香取神宮をうろうろ(10)
 香取神宮の社殿・・・

 さて、香取神宮のあたりの地理を理解するのに、もうひとつ本がありますね。 近代デジタルライブラリー - 香取郡誌 この本です。ざっと眺めると、名勝の中に鹿島神宮界隈の解説が出ていますから、こいつでもいちょっと地理を調べる気になりました。集大成してからやればよいのですが、だらだらメモを取りながら遊んでいるのが好きなんでね。

 さてこの本の313コマあたりから鹿島神宮の事が出てきます。それでは、本文を口語にしながら内容の検討に入りましょう。

 亀甲山 香取町香取神宮の宮域をいう。中央が高く四方に低くなっていて、あたかも亀甲のの形をしているのでこの地名がある。他には、遠くから眺めると、大亀が這っている形をしているからともいう。域内は昔は大竹林だったが、時が経つにつれて樹木は移り変わり、今は鬱蒼とした大杉林となっている。古いものでは概ね千年を超えるぐらいのものがある。

 大昔は大竹林、その後は欟の木で、現在では杉の木とか変遷があったような話は色々な所で見かけますね。もとは大竹林か・・・孟宗竹が日本で普及するようになるのは1740年ごろでしょうから、この時代の大竹林は真竹なんでしょう。現在香取神宮のまわりだと、破竹も目にしますね・・・しかし・・真竹か・・・真竹の経済的な価値が高かったのか?それとも、単に放っておかれたので、大竹林になっていたのか?ちょっと気になりますね。ただし、竹ってさまざまに工作できますから、それなりに価値があったのか?気になります。もし、価値の変遷で竹林を止めて、ケヤキなどに変えたり杉などにしたりしたのかもしれませんが・・・少なくとも、杉材に関しては利根川流域では船材として高い評価を得ていたのは間違いないと思うのですが・・・まあ、現在では船材としての需要はあまりないし・・・どうなのでしょうか?さて、次の文を・・・

 宮域外に接して、七橋八坂十井等の名勝がある。神宮を詣でるものは、必ずこの七橋八坂を通らなければならない。七橋を、表口の大坂橋、表口津宮中央の五反田橋、山崎口の萱田橋、丁子口の小山橋、今は無い下井橋、吉原口の氷室橋、佐原口の地口橋と名付け、八坂は表口にある大坂、亀井より宮中台に達する亀井坂、原町口へ達する若宮坂、崩壊して廃するにより安永年間に、その脇を開鑿して新坂にした下井坂、氷室井より神宮宮下口へ達する氷室坂、神山東南口に達する御手洗坂、奴久井より神宮桜馬場に達す奴久井坂、今崩壊して懸崖となっている幸若坂がある。

 七橋か・・・表口の大坂に橋があったのか?これは所在不明ですね。山崎口が分からん萱田橋・・・消去法で確定するしかないか?ちょっと、列記してみるて、それから考えるか・・・

 助っ人が・・・ 古事類苑に・・・shinku.nichibun.ac.jp 七橋之事 大坂橋 津宮の方より神宮に來人、五段田橋、此橋を渡て到なり、 五段田橋 十一月七日夜、此橋を祭るなり、 萱田橋 津宮丁子の方より來人此橋を渡り、奴久井坂を登て到なり、 小山橋 丁子村の方より來人此橋を渡り、御手洗坂を登て到なり、 下井橋 新市場村の方より來人此橋を渡り、下井坂を登て到なり、 氷室橋 吉原村の方より來人此橋を渡り、氷室坂を登りて到なり、 地口橋 左原村の方より來人此橋を渡り、眞禰井坂若宮坂を登て到なり、此橋邊の水田字を地口と云、此神田の名なり、〈◯中略〉右是を七橋と云、何も少橋なり・・・だって 古事類苑全文データベース - Kojiruien 凄い!このデータベース・・・早く完成するといいな!
  • 大坂に大坂橋、津宮中央に五反田橋・・・これは五段畷のあたりですかね?十一月七日夜、此橋を祭るなりだから・・・これが表口
  • 萱田橋 津宮丁子の方より來人此橋を渡り、奴久井坂を登て到なり・・・これが山崎口
  • 小山橋 丁子村の方より來人此橋を渡って行くのが丁子口で、神宮へは御手洗坂を登て到るわけだから、御手洗坂の下のT字路の北の方の道ですかね?
  • 下井橋 新市場村の方より來人此橋を渡り、下井坂を登て到なりという事は、表参道の鳥居の前を横切って奥宮へ行く道ですね。崩壊して廃するにより安永年間に、その脇を開鑿して新坂にした下井坂か・・・奥宮の近くの急な所か?
  • 吉原口・・・氷室橋という事は、氷室坂にあるのかね?氷室坂が吉原口であると決まる?確かに、香取神宮南東の吉原方面につながる道だからね。旧大宮司邸・現神徳館の前を南に行く道ですね。よって、これが神宮宮下口となるのでしょう。
  • 佐原口・・・地口橋、旧表参道っぽいですね。違うかな?地口橋 左原村の方より來人此橋を渡り、眞禰井坂・若宮坂を登て到なり、此橋邊の水田字を地口と云、此神田の名なり神田が変わっていなければね。いや、違うかも若宮坂というのが・・・若宮社はかつての金剛寶寺の北側の道ではないかと・・・その先に若宮社がありますから・・・眞禰井坂は又見神社へ至る坂か?旧参道の当たりにあったかもしれないくねくねした道なのか?
  • 原町口・・・若宮坂これは、原町の南の道で大坂の上の宮中、金剛寶寺裏を通る道でしょう。佐原口は又見神社経由若宮坂なのか?
  • 神山東南口・・・御手洗坂、これは御神井道でしょう。
  • あれ?分からない・・・現在の大坂原町青年館から登る道、もしかしたら別登昇路ってやつはどれに属するの?
 現地で聞き込みをすれば直ぐに分かりそうなものですがね。それでは面白くない・・・のんびり検討していけばOKですね。亀井が分からんね。宮中台につながるのは、護国神社へつながる坂か?要石経由で宮中台・・・

 八坂は香取郡誌によれば表口にあるのが大坂、亀井より宮下台に至る亀井坂、原町口へ達する若宮坂、崩落して安永年間に脇を開鑿して新坂を作った下井坂、氷室井から神宮下口に達する氷室坂、神山東南口に達する御手洗坂、奴久井より神宮桜馬場に達する奴久井、現在は崩落して懸崖になっている幸若坂・・・古事類苑とか、別の本を眺めると・・・大坂、眞禰井坂、若宮坂、下井坂、氷室坂、御手洗坂、奴久井坂、別登昇路ってなるのか?赤字にしたのは一応所在が確定しているもの亀井坂が分からん・・・幸若坂は


香取神宮のあたりの小字図が必要だ・・・土地宝典があれば簡単だよな・・・香取市立図書館にあるようですね。こいつをコピーしてもらうしかない・・・今できるのは・・・競売物件にくっついている公図を見ること、運が良ければ香取神宮の近くが出ていれば・・・あ!ビンゴ、どうやら御神井は無番地のようで・・・ほんのわずかですが、公図を見る事ができました。不動産関連の修業も役に立つというわけです。

 でも、やはり実地調査の方が面白い・・・

 というわけで・・・ちょっと、香取神宮を歩いてきました。でも・・・なかなか道は難しい・・・香取神宮は基本的に切り立った丘の上にあるので、登り口がかなり限られています。そのため七橋・八坂、そして十井という事になるようです。上に列記したものの内、大坂と神山東南口はチェック済みですが、その他の坂は?というわけです。

 さて、右の写真は土産物屋が立ち並ぶ表参道の大鳥居の左側の様子です。ここから坂道があるんです。行先は、奥宮と飯篠長威の碑の間を通って雨乞塚に出るところです。下井坂なのかな?というわけです。2人の胸像があります。左側は日航機のよど号事件で身代わり新次郎と呼ばれた11代山村新次郎氏ですね。右は10代山村新次郎・・・この像の左に何やら碑があってそのさらに左に坂があります。

 この道は新市場から、現在の表参道を横切って大坂とつながる道ですから、重要な道なのでしょうが、細くて急な坂ですね。坂を登り始めると、左側に道祖神があり、さらに登ると、左側の急な斜面に穴倉がありますね。木で塞がれていますが、何かを貯蔵したあとなのでしょう。

 がけが崩れてその脇に道をつけた新坂というのはどのあたりのことを言っているのか不明ですね。

 雨乞塚から行くと左の写真の様な道が続きます。写真左が飯篠長威の碑があるところ。正面が奥宮です。奥宮の前を左に下っていくと、表参道の大鳥居脇に出るという、下るには良い道です。

 現在は、雨乞塚は十字路ですが、なんとなく、旧参道の下り坂は現在の様なものではなかったような気がします。

 地形からすると、左の写真の奥宮前で三叉路になっていて、左が下井坂、石段が奥宮、中央が、私邸の進入路、右が駐車スペースの様な所につながっていますが、この道が山林の中をつながっていたのではないかと・・・この写真の赤い右の柵の側が金剛寶寺、左が不断所というような気がします。土地宝典があれば明瞭に・・・近日中に・・・しかし、歴史研究に土地宝典か・・・私は俗物だね、公図も良いが法務局は高いから・・・別口で・・・

 さて、現在の旧参道は無かったという事にして、大坂へ少し行ったところが、多分金剛寶寺の裏門等があった道ではないかと思われます。表参道の所から、香取駅方面への登り座から眞禰井坂で、若宮坂を登て到なりという感じですかね?

 右の写真が、表参道入口から香取駅方面に向かう道を少し登った所の左の斜面に石段があってそれを登ったところにある八劔神社・若宮神社と合祀されたものです。この少し手前の道を左に入れば又見神社に至り、この八劔神社・若宮神社の前を右へ行けば・・・まあ、この神社の階段から真っ直ぐに進めば雨乞塚の近くに出られて・・・佐原からだとこの道だと言ってますから多分、佐原口というやつなのだろうと思います。従って、旧参道は廃仏毀釈以降、金剛寶寺などを削って開削した道ではないかと思われます。

 山林になっていて、その山林管理の道はあったような感じです。それが、奥宮の所から駐車スペースの様な所で切れている道で、これがうねうねと続いていたような感じです。

 たぶん、私邸の庭先につながりその裏あたりからまた細い道がつながるというような私道のようなものが、現在の旧参道の直線道の前身ではないかと思うわけです。多分、人力車とかバスでも通す都合だったのでは?なんってね。

 あれ?・・・旧参道と現在の参道に分かれるあたりって、戦後すぐの米軍の航空写真でも、大がかりな地形の変化が分かりますね。現在の駐車場のあたりは、皇紀2600年のあたりで大きく変化しているような感じです。戦時中にもずいぶんといじりまわしていたような?そして1970年あたりまで、ずいぶんといじっている・・・

 比較的分かりやすいと目星をつけていたのが、氷室坂です。氷室井があって・・・という吉原口です。神宮のまわりを巡っている道を歩くと、ラッキーなことに氷室井の碑が立っていました。氷室に入れる氷を作るには規模が小さいような?まあ、井として残っているだけなんですから仕方ないですね。碑には香取神宮七井之内 氷室井とありました。こういった碑が7つあるのか?気になります。

 そして、その近くに坂が・・・多分これが氷室坂なのでしょう。上りは嫌いなんですが・・・行ってきました。

 左の写真が吉原へ向かうと思われる道です。先に竈神社があるらしいことは判っていますが・・・そのうち、出向いて見るとしましょう。

 坂を上っていくと、末社姥山神社の木札が立てられていました。

 どんな社だか見当がついていますから登っていく気力が・・・多分弧座山と同じパターン・・・それでも好奇心が勝ちました。

 しかしながらお約束の通り、同じ形の社があります。

 この社なんかも、まわりの眺望が開けているのであれば良い場所にあると思うのですが・・・この場所を灌木が覆うようになったのはそれほど古い時代には見えないのですがね。近頃は、遠くが見渡せる場所というものの価値が下がっているのか?遠くが見えないのなら、登る価値はあまりないよ〜って思うのです。

 ここから先は、立派な構えの家々が立ち並んでいます。そしてもう一本の坂と合流して神徳館、つまり旧大宮司邸の前へと続きます。

 御手洗・御神井への道はチェック済み・・・あとは・・・六所神社脇の道ですね。総門脇から社務所の裏を通って香雲閣を経て桜馬場へと続く道につながる坂道を探すわけです。

 この六ヶ所神社と桜馬場売店の寒香亭の間の道は・・・よくわからない・・・右の写真のですけど・・・寒香亭の下をぐるっと回って民家の庭先に出て原町青年館の所へ出る坂につながっています。多分・・・この道を下りて、右へ行く道があるような感じです。ちがうか?香雲閣の東側に道があるような?香雲閣の下を通って下りる道がね。それが丁子方面からの道で山崎口で・・・奴久井坂を登て到なりというやつなのでしょう。

 桜馬場の寒香亭の右の写真とは反対側を下りて見ました。おぼろげな記憶では下りた先に石碑があったような?そんな記憶が・・・というわけで、そちら側を行ってみました。

 石の階段でなんとなく良い感じでしたから・・・大昔の記憶では、ここはもっと開けて明るい空間だったような気がしますが、草木がはびこって人間の入るような空間でないような・・・ここは、庭園だったはずなんですが・・・

 人の手の入っていない自然も好きです。庭園も好きですが、中途半端は良くない・・・ここは、やがて、自然の中に埋没してしまうのでしょう。まあ、この場所自体は・・・安永年間だから1780年ごろに一度整備されたのですが、荒れてしまって明治6年だから1873年に再開発・・・という場所なんです。そろそろ、大がかりに手を入れて美しい庭園に返り咲かせても良いような?何しろ、このあたりからは既に水郷の美しい風景は見る事ができませんからね。

 数字が書かれた石碑があったような記憶で、ぶらぶら・・・民家の庭先みたいな場所の脇に石碑がありましたね。

 どんどん、自然に蚕食され、人の手のあとが失われつつあるわけです。まあ、美しさというのはなかなか厄介ですね。

 良く手入れされて、自然のように見えるような美しい庭園と、自然に帰ろうとしている庭園の違いですかね。

 桜馬場には、寒香亭と今はありませんが、香取亭があったようです。建物の雰囲気は、寒香亭とほぼ同じですかね。

 ここの風景は、明治6年にイメージされたものとは完全に違ったものになってしまったいますね。

 ここは、水郷の景色を楽しむ場所で、樹木の葉を見に来る場所ではなかったのです。この写真の上にカーソルを持っていくと、昔の景色を合成した写真が現れます。如何に異なる風景になってしまったのか?眺望が失われた今となっては、この寒香亭もいつまで存在できるのか?ちょっと気になります。桜の木の後に細い桜の木が出てきますが、どうやら同じ木のようです。どちらの景色が好ましいか?

 本殿脇の鬱蒼とした木立から、ぱっと明るく眺望の開けた桜馬場の方が、視覚的な効果は非常に高いような気がしますが・・・

 私は・・・右の、古い写真の様な眺望を望みます・・・この写真は多分、本殿脇へ通じる石段の上に脚立でも立てて撮ったのではないかと思います。

 きちんと同じアングルで撮影してみたら比較として面白いのではないかと・・・昔の絵葉書のセットでも持って同じアングルの写真を再現するのも面白いかもしれませんね。

 新旧の比較か・・・まあ、それもまた面白いかもしれませんね。

そういえば、この桜馬場に入る道の脇に、水盤がありますね。元禄13年に造営されたときのものが・・・

 左の写真が、その手水舎におかれていた水盤ですね。現在の手水舎の水盤に比べると、ずいぶんと小さいですが、なかなか立派なものです。

 この水盤が置かれている場所には、かつて大砲が置かれていたようです。多分、日露戦争の戦利品でしょう。

 まあ、桜馬場が華やかな場所に変わると・・・こういった水盤も、再び整備されて活躍できるかもしれませんね。この香取神宮桜馬場とか香取神園と呼ばれる場所は明治6年に香取保禮、伊藤泰歳、額賀大重などに人たちと社人が整備して庭園の区画を決めて明治8年に稲葉正邦が100株の桜の木を植え、清宮秀堅がそれをついで、その後土地を買い増して規模を大きくして来たものですからね。また、誰かがそういった事を始める時が来るのでしょう・・・

 おっと、桜馬場には神宮の本殿裏へつながる2つの道があり、この馬場につながる道は3本ほどあるという事にまりますかね。まあ、これで大体の亀甲山とよばれる鹿島神宮への道は理解できたような気がします。なんだか、文献に出てくる断片を組み合わせて全体を構成するんですから・・・なんとなく、ジグソーパズルをやっているみたいな感じです。しかし、最終的にどんな絵になるのか分からないでやっているような感じです。

 亀井が亀井坂が・・・宮下台だって・・・宮下って旧大宮司邸=神徳館のあたり・・・このあたりの道となると・・・Googleの地図だと(有)日本福利厚生社というのがある道ぐらいですね。この道は多分・・・神徳館から南に下ると二股に分かれるところがあって、その近くに出るような道があるような・・・単に、現表参道とか?

2013.06.25












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