香取神宮をうろうろ(12)
 元禄の造営交渉・・・

 さて、金剛寶寺の境界争いがなかなか興味深くて・・・だらだら読んでいるのですが、ちょっと気になるのは道幅なんですね。道幅の直接的な記述があまりないのでわからないな・・・なんって読んでいます。

 まあ、一応道幅が2間から3間ぐらいあればそれなりの広い道となるのでしょうが・・・大坂は多分、元禄13年の造営の際に整備されたのでしょうから・・・あれが当時の大道だったのでしょう。荷車がすれ違える道幅ですかね。そういえば、元禄13年の社殿の造営は凄い速度であったような感じです。どこぞのプレカットセンターで加工した木材を現場で組み立てるだけというような感じであったようですから・・・かなり先進的な作業を行っていたような感じです。

 そういった材を運んでくるのですから・・・津宮から急なカーブは大坂の上の宮中までは無く、ただ一カ所、雨乞塚・金剛寶寺前が直角に曲がる事になるという感じですかね。このとき運ばれたもっとも長い部材はどんな長さだったのかが分かれば、雨乞塚の前の広場状の部分の広さが推測できるというわけです。この造営の際に鍛冶屋の伝さんの母が住む小屋が立ち退くことになっていますからおおよその雰囲気は判りますね。

 あと気になるのは、旧参道の神宮側の石段のあたりなんです。ここの道の付き方がね。なんとなく気になるのです。案外、元禄13年の造営の際の資材置き場として、この旧参道が出来上がったのではないのかと・・・もともとの参道は、右の写真の石垣の切れた先に見える押手社・要石へ行く道だったのでは?なんってね。その先の今は道が存在しないが・・・なんとなく、雨乞塚のあたりに伸びる道があって不断所へつながっていたような気がします。

 ですから、この右の写真のあたりは、古い道の所へなだらかにつながっていたのではないかと・・・

 そして、その道の側に神池があったのではないかと・・・案外この細い道沿いに押手社あたりまで大禰宜家関係の屋敷が立ち並び、今の総門の下あたりから大宮司家関係の屋敷が立ち並んでいたのではなんって・・・

 こんな具合に推測を繰り返すのですが・・・もっと古い時代のメインの参道は、御神井道と勝手に思っていますから儀式空間がどうなっていたのか?なんって考えてしまうわけなんです。神宮の中心部分は台地状になっていて、元禄13年の造営に際して、ここには井戸がないから井戸を掘ってくれなんて請願していますから、事実上この場所では生活ができない・・・手水も麓の井から運んでいたようですからね。

 神宮の本殿から北西側の森林のあたりには、遺跡があるような?石斧や石棒が出たとかでないとか・・・皿とか模様の入った土器があるとか・・・何かの本で読んだような?祭祀遺跡なのか、住居跡などがあるのか不明です・・・埋蔵文化財地図でも探さなきゃ・・・多分、所轄は・・・香取市役所の教育部 生涯学習課ってやつだな・・・市役所5階か・・・香取神宮の遺跡については江見水蔭が何か書いてたっけ?記憶が・・・後で彼の著作を 近代デジタルライブラリー - 検索結果 読んでみるとしましょう。水蔭が考古遺物に興味を持ったのが明治30年代の後半で、著作として現れるのが明治40年ごろ・・・だな。Stanley Waterloo - Wikipedia, the free encyclopedia の The Story of Ab - Wikipedia, the free encyclopedia に傾倒してか・・・考古遺物をからませた小説をずいぶんと書いていますね。水蔭の書作は読み物として面白いので・・・大禰宜日記に疲れたら、軽い読み物として眺めますかね。

 例によって根拠が乏しく・・・なんとなくなんですがね。まあ、日記類を精読すればヒントが出てくるような気がするのですが・・・水蔭まで引っ張り出すと・・・研究らしくなくなるかな?ああ、私もヘンリー・キャヴェンディッシュのように生きられれば良いのですが・・・残念ながら金持ちではないので・・・安上がりな研究ごっこを行うというわけです。

 さて、元禄13年の造営関係でも眺めながら、香取神宮を調べるとしましょう。案外、造営関連のことから、それ以前の古い姿についてのヒントが出てくるかもしれませんからね。 香取大禰宜家日記 1 - Google ブックス こいつをだらだら眺める事にしましょう。

 最初の方は年表のようなものですから、ざっと眺めて・・・83ページ以降が元禄11年からの動きが詳細に記されています。どんなものやら・・適当に拾っていきましょう。

 慶長11年に徳川家康によって造営が開始された香取神宮もそれから80年以上が経ってみんな壊れてしまったから、修復をお願いしますと元禄5年正月に造営願いを寺社奉行へ提出したものから、かなりしつこく請願を繰り返したようです。いついつに誰誰へ・・・ってね。そしてついに、修復が決定したようで・・・

 元禄11年2月9日大宮司が呼び出されて、見分するから、見分個所の絵図を提出するようにとの指示が出ます。大宮司に対しての指示だったので、やや臍を曲げたのがいたようですが・・・とにかく、大宮司邸に集まって、そのとき残っている建物は墨書きで、形が無くなってしまった物は朱で描いた図が出来上がります。

 しかし、この絵図には愛染堂と経蔵が描かれないことに金剛寶寺は不満を持ちます。そこで、金剛寶寺は奉行所へお伺いを立てると、絵図に書きいれるようにとの指示を受けます。それにもかかわらず、愛染堂と経堂はその絵図には描きいれられず、修復の必要のないものと言うわけで、それを付箋で示し、絵図は金剛寶寺が別紙として出す事になります。このことは、後で問題になってきます。そして、大戸神社も末社なので、修復の見分に入れるかどうか確認を入れると、独立した神社になりたいのか修復の見分は不要との話になります。

 そして、早くも元禄11年2月晦に見分の役人と棟梁たちがやってきます。宿所は大細工所と正判官所を当てます。・・・大細工所ね・・・神宮内の家屋や式典で使うような道具を作るところかな?そういえば・・・白馬祭の馬面は大細工が製作して、大仏子に描かせ・・・ってありましたっけ。馬面は惣持院と言う真言宗の寺が納めるとかありますから・・・惣持院に関連するのか?木材や石材関連でしょうね・・・よく寺社つながりで木材組合とか大きな石材店に化けているのもあるような?正判官か・・・これはまだ目にしてませんね。判官・・・じょうと読ませるなら四等官の3番目、検索をかけると、 史料纂集 香取大禰宜家日記 - 続群書類従完成会 - Google ブックス 権禰宜と並んで正判官が現れますね。大宮司・大禰宜の下の実務担当者の長の屋敷という事ですかね?香取神宮の職制はそのうち気が向いたら・・・そんなところまでまとめるのは面倒ですから・・・宿所に見分の役人が入ると・・・

 早速、大宮司が絵図を持って宿所に行くと、見分の役人たちは、今着いたばかりで、くたびれたので明日に見るとのこと・・・江戸から出てくるんですから・・・2日行程で江戸から香取ですから・・・松尾芭蕉は、江戸から行徳へ船で移動、そこから布佐まで木下街道を歩いて、布佐に到着、夕方は漁師の小屋で休み、月が明るい夜に船で鹿島へ向かっていますね。ここで、ちょっと時間的な飛躍があって昼から雨で月見なんか無理!って夜は仏頂禅師の所で休み明け方、禅師に起こされて月を眺める事になります。芭蕉一行はどのくらいの船旅だったのか不明ですね。行徳から布佐まではおよそ30kmぐらいですかね?早ければ一昼夜、いずれにせよ余裕を見て2日行程ですかね。そして翌日から見分が始まります。

 翌3月1日には本殿・中殿・拝殿の見分が行われた。
 2日は末社。堂塔などの見分が行われた。
 3日は鹿島神宮への参詣の話が出て、家来などをつけて大禰宜が案内しようとすると、見分の者は無用と言うけど、御馳走のために案内に出る。
 4日には側高・返田の見分が双手に分かれて行われた。その日の八つ時に香取から佐原へ出発した。楼門・廻廊・御供所・神楽所、そのほか末社、今は形の残らない物も、大禰宜家の古来の神宮の絵図に乗っているような物も、作ってくれるとのことであった。

 香取まで来ると、日帰りで鹿島詣でを行うという事になるようです。まあ、この行程は楽かな?船旅ですからね。既にこの時代は大船津まで船で、それから先は陸路ですかね。もっと昔なら、武徳殿へ入る道の所、さらに昔なら御手洗の所まで船が出入りしていたようです。中央からのお役人は供応を一度は断るが・・・はたしてどうなったのやら?気になりますね。そういえば・・・撰集抄にも鹿島神宮が出てきましたっけ・・・しかし、ちょっと鹿島神宮の様子が変と・・・巻七第一三 鹿嶋明神事・・・
 治承の頃、常陸鹿嶋の明神に参侍れば、御社は南向に侍り、前は海、後は山に侍り。社いらかをならへ、廻廊軒をきしれり。潮たにさせは、御前の打板まては海になる。潮だにも引かば、砂にて三里に及べり。南は、海にてきはもなく侍れは、昼はみなれ棹さす舟を見、夜は波に宿かる月をみき。北は、山にて侍れは杉村おちこちに鳴く時鳥の初音いちはやく聞く、草むらに露をそふる夜の鹿、あかつき叫ぶ猿のこゑひら山おろし波の音よに物あはれに心凄く侍り。東西は野辺なれば、色々の花は錦を覆へるに似たり。・・・・コリャ鹿島神宮じゃないよね。鹿島香取と対で見に行ってるはずだし・・・これはどこ?息栖神社へ参って終わりにしたとか?折角来たんですから鹿島・香取・息栖の三社をまわってもよさそうな気がしますね。

 こんな具合に、見分は順調に進み、末社の見分が済むと、八つ時か・・・ってことは2時ごろには神宮を発ってしまったという事ですね。これで、見分は終わり・・・存在が確認できたものに関しては建設されることが決せられることになるであろうという事なのでしょう。

 残念なことに、この見分で使われたであろう神宮の配置図とかは見当たりません。同時に作られた神幸祭の絵巻の方は香取群書集成3にその元か、その系列の物が掲載されていますね。ちょっと、それからも社殿の様子を拝借しましたが・・・この見分があった時の香取神宮の様子はどんなものだったのでしょうか?気になります・・・まさか・・・右のみたいな状態じゃないでしょうけど・・・まさかね・・・これはNHK大河ドラマ平清盛の破れ門ですけどね。ここまで壊れてはいないでしょうが、そこそこぼろくなっていたのでしょう。香取群書集成は8巻ほど出ていますが・・・目を通さないといけないかな・・・なんってね。時間が無くて・・・

 しかし、慶長年間の造営はどんな具合だったのやら?これも気になりますね。今のところ、慶長12年に竣工した造営に関する資料は目にしてませんので、何とも言えません。鹿島神宮だと、家康の造営した本殿は奥宮に化けていますが、香取神宮では消滅してますからね。このあたりの違いは何か、ちょっと気になります。まあ、先へ読み進んでみましょう。

 3月15日、大禰宜と社家総代が見分のお礼に奉行所へ行った。16日も見分役の所へお礼に行く。18日には寄合に大宮司・大禰宜・金剛寶寺・社家総代が出席してお礼を申し上げた。すると、経蔵・愛染堂はどうして絵図に書かれていないのかとの話になり、それぞれ弁明することになった。社家総代は、絵図を作成するときには私用で出かけていて、大宮司や金剛寶寺などのやり取りについては知らない、経蔵・愛染堂は修復する対象ではないかどうかについても聞かれたが、昔からあったようで、古図などにも出てくるものですが、修復すべきものであるかそうでないかは分からないとの口書をしてきた。大宮司・大禰宜・金剛寶寺はどんな口書をしたのか分からないが、大宮司は、何度も呼び出されて吟味を受け、謝罪の文書を取られた。

 さて、事件にと発展します。どうやら、大宮司と金剛寶寺との間には確執があるような?まあ、権力闘争の類なのでしょうね。境内の中に寺院勢力が経蔵と愛染堂の形で入り込んでいますから。もしここで、愛染堂と経蔵も修復の対象になったら、神宮造営に関する前例を生み出す事になるとでも考えたのでしょうか?愛染堂はアサメトノの神道用語で誤魔化すにしても・・・経蔵は明らかに仏教のものですから・・・と考えてしまいます。金剛寶寺がこの2つの物件の記載について奉行所に問い合わせて、記載するようにとの指示があったのですから、これを順守しなかったことについて問題が発生するという事なのでしょう。

 多分、大宮司は前例を盾に取れば通ると考えたのかもしれません。それと、案外神宮の社殿が崩壊寸前になっていたのでは?なんって・・・経蔵と愛染堂は国家としての造営とは関係ないので、比較的小まめに手を入れているが、他の神宮の建物は原則として20年ほどで造替されるので、管理されておらず・・・壊れるに任せていたとか?そうでなければ、完全に隠滅して記録だけが残っているような状態になるとは思えませんからね。案外・・・国衙の権限も包摂した形の神宮だったために、修理の請求先が自己であったことに問題があったとか?鹿島神宮は大宮司・大禰宜とは独立して国衙の権限を持つ鹿島大掾氏がありますから・・・このあたりの差かもしれない・・・鹿島神宮の造営を調べる時に、ちょっと気にしておけば何か出てくるかもしれません。

 興味深いのは、関係者をバラバラにして尋問して、口述書を取っていることですかね。その結果・・・大宮司が不誠実であったという事なのでしょう。一人だけ事実認識が違っていたために、その責任を取らされたのでしょうね。金剛寶寺と大禰宜は、大宮司が指揮して記載を止めた、大宮司だけが修復には関係ないから・・・とかやらかして、社家総代は知らないよ〜ってね。その結果は、4月9日に発表されます。さて、次の文は・・・

4月9日寄合で大宮司・大禰宜・金剛寶寺・社家総代の4人が呼び出されて、大宮司を罷免し、神領から所払と申しつけられた。それに関して、大宮司から証文を取られた。

その証文は次のようなものだった。

この度、香取明神の破損御見分に関して、社中の絵図を作成するにあたって、愛染堂・経蔵を得ずに載せなかったことについて、金剛寶寺は御見分絵図に載せるようにと、大禰宜もそうするようにと言っていたが、奉行所への問い合わせでも、社中の建物をすべて描くように言われていたにも関わらず、絵師を帰してしまったので、描き載せる事はできないと言ってしまい。張り紙にしてしまい、奉行所へもお伺いを立てなかったのはすべて私の一存でによるもので、御修復の御見分を妨げてしまいました。・・・神職は解かれて、近在も徘徊することはしません。金剛寶寺・大禰宜に対しても仇がましいことはしません。・・・というわけで、前大宮司として署名したというわけです。

 その後、退出しようとすると大禰宜・金剛寶寺・社家総代に、前大宮司を香取界隈に近付けないようにと指示がでた。
10日朝五ッ時、帰るから挨拶に行くと、御朱印・修理料金・神領水帳の重要な三点セットはよくよく確かめて、大禰宜が受け取るようにと言われた。そして、御神役の事は、新しい大宮司が任命されるまでは、大宮司死去やその他の時の執行を参考に、名代を立てるなどして今まで通り行う事、前大宮司の妻子はそのまま家に住まわせておいても、所払するも本人たち次第でかまわない、諸道具は作らなくてよい。合わせて神事の道具等も御修理金でもできる物、保留となっているものなど、その分は予定して停め置くように、公用に関しては、新しい大宮司が決まるまでは、大禰宜一人で担当するように、建物の件は検討して、建物に管理者の無いものや壊れてしまって管理していない物にも、管理者を置いて、ときどき見回るように、これら8項目が申しつけられた。三人は早速帰って、その旨を神官たちに伝えるようにとの指示であった。

 ちょっと、意味がとりにくいものがあって・・・まあ、強引に書き直すとこんな感じですかね。結局のところ、大宮司は罷免、所払となります。そして、このことに関して証文を取られます。

 支配の根源になるものってのが分かりますね・・・朱印状と神領水帳ですね香取神宮千石の神領を安堵する朱印状、そういえば今は12桁のコードになってしまいましたが登記済証には大きな朱印が押されていましたっけ・・・登記済証が朱印状であるとすると・・・登記済証は不動産の権利を表すものじゃなくて、登記の申請人した人間が登記名義人本人であることを示す本人確認手段ですから・・・なるほど、だからその実施権を示す水帳=検地帳+配当帳のセットが必要なのかね?

 そうだ・・・鹿島神宮文書の中に朱印状がありましたね。徳川秀忠・家光・家綱・家重・家茂などの朱印状の写しがあって、その文面を知ることができますね。万延元年の家茂の朱印状には・・・

鹿島大明神社領常陸国鹿島郡所々散在、都合貳千石事、並社中面々居屋敷諸役等免除、依當家先判之例、永不可在相違、者可抽國家安全之悃祈之状如件、万延元年九月十一日 御朱印 大宮司

 なんだ、朱印状は徴税免除の書類なのか・・・私もこういった朱印状が欲しい・・・神領水帳=検地帳が徴税権の所在を示し、配当帳は・・・何だ?名称からすると徴税の分配先ってことですかね?・・・歴史用語の事典を買わねばいけないのか?ネット上の情報では香取群書集成6巻に何やら在るような・・・近日中に確認してこなきゃ・・・修理料金は現金のことですね。そりゃ重要だな・・・大宮司管理の物を大禰宜が管理することになるか、あとは常識的なことで・・・

 建物はかなりいいけがんな管理であったような?指示が出ていますから・・・ちゃんと管理せよ!ってね。

 ふと、江戸時代の土地登記って気になりますね。私の知識だと、旧登記法までですから・・・土地の登記簿は、不動産表示をしめす表題部と所有権の移り変わりを示す甲区に、地上権とか永小作権を示す乙区、さらに地役権の丙区だったっけ・・・そして先取特権・質権と抵当権なら丁区に記載、それから賃借権を戊区だったかな?資料が手元にないから・・・今は、甲区の表題と乙区の権利部の2部構成ですね。ときどき実務をやってたから・・・と言っても、遊び場の競売物件の取得に関連してですね。裁判所は職権での権利移転ですから簡単ですね。江戸時代の権利関係の書類も調べてみると面白いかも?さて、次の日記の文は・・・

10日の4ッ時、大禰宜と社家総代は江戸を出発した。風雨がひどかったので11日の八ッ時に帰宅した。七ッ時に神官たちに、江戸で申しつけられてきたことを言い聞かせ、大宮司の留守宅にも伝え、その日のうちに御朱印を大禰宜が受け取った。
12日神官たちを連れて、御修理金を封をしたまま、431両3分と銭8貫173文を大禰宜方が受け取った。
13日御修理料、申の年より、子の年までの17年間の勘定が18日に決定し、19日に17年間の決算の認証作業を終えた。
20日神官たちを集め、神領水帳12冊・配当帳1冊を大禰宜が受け取る。
21日御鎰4本、大禰宜が封をして受け取る。
23日江戸へ出発、24日八ッ時江戸に到着。
25日朝五ッ永井伊賀守へ大禰宜・金剛寶寺・社家総代の三人で出かけ、先に申しつけられていた8カ条を実行し、事務の引き継ぎも終えたことを報告した。
26日永井伊賀守に御修覆願に出る事を窺いに出したところ、明日27日に来いとのこと。
27日千人で出かけ修理願いをしようとすると、先ずは大宮司から受け取ったものを聞かれた。御朱印状石高千石は5通で箱入り、修理料431両3分、銭8貫177文(?173文じゃなかったっけ?)、神領帳面13冊12冊は水帳で天正19年11月帳、1冊は配当高帳で天正19年10月帳、本社御戸鎰は古新4つを大宮司方より今月の11日金剛寶寺・社家総代が立ち会って、大禰宜が受け取ったと元禄11年4月27日付で三者が署名し寺社奉行所あてに認め、伊賀守へ差し出した。

 香取から江戸まで、基本片道2日行程、往復4日でも結構小まめに動いているようです。まあ、スタンダードな交通機関利用の定例行程の様な感じですから・・・時間的なものだけで苦痛は無いような?ふむ・・・修理金の額が4文合わないぞ・・・誤記か?結構真面目な書類仕事をやっています。役所の書類仕事のスタイルなど、基本的には律令時代の系譜を引きづっていますから・・・馬鹿にしたものではないのでしょう。しかし、今もそれほど事情は変わっていない・・・さらに、権利関係の認証は当事者またはその代理人が出頭してしなければならないという出頭主義なんですね。

 4文の差は何だろう?さしの関係か?1文銭100枚を紙縒りでまとめる時は、所謂96勘定で差し料4文だから、1つが何らかの理由でばらけていたか?それを差しに通したか?4文は出目?ちょっとだけ気になります。しかし、こういったときの計算はどんな具合になってたのやら?妙なものが気になります。

 この後、お礼まわりと、大宮司の免職に伴う事務書類が続きます。・・・この辺で一度切るか・・・それでは、次回!
2013.06.30 












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