新たに願い出る物は載せてはならない。
この日のうちに、出羽守・左京大夫・御老中・若年寄衆中・寺社奉行能登守・久貝因幡守など以上15か所にお礼に行く。
20日竹村惣左衛門・平岡十左衛門がやってきた。服忌令の書付を持参した。
十左衛門の話によれば、御修復の入札は4500両で入った。あまりに安いので、本決まりにしていないで、職人などの調査を行っている。本庄の小屋場10600坪であるが、それだけでは不足するので20000坪ほど無いと完成しにくい。
22日伊賀守へ御神宝目録と大宮司職願書を三人で持っていった。大宮司職の願書は受け取ってもらえたが、御神宝目録はもっと詳細に書いて、2冊にまとめて持参するようにと返されてしまった。26日に再提出せよとのこと。
・前大宮司の子の小次郎を大宮司職に任命してくれるように三人の相談の書付で願った。
26日金剛寶寺と一緒に明日の寄合の出席を伺った。大禰宜は御神宝帳が完成しないので、後で持参すると告げる。大禰宜は暮れの頃御神宝帳を届けに行った。
27日寄合に3人で出席した。御神宝帳はうまい具合に納めてくれた。大宮司職に小次郎を願った書類は取り上げられることなく返された。
29日伊賀守の役人が3人で来いとの手紙を持ってきた。出かけると御修理料金はどのぐらい準備しているかとの御尋ねに対して450〜460両ぐらいあると答えた。その旨を書いて判を押して来た。

 あっさりと修復が開始されますが、興味深いのは修復の入札は4500両とか・・・1両10万円とすると、4億5千万円か、これではあまりに安いので保留にしてある?広い作業場が必要になる・・・神殿に納める神宝や神具の類の目録の提出を要求されていますが、もっと具体的に書けという事なのでしょう。かなり苦労して書いて、受け取ってもらったようですが、その中身が気になりますね。どのような神宝の数々が・・・そういえば、海獣葡萄鏡って国宝・・・香取神宮の明治37年に国宝に指定されたものですが・・・國學院デジタルミュージアム この笹川屋の海獣葡萄鏡は何?笹川屋って旅館ですよね。撮影は昭和13年8月31日とのこと・・・海獣葡萄鏡はゴロゴロしているという事ですかね?ちょっと気になる海獣葡萄鏡なんです。これもでかいのか?

 ふと、春日権現に関してもちょっと知りたくなってきました・・・だって、間違いなく春日大社などの神社建築の影響があったか・・・春日大社の創建に鹿嶋・香取の両神宮は関係があったわけですから・・・しかし・・・気になるのは香取神宮の色彩ですね。少なくとも、現在の漆仕上げとはずいぶんと違うような気がします。徳川家康の造営ではどうやら白木のようですから、そして、元禄の造営の見分等では色彩が確認されなかったので、色を付けるのは問題あるか?という感じです。

 塗料に関しても、土朱塗りや場所によっては瀝青で塗るとのことですから、ずいぶんと現在の物とは違った感じのものであるような?土朱はベンガラを乾性油に溶いたものでしょうから・・・瀝青、タールで塗るって・・・チャンだから・・・松ヤニやエゴマ油をベースに乾きをよくするために副材料を混ぜた黒色の塗料でしょう。こういった塗料が初めて社殿に色を添えたのではないかと・・・ただし愛染堂と楼門は赤かったのではないかと・・・なんとなく・・・仏教系の物と神道系の物で分けていたとか?何しろ、楼門は仁王門ですから・・・赤かったと信じたいが・・・似たような物を眺めて比較するのも良いかも?そういえば、徳川家がらみといえば龍正院 滑河観音ってのがありますね。鹿行をうろうろ 039 仁王門の彩色に関して少し眺めてきますかね。そして、この観音堂は元禄9年の物ですから・・・香取神宮の彩色に関して何かのヒントが見いだせるかもしれないような・・・漆塗りになっているとは思えませんので・・・塗料に関して気合を入れて眺めてくるつもり・・・多分・・・近いうちに・・・

 しかしベンガラか・・・これって、日本で大量に生産されるのは備中吹屋の物ですね。これが色が良くてもてはやされたような・・・1650年ごろからベンガラの前駆体のハーロってのが焼き物の赤の顔料として焼く前は淡い青色をしたものがもてはやされ・・・有田の赤絵に代表される物を生み出して行きます。多分、吹屋の赤色顔料のベンガラは、香取神宮の造営の後になって製品化されたと思うのですが・・・この製品によって極めて明るい、しっかりとした赤が表現できた・・・それ以前はかなり黄色っぽい赤が多かったのでは、なんといっても天然の赤鉄鉱をすりつぶして作るわけですからね。産地によっては色味がかなり違っていたのでは?香取神宮に使われたベンガラはどこの産なのやら?こういったことも気になりますね。

 江戸末期の香取神宮の色はどうだったのか?何しろ、実績からするとそれほど自主改修の意思が強いように思われないので・・・赤や黒の色彩はどれほど残っていたのか?そのわずかな色彩も、噂では廃仏毀釈の際に洗い落としてしまったとか。そのため、腐りが激しくなったとか?これが事実なら、塗られていたのは案外鉛丹・光明丹だったのか?・・・明治28・9年頃に解体修理がなされたみたいなんですが・・・この資料がない・・・探し方が悪いのか?未だ見ていない史料が沢山あるのでそれに期待しましょう。

学問ごっこは面白い!

 さて、このあたりで一回切って、次回は造営に当たっての地業が始まるあたりからとしましょう。
2013.07.09 












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