香取神宮をうろうろ(13)
 造営への働きかけ・・・

 さて、大宮司の罷免に関連して書類がかなり作成されます。基本的には神領からの千石の配当がらみですね。しかし・・・この日記はなかなか難解です・・・単に、私の知識が不足し過ぎているような感じなんですが・・・無謀にも読んでる所が、暴虎馮河かね?別に、読み違えても不名誉でも何でもなくて、単なるお遊び・・・厄介なのは、かな漢字変換がむちゃくちゃになることかな?現代では使わないような語句を山ほど打ち込むことになりますからね。単漢字変換時代に鍛えてありますからそれほど苦痛ではないのですが・・・それでも、ときどき現代の事を書いているときに変な誤変換が起こって困ります。

 あとは、基本的な物の名前を知らなくて苦労したり・・・辞書に出てないよ・・・とかやってますね。泣き言は程々にして、日記の続きと行きましょう。

大宮司罷免に伴う事務関連の書類が続きがあります。
前大宮司の知行高140石をどうするか?このうちから百姓たちに取らせていた分があったり、知行を取り消されたが、神宮に引き続き奉仕している連中にも前大宮司が10石ほど出していたとか、前大宮司の旦那寺の光春院には米4俵・・・支配に関しても、大宮司と大禰宜の2人が行っていたところも、大宮司が一人で担当してたところもあるのでどうするか?酒や供物など、大宮司が準備してきたものなどがあるが、それはどうするか?流鏑馬の道具類は・・・大宮司の名前で登録している江戸並びに香取近辺事触れは、大禰宜の名前で登録するのか?・・・会計簿の件とか・・・5月2日にお伺いを立てています。

・・5月5日に奉行の所へ大禰宜・金剛寶寺・社家総代の3人でお礼して回った。

5月7日柳沢出羽守の所へ行くが、寺社役人が留守であったので帰って来た。
5月8日柳沢出羽守へ行って、御修覆願い状を差し出そうとしたところ12日に来るように言われた。同日永井伊賀守へ行くと明日9日に来いと、さらに戸田能登守の所へ行くと、明日出直してこいとのこと。
伊賀守にて尋ねられたことについては、神役を務める惣検校には米を3石8斗、神役を務める角安主には米1石が昨年まで大宮司が配当していたと社家総代・金剛寶寺・大禰宜と連名で認めて寺社奉行へ提出した。
5月9日御内の寄合に出たら、修復はいつから始まるのか分からないとのこと、先頃の伺いの書き物については、相談の上作成、明日伊賀守の所で貰うようにとのことだった。
10日伊賀守の所で、書きものを受け取った。
12日出羽守の所へ出向いて、修覆願いを出してきた。文面は・・・御恐れながら・・・下総国香取神社、慶長11年権現様御造宮・・・・壊れてきて、寛永11年、慶安2年、寛文6年と修復を願って80年、いよいよ壊れて元禄5年正月から願っていて、今年の2月に見分の話があり、3月に実施されました。本殿を初めとして、堂社散々に零落してしまいました。何とか修復してくださいな。
5月17日伊賀守の所へ行くと、明日の寄合に修復の話が出る、能登守が月番だから窺うようにとのこと。
18日三人で出かけて行くと、3人も来なくてよい、1人残して2人は帰るようにというので、金剛寶寺と社家総代は帰った。それから、出羽守の所に修覆願に行ってきた。

 なかなか大変ですね。社殿の造替・・・どうなることやらという感じです。大宮司が失脚して、3人でうろうろするなという事になり、メインは大禰宜となるわけです。内容的にはそれほど面白くない・・・続きは・・・

5月24日社家や宮下年寄達がすべて大禰宜宅に呼びあつめられて、公儀からの通達を申し聞かせた。前大宮司の知行の本帳を提出するように、事触の証文を取り返すようにとのことで指示が出て・・・26日本帳は見当たらず、色々と考えて皆納帳などを持参してきたが、金剛寶寺と相談して、こんな帳面では駄目だから、持ってきた帳面を返した。あちこちへ回収の手配をした証文も・・・26日には7通が集まった。
5月29日神前であちこち壊れたものを修繕することを大祝と相談し金剛寶寺と取り決めをしている間に、大工を呼んで、晦日から木挽き職人も呼んで本社殿の屋根のこけら板に生えた草木を6月2日に取らせた。

 江戸での指示ですかね?本帳ってなにか?知行の記録か何かですかね。それが見当たらなくて、皆納帳って物を引っ張り出して来ています。皆納帳って?多分、税金をちゃんと納めたという記録簿ですかね?本帳が知行の記録簿の様なものなら確かに近そうな気がしますが・・・これじゃないとなると何?大福帳の様な根本となる帳面なら、出納帳のですかね?とにかくこれが見つからないと・・・それから、前大宮司名義で発行した香取の事触の証文も集めて、大禰宜名の証文と交換していくのかな?そういったことでしょう。
 5月29日の話は・・・意味を取り間違えているのか?なんって思ってしまいます。案外、江戸で受けた神宮の建物をちゃんと管理者を決めて、巡視せよというものに対応するのか?本殿のこけら葺きの屋根に草木が生えている・・・これじゃひどいから草むしりをしようという感じですからね。しかし・・・前の記述の中にある、下総国香取神社、慶長11年権現様御造宮・・・・壊れてきて、寛永11年、慶安2年、寛文6年と修復を願って80年、いよいよ壊れて元禄5年正月から願っていて、今年の2月に見分の話があり、3月に実施されました。本殿を初めとして、堂社散々に零落してしまいました。何とか修復してくださいな。という願いは誇張でも何でもなくて、実のところ、見るも無残な有様になっているとか?気になります・・・続きは・・・

5月28日付で延宝7年12月3日の税収の包みの25両、延宝8年11月22日の税収の包みの29両銭83文の2つの包みを取り出して、大宮司の流鏑馬道具を拵える代金として、江戸の大禰宜へ出金した。

元禄11年の夏の内に、具足1両、太刀1振、むかばき、矢は征矢と鏑矢、箙1、馬具2通、シツコ、弓1挺、小手、半弓1挺、綾笠、この代金53両1分、銭713文、で江戸で大禰宜が揃えた。

 流鏑馬道具の件ですね。文面からすると税収は1日分の収入を一包みにして保管していたようですね。そして、適宜に組み合わせて出金という事のようです。なんとなく・・・本帳ってのがこういった金包みの元帳の様な気がしてきますね。皆納帳が租税の予定収入+収納を示すもので、税収及び雑収入の金額を書き込んで出金を記録して行くのが本帳かね?キャッシュフロー型の計算元帳ってことかね?複式帳簿導入以前だから、いくつかの帳簿の現金の部の元帳が本帳なのか?江戸時代の会計システムにも興味が・・・

 流鏑馬道具の詳細も気になりますね。具足だから、鎧を着込んで太刀を佩きというスタイルか?しかし、楼門正面の馬場っておよそ50mぐらいですかね?すると、馬を疾駆させて的を射るというより、馬に乗って移動し、止まって馬上から射るという感じのものなのかもしれません。現代の流鏑馬は結構長い馬場でやりますから・・・現代の香取神宮の桜馬場で行う流鏑馬は的1つですかね?

 矢が征矢と鏑矢というのが・・・流鏑馬では鏑矢でしょう。とがっている装甲を打ちぬくような征矢は何に使ったのか?シツコが不明?これは何・・・シツコがひと固まり?シツ・コかシ・ツコかシ・ツ・コ・・・頭の中のイメージとして最初に浮かんだのは漆胡瓶のしつこ、漆という文字のイメージ、流鏑馬の諸道具の中で漆というと・・・靴が漆仕上げの物だとか・・・具足ね?それでも小手があるから・・・射小手なら、装束は水干か鎧直垂でしょ?これがないことから、シツコは衣装系の物ではなさそうです。

 馬具の2通ってのも何?馬具って、鞍とかなら口でしたっけ?セットの数え方は知りませんが・・・具かな?鎧をつける場合と鎧直垂の場合の馬具は違う・・・唐鞍系の水干鞍と軍陣鞍・大和鞍とか、色々と考えてしまいます。知識が不足している・・・何か系統だった解説書は無いのか? 近代デジタルライブラリー - 弓術図解 独習秘訣 ふむ・・・弓の解説の中になんとなく音が似ているような物がありますね。四足弧箙しそくこえびら八張弓の解説の中にあるものですが・・・征矢を+重藤の弓の組み合わせで現れていますが・・・?小笠原流八張弓だと・・・四足弓だったかな?弓の説明である可能性も無きにしも非ず・・・無知を曝しているだけの様な気がしないでもない・・・弓道関係も興味があるので、似たような書物も目を通していますが・・・よくわかりませんね。

 とにかく、この弓は右の様なものであるとのこと・・・

 これで、流鏑馬道具は揃ったことになりますね。そういえば、大禰宜日記では流鏑馬は鏑流馬と表記されていますね。

 流鏑馬道具に関しては、この日記の中で何度も出てくるようですから、そのうち明らかになるかもしれませんね。さて、次へ進むとしましょう・・・

 シツコは案外、左の矢籠しこではないかと・・・和漢三才図会などを先に見ていれば早く気づいたような・・・近代デジタルライブラリー - 和漢三才図会. 巻第21〜52 これは後知恵なんでね・・・

6月10日神前繕普請料金、1両3分、銭150文大工に払う。
6月19日金剛寶寺江戸へ出発、27日大禰宜帰国する。
7月21日社家総代江戸へ出発、22日江戸に着く。23日金剛寶寺同道にて、出羽守・伊賀守へ金剛寶寺に代わって出府したと届けた。それから社寺総代ともう一人で三所の奉行所へ報告した。
24日片山三七・小幡三郎左衛門へ挨拶。
26日伊賀守へ明日の寄合に出席の伺いに行く。27日に大和守へ行き、修覆伺いをする。
8月3日出羽守へ御修覆願い帳について罷り出る。

 大禰宜・金剛寶寺・社家総代の三者で月番というような感じで江戸で造営の陳情を繰り返す体制に入っていくようです。お役所仕事って昔も今もあまり変わっていないような?役所を上手く利用するには・・・とにかく、書類を作らせて書類綴りを太らせていくと・・・どんな形であれ、その書類が完結させなければならなくなるから、なるべく都合よくなるように、書類を増殖させればよい・・・そして、陳情側にとって良い形での一件落着を見るようにする・・・そんな感じですかね。役所側は、なるべく書類を作らないように動いて、うやむやのうちに終わらせたいというのでしょう。従って、役所で指揮権を発動できる人間を動かす事ができれば、役所の機構は、書類とともに動きはじめるとも言えるのか・・・

 さて、続きは・・・この後およそ1年間は面白くない物が続きます。なんとなく、定時報告・・・

6月10日神前繕普請料金、1両3分、銭150文大工に払う。
6月19日金剛寶寺江戸へ出発、27日大禰宜帰国する。
7月21日社家総代江戸へ出発、22日江戸に着く。23日金剛寶寺同道にて、出羽守・伊賀守へ金剛寶寺に代わって出府したと届けた。それから社寺総代ともう一人で三所の奉行所へ報告した。
24日片山三七・小幡三郎左衛門へ挨拶。
26日伊賀守へ明日の寄合に出席の伺いに行く。27日に大和守へ行き、修覆伺いをする。
8月3日出羽守へ御修覆願い帳について罷り出る。

 こんな感じですね。役所への挨拶回りがメインになります。この時代の見廻という言葉がちょっと気になります。片山三七・小幡三郎左衛門へ挨拶と意味を取ってみましたが、原文では見廻なんですね。敵情視察みたいな感じなのか?何をやっているのか・・・情報収集という感じなのでしょうか?この後は、大宮司の所の3丁の鉄砲の件があって、翌元禄12年9月ごろまではお偉いさんと役所への巡回の記録の様なものになっています。どうやら、役所の中では予算化のための作業が続いているような感じです。

 面倒だから1年飛ばします・・・元禄12年の9月からになります。

9月2日社家総代江戸に出る。5日金剛寶寺と一緒に4か所の奉行所に出て、代わりに江戸に出てきたことの挨拶を済ませる。
8日伊賀守がやって来て、明日は節句なので10日まで寄合は延期、明日来いとのこと。
9日節句の祝礼に4か所の奉行の所へ出る。また、この日、八っ時に伺いに出た。10日大和守の寄合に出る。
9月11日国絵図の事について、千石の事について松平伊豆守へ持参して受け取ってもらった。この日、出羽守の所へ修復の帳面についてで行ってきた。戸田山城守が亡くなられた悔みを言いに能登守の所へ行った。
17日伊賀守の所へ明日の寄合について聞きに行った。この日、能登守の所へも挨拶に行った。そして、出羽守の所へも、修覆帳のことで出かけた。
18日大和守の所へ寄合に行くと、17日の晩より色々あって、断られた。
9月20日4か所奉行・柳沢出羽守へ出向いたら、御修覆奉行に竹村惣左衛門・平岡十左衛門が任命されたと、13日に既に、現地であちこち見分があったとのこと。大禰宜・金剛寶寺から言ってきた。そのお礼をしに行って来た。大禰宜・金剛寶寺は見分が終わったら来るとのこと。
元禄12年9月11日の廻状が回って、朱印が押されて平岡十左衛門に人足3人・馬4匹、駄賃伝馬2匹・賃人足2人で竹村惣左衛門に人足3人馬4匹、駄賃伝馬2匹・賃人足2人。右の者、下総の国香取明神御修覆の見分のため、明後日である11日の朝5ッ時に出発する人馬の用意をするように命令する。このことは先々へも連絡して滞りがないようにするように、ただし木下までで、それより香取までは船にて移動する。ちゃんと実行するように!元禄12年9月9日江戸大伝馬町馬込勘解由判 從千住下総国香取迄宿次 問屋衆中 
右の通り、廻状津宮惣右衛門方より持ってきたものを、写して使いに渡して返した。

この廻状が・・・何?これって朱印人馬ってやつ?命令先は千住から香取までですから、水戸街道で・・・千住宿・新宿・松戸宿・小金宿・我孫子宿・・・成田道で木下、ここから船で香取の津宮って行程ですかね?しかし、江戸の神宮修復の連中に知らせずに見分というのはどういったことなのやら?この廻状は朱印を持った者に先行して回される・・・そして、これもまた朱印状なのか?この書類の発行元は大伝馬町馬込勘解由ってことは・・・徳川家の三河以来の広域配送業者ってことですかね。公務による出張って、どんな手続きだったのでしょうか?ちょっと気になりますね。寺社奉行から、どんな経路で書類が動いて、実務担当者の所までやって来て、どんな認証によって実施されるのか?朱印はどんな朱印だか・・・興味は尽きません。

 とにかく、これで造営準備が大詰めとなっていきますね。それでは、見分の内容からは次回としましょう。
2013.07.02 












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